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【第一幕:ジェルジンスクの空の下より 1】
雲ひとつ無い、快晴。
空気の冷たさに比例したような、澄んだ空気が肌に突き刺さるエリュシオン帝国北西、ジェルジンスク地方。その最北端にあり、万年雪に閉ざされた山頂付近に存在する、帝国政治犯収容所、別名「ジェルジンスク監獄」の一室では「フハハハ、は、はぁっくしょい!」と盛大なくしゃみが響き渡っていた。
「我が名は世界征服を企む悪の秘密結社オリュンポスの大幹部、天才科学者ドクターハデス!」
どことも知れない方角を指差して、警備の男に微妙な顔をされていたのは、言わずもがな、ドクター・ハデス(どくたー・はです)である。
「くっ、おのれっ! 未来の世界の支配者たる俺を、こんなところに閉じ込めるとは、どうなるかわかっているのだろうなっ!」
そう叫んでがしゃがしゃと鉄格子を鳴らしてみたが、虚しい鉄の反響音だけが響く。
暫くそうやって色々と試しては見たが、格子がどうにかなる筈も無ければ、厳格で知られる現選帝神の性格を現すかのように、看守も警備兵も眉ひとつほどの関心も示さないのに、漸く諦めてハデスは冷たい床に座り込んだ。ジェルジンスクを訪れるなり追いかけられ、捕まり、閉じ込められのフルコースを味わったのだから、次は脱獄といこう、というわけには行かなさそうだ。このまま暗くて冷たい監獄の中で一生を過ごすのだろうか……そこまで考えて、ハデスは浮かんだ考えを振り払うように、ぶんぶんと首を振った。
「だ、だが、いつの間にか姿が見えなくなっていた十六凪とアルテミスは、まだ捕まっていないはず!」
そう、ハデスがジェルジンスクを訪れた時までは同行していたアルテミス・カリスト(あるてみす・かりすと)、天樹 十六凪(あまぎ・いざなぎ)の二人は、ハデスが捕まる直前にその姿が見えなくなっていたのだ。(と言うか、アルテミスは兎も角、十六凪の方は見捨てて逃げ出していただなどということは、ハデスは知るよしも無いのである)
「十六凪、アルテミスよ! 俺は信じて待っているからな!」
心なしか涙混じりにも聞こえるハデスの声は、監獄に悲しく響き渡ったのであった。
が、その頃。
頼みの綱のアルテミスは、と言えば……。
「んん、その特徴の方でしたら、先ほど大浴場の方に向かわれましたわよぉ〜」
「ほ、ほんとうですか!?」
キャンティ・シャノワール(きゃんてぃ・しゃのわーる)の声に、アルテミスは身を乗り出した。
十六凪の姿を追いかけて、彼女が訪れていたのは、ジェルジンスクはジェルジンスクでも、監獄から幾らか離れた温泉『白峰の湯』だ。最近になって聖・レッドヘリング(ひじり・れっどへりんぐ)の尽力によって発見され、営業を始めたばかりながら、寒冷地ならではの光景や、地元民の温泉への憧れ等からじわじわと人気を集め始めている穴場スポットである。
「ちなみに、大浴場は本日混浴となっておりますわ〜」
「え、こ、混浴、ですか!?」
何故こんな所に、しかもちゃっかり温泉に入っているのだろう、と疑問を浮かべるアルテミスに、そっとタオルとロッカーキーを差し出したのは、ここで働くランドゥスだ。
「女性用の脱衣所はあちらになりますので、こちらお持ちになってお入りください」
「あ、はい。ありがとうございます!」
頭を下げた勢いそのままに、ぱたぱた遠ざかる背中を見送って、キャンティはランドゥスを振り返った。
「ランちゃん、お疲れさまですぅ。何だか近頃シャンバラからのお客様が多いみたいですわね〜」
「はい。どうやら、観光地として少しずつ知られてきているようで……ありがたいことです」
