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第8章 男爵と四識士


 最後の処刑人を倒した男は、息一つ切らすことなくすたすたと、真っ直ぐに食堂へと歩いていく。



「すみませんね、疲れやすいものですから」
 長いテーブルの端に腰を掛けて、男爵は息を吐いてすまなそうに言った。
 この食堂にも、誰かいるという気配はない。給仕係がいないだけでなく、厨房で誰かが動いている様子すらない。
 一緒にここまで来た北都とリオン、弥十郎と八雲がそんな食堂を不審げに見ていると、突然、テーブルの上をずずずずっと音を立てて何かが動いてきた男爵の席までやって来た。
 水差しとコップだ。
 よく見るとなんとも奇妙な――何かの生命体なのかそうでないのか、人の指くらいの大きさしかない「灰色の、もやっとした影」(としか形容のしようのないもの)が、その2つを運んできたのだ。男爵の前に届けると、それらはふっと消えた。
 男爵は何でもないことのように、自分で水差しからコップに水を注いで飲む。
「あの……今のは?」
 北都が恐る恐る尋ねると、男爵は事もなげに答えた。
「召使だよ」
「召使!?」
「正確には、私の召使いの仕事を果たしてくれる思念体……というところかな?」
「思念体を使役する技を……?」
 八雲が問いかけると、男爵は苦笑いで首を振った。
「私の思念ではないんだ。さっき言った、私の面倒をいろいろ見てくれる“4人”のものだよ」
「その方々は……どのような御方なんですか? 差支えなければ」
 リオンが尋ねてみた。
「――私は『四識士(よんしきし)』と呼んでいる。とにかく膨大な知識を持つ方々なのでね」
 それが、聞いている4人にはピンと来ないのである。
 子供ならともかく、見た感じも寿命的にも子供とは言えない男爵の「面倒を見る」というのはどういうことなのか。それも、4人がかりで。
 あるいは、パトロン的な意味での「面倒を見る」なのか。男爵の口ぶりでは彼より立場が下に来る相手ではないようである。むしろ、男爵はその4人に、敬意を払っているかにさえ見える。
 それを北都が問おうとした時、突然、男爵はさっと襟を正して立ち上がった。その顔は、会の主人(ホスト)の表情だった。
「申し訳ありませんが、新たな客人がお見えになったようです。お話の続きはこの後にしましょう。こちらでお待ちください」
 そうしてさっと入口の方へと踏み出した時、人影が姿を現した。



「御機嫌よう、星耳男爵」
 男は大仰に一礼した。品の良さそうな顔立ちだが、男爵の上品さとは違う。唇の片端を持ち上げて笑うのが似合う、己の趣向のために簡単に他者を踏みつけにする者のエゴイスティックな品格だった。
「過日はお手紙のみにて失礼いたしました」
「例のお尋ねの件ですか」
「えぇ」
 男はにかりとした笑みを浮かべた。
「お答えいただけましょうか?」
 男爵は、社交用の柔らかな笑みを浮かべたまま、その表情は変わらない。
「お尋ねの件は、『万象の諱』の行方でしたね。
 ――残念ながら、あれはもうこの世には実存しません。歴史にある通り、異端弾圧で焼かれたのです」
「……」
「私の見落としもあるかもしれないと考えて、信頼のおける馴染みの稀覯本商人にも尋ねてみましたがね……
 残念ながら、史実通りのようです」


 しばらくの間、男爵と男は向かい合っていた。表情は変わらぬまま。

「おかしいですねぇ」
 男は、笑みのまま言う。
「『万象の諱』に記された技が、千年ほど前にこのパラミタで使われたという記録があるのですが」
「確かにおかしな話ですねぇ」
 男爵も笑みのまま返す。
「あの書は数百年前、魔術とそれに対する異端弾圧の盛んな時代に、地球上において記されたもの。
 パラミタと地球が分裂していた、いえそれ以前にその書が成立するずっと前である千年も前に、パラミタに存在したなど、考えられない話ですね。矛盾している」

「だからこそ、博識なる星耳男爵にお聞きしたいのですよ。
 この矛盾する情報には、どのような解釈が可能なのでしょうかねぇ」

「博識なのは私ではなく『四識士』ですよ。私はただの“本の虫”」
 男爵は笑いながら言う。
「私に分かるのは書物の行方だけ。その書物にあった知識までもが完全に消失されたとかどうか――それは私には与り知れぬこと。
 地球においてこの書を著した筆者とは関係のない、千年前のパラミタ人が偶然にその知識を持っていたとしたら――それもまた、私にはそこまで図り知ることはできない」
 大体、こんな解釈でしょうね。男爵は両手を広げて肩をすくめる。
「……本当に、考えうる解釈はそれだけですか」

