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 三章 奇襲

「北北西方面の処理完了を確認。引き続き警戒を厳とせよ――待てど暮らせど本体は現れない。致命的な強さの敵でもない。何が目的だ?」
 吹雪から来た異様なテンションの報告に応じると、佐野 和輝(さの・かずき)は額に手を当てて唸った。元々一連の事態に何らかの意志を疑っていた和輝は既に撤退を視野に入れている。早期警戒網で接敵し、負傷したウィルの例もあった。今の所軽傷や疲労程度の損害で済んでいるが、これ以上の攻勢に出る気配があるなら即座に撤退を進言するつもりだった。
 だが、誰も、何も、これ以上の事態を進行させようとしてこない。それが不気味だった。
「焦っても仕方がない。十分に警戒はしておるのだろう。見たところ『急場凌ぎの網』というのが現実的な所だ。相手はこちらの戦力を熟知しているわけではない」
「だといいがな」
 禁書 『ダンタリオンの書』(きしょ・だんたりおんのしょ)が枯死した下草をサンプルボックスに入れながら落ち着いた声で話す。話すうちにまた和輝に連絡が入る。
「報告了解。一時撤収してこちらで治療を受けろ。……樹のトラップ以外に泥の獣を確認した。破壊した核らしき部分から腐障石らしき欠片を確認。動きは鈍く、腐臭の酷い、出来損ないのモンスターだったそうだ」
「ふむ。本当に『急造』というのがぴったり来る能力だな。この戦力で仕掛けてくるということは、恐らく、こちらの壊滅が目的ではない。何かの奪取か、或いは接触が目的であろうな」
 リオンがサンプルボックスに入れた複数の環境サンプルをチェックしていると、木陰で座り、じっと意識を集中していたアニス・パラス(あにす・ぱらす)が口を開いた。
「うにゃ? 『おばあさん』がいるの?」
 視線はどこか遠くを泳いでいる。周囲には警戒に立っているローズ達以外に気配はない。リオンは和輝に頷き、アニスの様子がおかしくなれば直ぐに引き戻せるよう、アニスに注意を向けた。
「うん。うん……ずっと眠って? うん。おじさんが生きてた時から? いつの人なの? そう……」
 視線が少し揺れる。悪質な霊の類でなさそうなことにリオンは胸をなでおろすが、瘴気による変質の可能性がある以上油断は出来なかった。
「止める? おばあさん、負けたの? 負けて……あっちに?」
 ぴくりとリオンが反応する。アニスは頷きながら。にっこりと笑った。
「にゃっ! ありがとう。おやすみ、おじさん」
 きゅう、と開いていた瞳孔が元に戻り、アニスの意識がこちら側に戻ってくる。リオンがつと寄ってきてアニスの状態を確認する。依然として情報の中継地点を務める佐野はそちらに集中していた。
「きちんと戻ってこれたようだな」
「うん♪ 今度はちゃんとお話しできたよ」
「それで、どうだった?」
「んとね、『おばあさん』がいるんだって。最初に石と戦った人らしいよ? でも負けちゃって、向こう側の人になったみたいなの。最近目が覚めたみたい。おじさんは、『止めて』って」
 リオンが眉を吊り上げる。ふう、とため息をついて先を促した。
「……その『おばあさん』とやらが首謀者とみて間違いないか。他には?」
「うーん、おじさん知らないみたいだった。それとね、やっぱり嫌な感じする……和輝にも言って。おじさん、私達がそんなに危なくなることはないって言ってたけど、おばあさんがすることを心配してたの」
「分かった。少し休んでおれ」
「うん♪」
 ぐう、と伸びをしてアニスがリラックスする。リオンがアニスの傍を離れ、和輝の方へ向かうが、顔色は晴れなかった。
「対策を立てるにしても情報が足りん。我々が目的でないとしたら、侵入者の迎撃ではなく……封印か?」
 そこでちらと視線を送る。視線の先には、使えそうな草花をかき集めていたエイラの姿があった。ため息をついて和輝へ報告のため、リオンは歩いて行った。