聖と共に温泉の立ち上げに尽力したこともあって、その言葉に我がことのように嬉しそうな顔をするキャンティは、今は売り子のバイトである。今日は特にお客も多いせいか、商品の陳列や接客に忙しないキャンティを手伝いながら、ランドゥスは感慨もひとしお、と言った調子で目を細めた。
「本当に……こんな日々を送れるようになるとは、思いも寄りませんでした」
今は経営の中心であるランドゥスだが、彼女等と出会う前はジェルジンスク監獄の特殊な職員の一人でしかなかった。不可侵のはずの樹隷と帝国の人間との間に生まれたハーフである彼は、本来ならまっとうな場所で働けるような身分ではなかったのだ。
「これで満足していては、いけまんわよぅ〜? 目標はもっと高く、ですわ〜!」
キャンティの言葉に、そうですね、とランドゥスが目を細めていると、そこへ、宿泊客の荷物を運び終わった聖が肩を鳴らしながら戻ってきた。
「どうやら、今日のお客様たちは、例の留学の関係で訪れていらっしゃるようですね」
「ああ、それでノヴゴルド様もいらっしゃっておいでなのですね」
納得したようにランドゥスは頷いたがそれはどうだろうか、と聖は肩を竦めた。正直な所そちらの方を建前に、温泉に入りに来たというのが正解ではなかろうか。笑いを噛み殺すランドゥスに「そういえば」と不意に浮かんだ疑問に首を傾げた。
「ジェルジンスクからは、どなたが候補に挙がっているのでございますか?」
もしかして、貴方も候補に挙がっているのでは、と問う言葉には、ランドゥスは「私には雲の上の話ですよ」と笑って首を振った。ノヴゴルドが漏らしたところによれば、勉強に出させる気があるようなのだが、本人はあくまで話だけ、と感じているようだ。そのあたりはまだ、自身の境遇への引け目がまだ残っているのかもしれない。聖が口を開きかけたが、ランドゥスは気付かないまま視線を賑わう浴場の方へと向けた。
「それに、どちらかと言えば……留学してこられる方にご満足いただける場所にするのが、私の役目かと」
その言葉に、聖とキャンティは顔を見合わせて口元を緩めたのだった。
「……う。ま、まあ、温泉の中の方が密談にはいいですよね」
その頃の大浴場では、ハデスの救出作戦を立てるべく、十六凪との合流を果たそうとするアルテミスが、タオル一枚という非常に姿でキッと『混浴』と描かれた暖簾の揺れる大浴場入り口の前にいた。普段の鎧姿では隠された、華奢だが少女らしい曲線を、一枚のタオルが浮かび上がらせている。結い上げた髪のうなじが横を通る客の視線を釘付けにしているなどとは思いもよらず、アルテミスはぐっと意を決したように拳を握り締めた。
「私にはキロスさんという心に決めた人が居ますが、これは任務です!」
そう、言い聞かせるようにしながら入った大浴場は、思いのほか広い露天風呂で、下手に美観のためにいじらなかったらしい、雪に埋まるジェルジンスクの冬の原風景が、かえって風情を生んでいる。
「温泉と言えばコレ、日本酒の出番なのだ!」
空気を淡く包む蒸気の中に響き渡るのは、屋良 黎明華(やら・れめか)の声だ。
いずれキマクに「選帝神ノヴゴルド公認エリュシオン温泉」を起業するのだ〜〜! という心意気のもと、エリュシオン流の温泉場の勉強をするために訪れたのだ。とは言え、教えてもらうばかりでは、ということで黎明華が提案したのは、地球――日本の温泉文化として、風情に名高い月見酒だ。
「日本からいっぱい取り寄せて持ち込んだのだ、紹介がてら月見酒でGOなのだ〜!」
そう言って嬉しげに掲げる杯に、かちん、と小さな音が幾つも重なる。くっと一気に呷って空いた杯に騎沙良 詩穂(きさら・しほ)が流れるように二杯目を注ぐと、ジェルジンスク選帝神ノヴゴルドは深く息を零した。