 男の顔は笑っていたが、目はしぶとく追及するような、ねちこい色になっていた。
 男爵は答えない。
「――私どものグループに来ていただけませんか?」
 男は唐突に申し出た。
「グループ?」
「えぇ。手紙で申しあげたとおり、男爵様のお体――蒲柳の質を改善する特効薬が我らの手元にはあるのです。
 決して男爵様にとって損になる話ではないかと……
 我らもそこで、男爵様のお考えを存分にご教授頂きたいと思っておりますし」

 男爵がまだ「『万象の諱』の矛盾」に対する解釈をすべて話してはいない、と、男は考えているのだ。それが男爵にも、下がってこの場の成り行きを見ている4人にも分かった。

「折角のお話ですが、ご遠慮させていただきましょう」
 男爵はきっぱりと言った。
「おや。不服ですか?」
「私を面倒を見てくれる四識士が、私がそのように身を処すことを許さないはずですのでね」
 あっさりとそう言った時、男は、男爵の方へと一歩近づいた。
 男爵は続けた。

「貴方がた――『コクビャク』と仰いましたかな? 大方、貴方がたは、ナラカを通じて私のことをお知りになったのでしょう。
 しかし、それであれば逆に、私もまたナラカを通じて貴方がたを知ることができる、とはお思いにならなかったのですか?」

「タァ様のことまで分かっていらっしゃるとは、『人形』とはいえさすが四識士の手の者。
 こうなったら、無理にでもお越し願わねばなりませんな」

 男がしなやかな身のこなしで、一気に男爵の面前に距離を詰めた。
 その時。
 男爵の右耳が一瞬、小さな閃光を放ったのを4人は見た。

 次の瞬間、男爵の体がばね仕掛けのように動き、大きく上がった足が、彼よりも大きな『コクビャクからの使者』の頭に向かって叩きつけられた。
 コクビャクからの使者は、吹っ飛んで背後の壁に体を叩きつけた。
 彼が隠しに持っていたらしい、大ぶりのナイフが石の床に音を立てて落ちた。
 使者が大勢を直すより早く、その使者より素早く動いた男爵が、片手で彼の胸元を掴むと、自分の背よりも高く持ち上げた。


「小賢しい、過去の亡霊のような小娘の妄執に付き合っているくだらん魔界の暇人に、我らの協力者を拉致し去れると思ったか?
 見くびられたものよな」
 その声を聞いた瞬間に、4人は、男爵が全くの別人になっていると感じた。
「ましてや、その小娘頼りの飼い犬風情が、男爵を人形呼ばわりとは、片腹痛い。
 ここで身の程を思い知るか?」
 男を持ち上げる手に、力が籠められる。
 吊るされて足をバタバタさせていた使者は、しかし一瞬その体の動きを止めると、次の瞬間、消え失せた。


「――逃したか。まぁ、どうせコクビャクとやらに逃げ帰ったのだろう。別段痛くも痒くもないが」
 男爵――の体の中にいる者は、つまらなさそうにそう呟き、置き土産のナイフを拾い上げてから、4人を振り返った。
「お騒がせしたな、客人がた」
 悪びれる様子もないその態度に、思い切って北都が誰何した。
「あなたは?」

「名乗るほどの名は持たない。男爵が『四識士』と呼んでいた者のひとり――それでご納得頂きたい」
 言いながらその人物は、テーブルの上にナイフをぽん、と置いた。
「もしかして……奈落人ですか?」
 弥十郎が尋ねた。男爵が何の脈絡もなく「ナラカ」の名を出していたことからそう思ったのだ。
 男爵はあっさり頷いた。
 あの瞬間に、奈落人が男爵の体に憑依したのだと、4人は取り敢えず納得した。あの凄まじい体の動きは、ナラカ仕込みの闘技だろう。


「――この星耳男爵は、我ら4人の奈落人が『造った』のだ」
 4人から質問されることを予期したらしく、奈落人は先にあっさりと言った。
「造った!? ……というと?」
 八雲が、その言葉を飲み込めない4人を代表する格好で尋ねた。
「文字通りだ。我らの知識と会得した術とを結集して作り上げた」
 言いながら、奈落人は、先程コクビャクの使者が倒れた壁際をちらりと見た。
「あの男の属するコクビャクとやらは、何やら陳腐な計画のために世界を奔走しているらしいが……
 我ら4人は、世界を野蛮なやり方で変えることになど興味はない」
「何になら興味があるんです?」
 リオンの問いに、これもまた至極あっさりと奈落人は答えた。
「知識さ」
「知識?」
「この世界のありとあらゆる、森羅万象、そして過去からはるか未来に渡る心理へと通じる知識。
 世界を隅々まで知り、それを蓄えて深めていくこと自体が楽しいのでな。
 知識を極めるとその対象と限りなく一体に近付く。我ら4人はこの共通の道楽で結びついた。

