リアクション
終章 『万象の諱』の行方
マーケットは再び、穏やかな賑わいを取り戻していた。
男爵もマーケットに戻り、客や店主たちと挨拶を交わしていた。
店主たちは処刑人の騒ぎに一時は右往左往したものの、さすがは海千山千のしたたかな商人たちである。騒ぎが収まればまた店を開いて何事もなく客を呼ぶ豪胆さを持っていた。
あの時双子の魔道書が狙われたのは、2人そのものが標的だったのではなく、「禁書の中に潜んでいたのを取り出した本の虫」に、処刑人が反応してしまったのだろうという話だった。大方、虫に禁書の気配が染みついていたに違いない。ロレンツォのトレジャーセンスも、虫に反応して、2人をあの場に導いたようだった。
ゼンとコウは、しくしく泣いている。
「虫、全部逃げちゃった〜〜」
「一生懸命集めたのに〜〜」
「貴方たちが無事だっただけで運が良かったのよ」
セレンフィリティとセレアナは、彼らの店の再開を手伝う傍らそれを慰めた。
「……あの魔道書達は何を泣いておるのだろうか?」
早速奇書珍書目当てに店に疾風の如くやって来た『ダンタリオンの書』が、怪訝そうにそれを横目で見ていた。
「大損害だ!」
散らかった本の山の真ん中で、ハデスは大声で憤慨混じりに嘆いている。
十数冊が虫化してどこかに逃げてしまい、その本虫(虫本?)に宿る禁書の気配に引かれた処刑人がハデスの商品の山に見境なく攻撃を仕掛けてきたので、店はもうぐちゃぐちゃになっている。
「アクシデントがなくてもそない売れなかったと思うけどな〜」
「やかましい!」
まだハデスの店に残っていた泰輔の呟きに、ハデスが「キッ」と目を剥く。レイチェルは一応、気の毒に思ってか散らばった本を片付けるのを手伝っていた。
ムキになるハデスの肩を、泰輔はぽんと軽く叩いた。
「まぁまぁ。俺も1冊買わせてもらうから、そない怒らんときや」
「何……」
「そやから値段うんと負けてな」
「情け容赦なしかーっ!!!!」
この時虫化して逃げだしたハデスの同人誌的魔道書を後に誰かが偶然捕まえ、「奇書中の奇書」と銘打ち、稀少価値で話題になったという話があったとかなかったとか、なかったとか。
「男爵、ありがとうございました」
帰り際に、アキラはそう挨拶した。例の『捜し本』以外に、彼のお勧めで面白そうな本を何冊か買い求めることもできたからだ。
「どうせ、ろくでもない本を買ったんじゃろ」
横からひょいっと出てきたルシェイメアが、彼の抱えた戦利品を覗き込む。
「あ、こらっ」
「何じゃこれは――『オリュンポスの永久の叡智』……? 本当に何を買ったのじゃ貴様は」
「本当よネ〜」
アリスも頷いていた。
和輝も、大量の戦利品を抱えた仲間たちを連れて出ていく前に、男爵に挨拶をした。
「それで――事は綺麗に収まったのですか」
男爵に和輝がこっそり尋ねると、男爵は笑顔で頷いた。
「はい。今回は契約者の皆様のおかげで、大した被害もなく魔道書の方が襲われることもありませんでした。
皆様のご厚意に感謝しております」
「感謝か……まぁ俺は何もしてないんだけどな」
戦利品に喜ぶ幼女たちを見下ろし、和輝は肩をすくめた。
男爵は口元を綻ばせて、「どうぞお気をつけて」と送り出した。
鷹勢とパレット――「秘文『還無の扉』」――が、パーゴラの下から中庭の端の柱廊へと場所を変えて、話をしている。
2人以外は誰もいない。2人だけで話したいと、パレットが言ったからだ。
「結局、『万象の諱』は現存するのか、しないのか……答えは出ていない」
いつになく厳しいパレットの声に、鷹勢はえっ、という表情で彼を見た。
「でも……星耳男爵も、あの本は焼失したって」
「知ってる。ていうか、俺見てるし」
その言葉は鷹勢をますます驚かせた。
パレットは少年っぽい顔には不釣り合いな難しい表情を浮かべて俯いている。
「『万象の諱』が、沢山の魔道書と一緒に焚書の炎にくべられるのを、俺は目の前で見た。
次は俺の番だった。
けど……一人の魔術師が、その時燃やされようとしていた俺や他の魔道書を炎の中から救い上げた。
魔術師として、知識の書がぞんざいにされるのを見ていられなかったと。
その男は結局、その行為を罪に問われ、異端審問で悪魔の烙印を押されて多くの魔道書と主に刑の炎に焼かれた。
今、イルミンスールの施設内で長すぎた一生を終えようとしている『灰の司書』だよ」
急にパレットは、一瞬だけ、掌で顔を覆った。
「……可哀想な『万象の諱』。言葉の恐ろしさを記した本だったからか、あいつ自身は穏やかで人をそしることのない、いい奴だった」