 当のエイラはというと、近隣に生える草花の知識を生かして、九条 ジェライザ・ローズ(くじょう・じぇらいざろーず)が外傷の応急処置に使うための薬草採取を行っていた。種類ごとに束にまとめ、悪い足場をものともせずさくさくと歩いてくる。ローズが調合を行っている傍にやってくると、とんとんと肩を叩いて薬草の束を差し出した。
「ローズさん、取ってきましたよ。痛み止めと、気つけでしたっけ?」
「ああ、有難う。意外とメジャー所はちゃんと生えているんですね」
 ローズはローズで植生調査の過程で判明した薬草類を警戒班の治療に役立てていた。呪文に用いる精神力や体力は無限ではない。生傷程度、いわゆる「唾をつけておけば治る」類の小さな傷に応急処置を施すのに、現地調達できる薬草は有用だった。先ほどもウィルに毒から解析した解毒薬と気つけを処方していた。
「メジャーなんですか? 良く知らなくて……」
「良く知らなくて判別できたら大したものです。どうやって?」
「その、食べて覚えました」
「食べっ――!?」
 驚愕の告白にローズの手が留まる。思わず手元の薬草を見る。気つけ用にと取ってきたものは確かに強心剤や精力剤にも用いることが可能だが、分量を誤れば容易に毒になる品だ。葉や花ならいいが、もし根を齧りでもしたらそれなりに命の危険が出る。小柄ならなおさらだ。
「……これとか、これとかも?」
「ああ、はい。ひどい目に遭いました。おばばがかなり危なかったって言ってました。でもその、そういう事でもしないと覚えられなくて」
「えっと、頑張って覚えましょう? けっこう真剣に危ないですからね?」
「あはは」
 調合の手を止めたついでに採取された草花を検分する。試験薬や試験紙を用いて簡易的なチェックをすると、ローズは頷いた。
「思ったより性質の変化は少ないみたいです。本当に最近のことのようですね」
「そう……ですね」
 頷こうとして、エイラの様子が少しおかしいことにローズは気付いた。だが、その場ではそれに言及することなく、ローズは薬箱を閉じた。
「セレンさん達が戻るまで少し暇があります。戻ってきたらまた手伝ってもらいますから、少し休んで来たらどうでしょう?」
「え、あ、はい。それじゃあ、そうさせてもらい、ますね」
 先ほどからこうして時間や変化の話をすると、どうもエイラの様子がおかしくなっていた。ローズとしては心配はするが、皆のいる前で聞くことでもないし、治療のためには常時待機しているのが望ましい。ひとしきり逡巡していると、ローズは調査班の警戒線付近で哨戒していたリネン・エルフト(りねん・えるふと)がこちらを見ていることに気付いた。軽く頷きを送ると、リネンもまた頷きを返した。
「それじゃ、私ちょっと用を足しに」
「ええ。これと、これの傍ではしたらいけませんよ。地味にかぶれてひどい目に遭いますから」
「あ、はい!」
 行く前に炎症を起こす草を教えておく。エイラはいそいそと森の、茂みの向こうへと消えて行った。見ればリネンの姿は既にない。ローズは軽く息を吐くと、再び薬箱を開けた。かぶれ止めの調合をしておくためだ。



 茂みの向こうで、どす、と音がしそうなくらい強く、エイラは樹に体を押し付けた。かたり、と腰の小太刀が鳴る。今となってはすっかりおとなしくなったそれは、鞘どころか柄にすらびっしりと封印が施されている。簡易的なものではあるが、柄頭から巻布まですべて束縛の魔術が仕掛けてある。簡易と言ってもこれだけ念を入れればそれなりの軽減効果がある。
 だが、扱えるようになったのはそれだけではなかった。見えなかったものが見え、聞こえなかったものが聞こえる。知らない知識を思い出す。その感覚が、自分の体ではないものとどこかでつながっているという感覚をもたらしていた。
 強く首を振る。と、耳にさく、と下草を踏みしめる音が響く。まだこの辺りは水気が少なく、ひどい足場ではない。軽い音に顔を上げると、そこにはリネンとユーベル・キャリバーン(ゆーべる・きゃりばーん)が立っていた。
「あっ、リネンさんと、ユーベルさん……」
「どうしたの? エイラ」
「いえ、その」