 ――言うなれば“クラブ活動”といったところか」

 急に身近な言葉での例えが出たので、聞いていた方の4人は一瞬ガクッとなりそうだった。
「クラブ活動なら、まぁ楽しそうですねぇ」
 ピントが合っているのかいないのか分からない弥十郎の相槌に、しかし大真面目に奈落人は頷いた。
「そう、我等はただ楽しみを追及していただけにすぎん。が、その調子でナラカに溢れていた知識はほぼすべて吸収し尽くしてしまった。
 パラミタの時間の変化にとんだ知識を蒐集する為には、我等には憑坐(よりまし)という『器』が必要だった。
 なので、知識と術力の共同出資で作ったのだ。それがこの器。
 意外に品のよい見た目に仕上がったので『男爵』というあだ名をつけ、我等はこれを共同で、平等に使おうと取り決めをしたのだ」

 星耳男爵、それは、4人の奈落人が共同で使用するパラミタ大陸での活動用の憑坐だった。

「……じゃあ、さっきまではあなたと違う方が憑依していたのですか?」
 リオンが尋ねると、奈落人はかぶりを振った。
「いや、あれは、男爵自身だ。
 我らの活動は、さっきも言った通り道楽のようなもの。不定期で、用がなければ男爵は時には何百年も、この体を隠しておくために我らが作ったこの館に放置されていた。
 その間に、男爵には自我が芽生えたのだ。
 ……別段驚くことでもない。野に空の器をぽつんと放置しておけば、そのうち何かが入っているものだろう」
 本当に何の不思議も感じていない様子で、奈落人は淡々と話す。
「そのことによって生じた不都合は何もない。男爵は自我が生じたからといって我らに反抗的になることはなく、今までと同じように体を貸してくれる。
 我らとしても喜ばしいことだった。自我が芽生えたことで、男爵は何もできない人形ではなくなり、自警の意識が生まれたので、我らの心配も大きく減じることになった。
 (すでにお察しと思うが、この森の迷いの呪いは、男爵を安全にこの館に隠しておくために我らがかけたものだ。男爵の意志で一時的に解くことはできるがな)
 何より嬉しいことに、我らが体を使ったことで何かが反映されたのか、彼もまた知識に惹かれ、知識の集合たる書物に深い愛着を抱く性質になった。
 書物を見る遠目を欲して片目を捧げたのにはびっくりしたがね。そう、あれを実行したのは彼自身の意志だ。しかし、それとて不都合ではない。
 むしろ我らの知識収集の助けともなり、また我らへの励みとも刺激ともなる。

 ――ただ一つ、不幸なことがあるとすれば、男爵のこの蒲柳の質だ。
 我らが中に入って活動することだけを目的として作ったこの体は、普通のパラミタ人や地球人に比べてずっと弱い。スタミナも持続しにくい。
 男爵は本の虫だが、自分の力で遠くまで珍しい本を買いに行くことも出来ない。それで、マーケットを催して向こうから来てもらうようにしたのだろう。
 館にいる時は、本を読む以外は大抵、エネルギーを温存するために眠って過ごしているようだ。
 マーケットを百年以上の周期でしか開催できないのも、それが主な理由だ。主催をするにはスタミナが必要だからな。
 こんな展開になるならもっと強い肉体に作ってやれていれば、とも思うが、正直な話、無からの完全オリジナル製作だからな、我らとしてもこれが限界だったのだよ」

 ちょっと予想だにしていなかった話を聞かされ、北都、リオン、弥十郎、八雲の4人はしばしの間言葉もなく、ぼんやりしていた。
「さて、我はそろそろナラカに戻ろう。男爵もマーケットに戻りたかろうよ」
 その言葉ではっと我に返った八雲が尋ねる。
「けど、よかったんですか? こんなことを、僕らに喋っても」
「別に秘密ではないよ。実際、男爵と長く付き合っている古書商人たちの何人かは知っている話だ」
 奈落人を宿した男爵は、ちょっと首を曲げて頭を掻いた。
「秘密、ではないが、男爵を好奇の目に晒さないためにも、あまりおおっぴらにはしないでくれると助かるがな。
 いろいろ思うかもしれんが、我ら4人の間が協定を交わして上手くいっているのと同様、彼と我らの間も、一定の秩序を設け、それぞれの生活を保って上手くやっているのだ」

「そうそう、『星耳』の名だがな、気が付いたかもしれんが、我らが男爵の中に耳から入る時、何故か耳が一瞬光るので、戯れにそう呼んでいるのだ。
 男爵は気付いていないかもしれんな。鏡でも見ていない限り、本人には分からないだろうよ」


「それと、我が去ったら男爵はしばし、脱力現象が出てぐったりするかもしれんので、少し気を遣っていただけるとなお有難い」


 その言葉の直後、本当に、男爵の体がガクッと崩れるように揺れた。
 4人は慌てて駆け寄り、椅子に運んで座らせた。またあの灰色のものが、新たな水差しを持ってテーブルを走ってきた。
 別の灰色のものが、置き去りにされた物騒なナイフをどこかへ持って片付けに去っていった。