だが、すぐに手を下ろした。泣いてはいなかった。
「だから……あいつがもうこの世にはいないってこと知ってるから、不思議だったんだ。
鷹勢は噂で、『万象の諱』がパラミタにあると聞いてる。
他にもいろんな奴らが、『万象の諱』がまだ現存すると信じて求めようとしている。……何故?」
「――もしかしたら、何らかの超法規的手段で、『万象の諱』は俺の知らないところで蘇ったんじゃないだろうか」
「超法規的手段!? って!?」
鷹勢の問いに、パレットはゆっくり首を振る。
「分からない。けど、パラミタには、地球上では思いもしなかったような技術や魔法が存在するから……
だから俺は、星耳男爵に全部打ち明けて、『万象の諱』は現存するのかどうか、訊いてみた」
一度口を切り、パレットは、先を促される前に再び話し出した。
「男爵も俺と同じ、焼失して現存はしない、という結論だった。
ただ、『何らかの形で、この世界には存在しないがどこかに存在する』という可能性について、男爵は考えられるいくつかのパターンを教えてくれた」
「…パターン?」
謎めいた言い回しをかみ砕けず、鷹勢は眉を顰める。パレットは苦笑いした。
「おとぎ話みたいな話もあったよ。あくまで可能性の話さ。
男爵の眼力でもそこまでは分からないって」
パレットの細い腕が、小さく震えているのに、鷹勢はその時気付いた。
「俺は、『万象の諱』が実存する限り、その悪用を食い止める代償として命を落とす可能性がある」
「でも、俺という存在は、『万象の諱』があって初めて、存在価値が生まれる書だ」
「……優しかったよ、『万象の諱』は。優しくて、いい奴だった」
「複雑なんだ。あいつのこと考えると」
自分に対して生殺与奪の権利を握る書であり、そしてそれがなければ自分が生まれることもなかった。
複雑な思いを抱くのは無理からぬ話に思えた。
「けど、命を落とす……って、どんなふうに」
「それは、俺にも分からない。いきなり炎上して跡形なく消えるかもしれないし、爆発するのかもしれない。
もし『万象の諱』が現存していたら……それが分かったら、俺は、イルミンスールを離れようと思っている」
パレットは淡々と言った。
それはつまり、「仲間やあの学校の人たちを不測の事態に巻き込む事を避ける」という意志表示だった。
その可能性を確認したら、ひとりで出ていくというのだろう。
パレットの目は奇妙な、諦念を湛えた穏やかさで、どこか遠くを見ていた。
「パレット。――僕と、契約してくれないかな」
*******
先程のパーゴラの下には、ルカルカと白颯、それにリピカとヴァニがいた。
魔道書二人の表情はどこか真剣で暗かった。
「……鷹勢は」
突然、ぽつりと白颯が呟いた。小さな声だったので、すぐ傍らにいたルカルカにしかそれは聞こえなかった。
「子供の頃、大好きな本を燃やされたことがある」
「え……?」
「鷹勢の父が。鷹勢が、山犬を遣えなかったから」
鷹勢の家は、『神を背に乗せて走る聖獣』である白毛の山犬たちを使役する力を受け継ぐ血筋であったが、嫡男の鷹勢は何故かその才に恵まれなかった。山犬遣いの修行よりも、広い世界を教えてくれる書物を読むことに熱中し、そのために当主である父とたびたびぶつかった。鷹勢をショックで打ちのめした「焚書」もその過程で起こったことで、その挙句に白颯と姉やの御堂 めい子と共に家を飛び出し、強化人間の手術を受けためい子と契約してパラミタに渡ったのだと白颯は言った。そのめい子も今はもういない。
「だからあの魔道書に、強く……何かを感じているのかもしれない。けど」
人よりも、人の形にならぬ感情や機微を敏感に感じているだろうこの山犬は、自分にまでその感情が乗り移ったかのように悲しげな目をしている。
「悲しみや寂しさの中で凜と立とうとするあの魔道書が、受け入れるかどうか……」
ルカルカはリピカとヴァニの方を見やった。白颯の言葉が聞こえているのかどうかは知らないが、2人ともそれぞれに、何かを思い、遠い目をしている。
「苦しい時に、人に頼りたい分だけ自分を鞭打つ、そういうひとには……」
不意に、何か気付いたように言葉を切った白颯の体が、微かに揺らいだ。
*******
手を差し伸べた鷹勢を前に、パレットは一瞬、息を飲んだ。
やがて、ゆっくりと首を横に振った。
「俺には、誰とも契約なんて出来ないよ」
「パレット」
「もしも俺が死んだら……契約した相手もまた、死ぬかもしれないダメージを受けるんだろ?