「……どうもしていないわけが、ないわよね」
 視線が泳ぐ。嘘をつくのはほとほと苦手な様子で、初めて会った時からだいぶ砕けてきただけに、その異変はリネンの眼にはよくわかった。つかつかと歩み寄ると和装に近い服の襟を掴む。意図に気付いたエイラはその手を振り払おうと身をよじった。
「っ!? リネンさん、駄目です! やっ――」
 ばっと開けた胸元に、確かに輝く淡い緑色の結晶。ただの輝きではなく、靄のようなものが石の奥で蠢いてた。それを確認すると、リネンはあっさりと手を放す。エイラは襟元を正し、前を閉じたまま視線を落とした。
「話してちょうだい。貴方が隠してる全て」
 だが、エイラは黙したまま語らない。しばらく待ってから、今度はユーベルが口を開いた。
「あなたが何を見聞きしたのかは知りません。けれど……畏れて秘めていては前にはすすめないでしょう?」
 ぐ、とエイラの口から言葉が出かかる。だが、寸前でそれを吐き出すのをためらった。そこにリネンがふっと優しく笑いかける。
「……わかるわよ。昔の私そっくりだもの……辛くない、覚悟したって無理して笑って」
 はっとしてエイラが顔を上げた。その眼をリネンが直視する。
「『それ』を落せたのは私の力じゃない。あの時……結界石が飛び込んで、何があったの?」
「私、は」
 腰に差した小太刀にエイラが触れる。短い逡巡の後、エイラは遂に口を開いた。
「実喰と意識を共有しています。体も。石の力が体に溶けて、封印と体が繋がって……います」
 ユーベルが目を見開く。自身もまた剣の守護者。使い手に預けたとはいえ、エイラが言った意味は分かる。いわば、契約とは違う形で、呪具とエイラは運命を共にしたのだ。
「じゃあ、あなたの体は」
 エイラが頷く。
「既にヒト、とは呼べないと思います。見えるものも増えて、分かることが増えました。確かに私のはずなのに、私じゃない何かが、私の中にあるんです……リネンさんと斬り合ったことも、リィに斬りかかったことも、覚えています。私が、した事として」
 エイラが頭を抱える。
「何度も死んだ記憶だってあります……! 周りの皆の命を使って、闘って、死んで、それでもやめないから皆死んで行って! 何度もこの剣は繰り返しているんです! このままじゃ、私、村の皆も、リィも、犠牲にして――」
「大丈夫」
 リネンがエイラを抱き寄せる。びくりとエイラは身を固くしたが、やがてその体を委ねた。
「繰り返しには絶対させない、天空騎士の名にかけて約束する」
 エイラがしゃくりあげる。押し殺した鳴き声が森に染み透っていく。ユーベルが難しい顔をして顎に手を当てて考え込んでいた。やがて口を開く。
「結界を護る『影断』、それと対になる『実喰』も本来邪悪な存在とは違うはず。では何のために……」
 ずずっと鼻をすすってエイラが顔を上げ、リネンから体を離した。
「ぞれは、ぅと、すみません。えっと、それは、実喰と影断の役目は『あわいに住まうもの』の残滓を残らず境界の中へ押し戻すこと、なんです。実際、私は村の皆の命は、今回は使わずに済みました。過去、そういったこともあったようなんですけれど……」
「だからあんなに好戦的に?」
 リネンの言にエイラが頷く。ユーベルは頷いて、エイラの胸元で輝く結界石を見つめつつ言った。
「あの時……あなたも『自分』を知ったのですわね」
 エイラが複雑な笑みを浮かべる。そうして何かを言おうとしたとき、樹上からその声が響いた。
「そうだといいのだけれど?」
 一挙動で剣を抜き放ち、エイラを守るようにリネンが立つ。ユーベルはその脇に立ち、いつでも術を展開できる状態になっていた。
「気配が何もないなんて!」
「苦労したわ。契約者? というのは本当に優秀なのね」
 苦笑いを浮かべる女は、菫色の髪をした魔術師然の女だった。太い幹の上に立ち、手には淡く紫に発光する大鎌を手にしている。その服は、どこか、エイラの村のものに似ていた。