俺の命は、『万象の諱』に繋がっている。でも、そのことでまた別の人間が命の危機に陥るなんて考えたくないんだ。
……君だって、二度もあんな目に遭いたくないだろ?」
かつて鷹勢がめい子を喪った時の危機を、パレットは知っている。鷹勢はぐっと言葉に詰まる。確かにそれは、心にも体にも辛すぎる経験だった。
「けどっ」
勢いで反駁するが、後の言葉が続かない。
ひとりで消えてほしくないんだ。仲間思いで情の厚い君に。
でも、契約したからとて彼をその運命から守れるのかと言われれば、何も言えないことも分かっている。
そんな鷹勢の思いを見透かしたかのように、パレットは口を開いた。
「俺にそこまでする必要はないよ。どうせ『万象の諱』ありきの、単独では何の価値もない本だ」
捨て鉢なその言葉に鷹勢が絶句している間に、パレットはくるりと背を向けた。
「……もう行こう。皆待ってる」
*******
「パレット」
リピカがハッとして声をかけると、食堂から出てきたパレットは、くたびれた顔に笑顔を張り付けて、待っていた2人の方に手を上げた。
「もう帰ろう。話は終わったから」
何か問いたげな2人に一方的にそう言うと、パレットは傍にいたルカルカに「それじゃあ」と軽い挨拶を残してすたすたと歩いていく。あとを小走りで、リピカとヴァニが追っていった。
「……パレット」
中庭を抜け、館の出口で追いついたリピカは、ようやくパレットと肩を並べた。
「ごめんな」
「えっ」
「……話さなくて」
自分の素性に対するパレットの、微かにだが含みのある言動には、もうとっくに気付いていた。それよりも。
「私たちは、どんなことがあっても仲間です、パレット」
まるで、そうはさせまいとする運命に抗うかのように、密かに必死の声で、リピカは言った。
「そんな当たり前のこといきなり言われても、聞いてる方が照れちゃうよ。ねー? パレット」
ヴァニの言葉もどこか、急いで語尾にかぶせるような感じだった。
パレットはそんな2人を見て、ただ小さく笑っただけだった。
「……鷹勢」
膝をついて白颯の頭に手を乗せていたルカルカは、パレットよりもだいぶ遅れて食堂から出てきた鷹勢を見上げた。
パレットが出てくる少し前に、擬人化薬の効果が切れ、白颯は元の姿に戻った。今は元のように、鼻を鳴らして鷹勢の足に寄せることでしか、親愛の情を表せない。
ルカルカに応えようともせず、鷹勢は俯き、石を敷いた廊下の床をぼんやりと眺めている。
口からポロリと、誰に聞かせるでもない言葉がこぼれる。
「……僕は、無力だ」
――もしも、それでも。
薬の効果が切れる直前、白颯は囁くようなかすかな声で言った。
――とても困難かもしれないけど、それでも鷹勢が諦めることなく、あの魔道書と共に歩みたいと思うなら……
そうして、もう一度、信頼と絆を手にして契約者に復帰したいと、心底から願うのだとしたら。
――ほんの少しでもいい、
彼の、力に
その続きはもう、山犬の口では紡ぐことは出来なかった。
「待たせてごめん。そろそろ帰ろうか、遅くなっちゃう」
顔を上げ、ルカルカを見た鷹勢の顔には、悲しげな笑みがあった。
参加してくださいました皆様、お疲れ様でした。
今回も皆様のアクション楽しく拝見し、出来うる限りそれを反映させようとした結果、最初に考えていた以上に大騒ぎのマーケットになりました。
そして流れで、処刑人が「精神的にやたら打たれ弱い奴」になってしまったようだ(汗)
余談ですが、「ブラックブック」とは、某ウェブ事典にて「魔道書(グリモワール)」の説明にあった「類義語に黒本、黒書(Black books)」から安直に流用したのですが、後でよくよく調べると「blackbook」には「閻魔帳、要注意人物リスト」などの意味もあるとかで、うーんどうしようかと迷ったのですが、個人的に何となく響きが気に入っていたものですから、ええい、そのまま使っちゃえ、となりました。
なのでここでは単に「魔道書っぽい怪しげな本」くらいの意味での使用に留まってますので、この言葉に何か怪しい裏があるのでは、と考えられた方々には、肩透かしですみません、と謝るしかないです;
大したものではありませんが、皆様に称号をお贈りいたします。ご笑納ください。
それでは、またお会いできれば幸いです。ありがとうございました。