「でも、ようやく迎えに来る準備が出来たわ。さ、行きましょう? 呪具と融合してしまったのだし、どうして闘っていたのかもわかったでしょう。そろそろ、それを解いて来るといいわ」
 女はエイラに呼びかける。リネンが弓を引き絞るように剣を構える。横目でちらとエイラを見ると、がちがちと歯を鳴らして小太刀を握っていた。
「エイラ?」
「ん? そう、まあ、そうね。まだすべて思い出したわけではなかったということ。ちょっと可哀想なことをしたかしら? 自分が、斬り倒してきたものと同じだなんて」
「何を――」
 ユーベルが声を上げるのと同時に、にやり、と女が笑った。
「『寄生種』と言った方がいいかしら?」
「ぁああああああ!?」
 樹を蹴ってエイラが跳ぶ。重力を無視したような初速で飛び出し、迷いなく核を狙った一撃は、確実に命を絶つためのものだった。だが、がぎり、と固い音と共にその一撃は大鎌の柄で受けられていた。
「あははっ! このくらいで正気を失っていたら、人間の精神なんてバラバラよ! ゆっくり教えてあげるわ。あなたが何なのか」
 ばちん、と一気にエイラを弾き飛ばすと、周囲から集まってきた紫色の霧に紛れて女が跳躍する。それを信じられないスピードでエイラが追った。
「エイラ! 待って!」
 すぐさまそれを追おうとしたリネンの目の前で、巨大な虫こぶのある樹が鼓動を打ち始める。すぐさま周囲の木々が鳴動し、鳥籠のような戦場を形成した。
「このっ、邪魔を、するなぁっ!」
 断ち切る一撃はしかし蔦に阻まれる。その隙に、エイラは遠く離れていた。沼へ向けて。



「襲撃だ。すぐに帰還しろ。味方を回収して撤収だ。――何」
 があん、と両手に構えた銃で泥の獣の両足を砕きながら和輝が問い返す。
「……了解した。こちらはこちらで対処する。敵の狙いは封印と予測。目前の敵を殲滅し、対象の護衛に回れ、以上だ」
 通信を切ると同時に身を躱す。地面ごと抉る一撃を回避して再度射撃を敢行する。分厚い泥の肉体は一発一発の一撃を難なく吸収してしまう。
「時間稼ぎのための個体というわけか。リオン、アニスを連れて撤収しろ。ここは俺が抑える」
「わかった」
「和輝! 危ないよ!」
「何、面倒事にはもう慣れたよ」
 弾倉を交換する。リオンがアニスを連れて下がるのを確認した時、目の前にもう一撃、角の突進が迫っていた。
「っ……!」
 だが、身を躱した先に、じっと立っているローザが居ることを認める。「跳べ!」と声をかけた和輝の声を聴いているのか否か、それは定かではないが、ローザはぎらりと目を輝かせると手を翳した。
 ずん、と大きな一撃が抉り込むように決まる。だが、地面を大きくえぐりながら、ローザは直立していた。移動した痕がはっきりと地面に刻まれている。
「ええ、おイタは、駄目ですよ?」
 どう、と弾ける気迫が泥の獣の表皮を散らす。菫色に明滅する目が、確かにローザが金色の眼と髪に変じていく様を見ていた。くつくつとローザが笑い始める。やがてそれは耳を劈く哄笑となって弾けた。
「最高に! ハイってやつだアアアアアハハハハーッ」
 ずん、と拳が巨獣の横っ面に炸裂する。鈍重な巨体がよろめき、一歩横に逸れる。もう一撃。体制を崩す。もう一撃。一撃。
 やがて拳は乱撃となり、ローザが押し戻され、えぐられた地面の跡と同じだけ巨獣は後退していく。致命打にはならない。だが、完全にペースを握っていた。
「じゅ、純粋な腕力で圧倒……するのか?」
 それをあきれ顔で眺めていた和輝は頭を振って気を取り直し、マガジンを開いて装薬を確認する。確かに装填されていることを確認すると。ぴたりとその狙いを淡く発光する角に合わせた。
「雑魚はみんなアリーヴェデルチ! 向かってくるやつはボラーレ・ヴィーア、だ!」
 ごん、ごんと連撃を打ち込み、和輝が構えたのを確認して、ローザは最後の一撃を打ち下ろす。ずん、と沈み込んだ頭が角を晒す。硬質化したそれに横殴りの一撃を叩き込むと、ばきり、と何かに罅が入る音が響き渡る。その瞬間、和輝は引き金を引いていた。
 断末魔の声が響き渡る。それは、森のあちこちで響いていた。