「ふむ……杯に月を受けるとは、風流じゃの」
その二杯目の杯を満たしているのは、清泉 北都(いずみ・ほくと)が持ち込んだ日本酒だ。地球から持ち寄られたそれは、樽独特の香りが仄かに鼻腔をくすぐり、原酒らしい喉通りの良さでアルコールの高さを余り感じさせない逸品だ。黎明華の持ち込んだ日本酒とを飲み比べながら、その顔は酷く満足そうだ。
「好い香りじゃの……喉越しもよい」
「気に入って頂けて何よりです」
持ってきた甲斐がありました、と笑みを浮かべる北都の横で、ノヴゴルドは早速の三杯目を受けて、水面へ視線を落とすと酒気の深い息を漏らした。
「地球の文化は好ましいの。この雪に閉ざされた厳しく残酷な世界が、それだけではないと教えてくれる」
率直で裏のない誉め言葉に、思わず北都の口元も緩む。多くを語らないノヴゴルドだが、それが気にならない穏やかな会話を、北都はしばし楽しんだのだった。
が、そんな嬉しげな様子の恋人に、クナイ・アヤシ(くない・あやし)邪魔をしてはいけないと思いながらも微妙にそわそわしながら杯を呷った。ただし、中身は水だ。空いた杯に、流石の一流メイドの動きで水を注ぎながら詩穂は首を傾げた。
「飲まれないのですか?」
「ええ……」
問いに、クナイは曖昧に頷いた。年齢的には飲めないわけではないのだが、呑んでしまうと普段より「積極的」になってしまうことから、他国、それも選帝神の前であるということもあって北都に禁止されているのである。その微妙な表情にあえて追求せず、詩穂はにっこりと笑った。
「お好みのドリンクがあればお申し付けくださいね」
そう言って、空いている杯を目ざとく見つけては「お注ぎいたしますね、おねーさま」と黎明華へ酌をしたりと、忙しく動き回った詩穂は、既に何杯目なのか、僅かに頬に上気の伺えるノヴゴルドの杯に北都の日本酒を注ぎながら「好い景色ですね」という言葉が思わずついて出た。
テロリストとして追われた最中、セルウス達と共に走り回ったときには、その雪の深さや寒さの厳しさばかりが身に染みたが、こうやって湯船の中から見やった見渡す限りの雪と、それに負けない針葉樹の緑。闇は雪の白さをまるで淡く発光しているかに浮かび上がらせ、とても美しい景色なのだ、と発見する。
「こんな風に、皆様でのんびりすることが出来るとは、あの時は思ってもみませんでしたが」
感慨に更ける詩穂に「そうじゃの」とノヴゴルドも頷いた。
「セルウスさ……まも、来られれば良いのですけど」
つい常のように「セルウスさん」と呼びそうになったが、ノヴゴルドは気付かなかったふりをして「そうじゃの」とゆっくり頷いた。
「今が大事な時期じゃからの。何、機会はこれから先幾らでも作れよう」
「そう、ですね」
その言葉に、新しい皇帝への期待と共に、年長者としての目線の親しみを感じて、詩穂は表情を緩ませた。ノヴゴルドにとっては、セルウスは皇帝であると同時に孫のような存在にも映るのかもしれない。あえて口出しするまでもない。ノヴゴルドなら、セルウスを厳しくも優しく支えてくれるだろう。
「じゃから今は、わしらが愉しむことこそ肝要じゃ」
「なのだ〜」
ノヴゴルドの言葉に、心も身体も温かくなる心地の詩穂の隣から、ひょいと顔を覗かせたのは黎明華だ。
「杯が空いてるのだ〜」
「あ、いえ、でも私は……」
そう言って、断ろうとした詩穂に、ノヴゴルドが「まあ飲め」と、年齢を慮ってだろう、先ほどクナイ用にと汲んできた水を手ずから詩穂の杯に注いだ。気分だけでも、ということだろう。
「一緒にもっと飲んで愉しむのだ〜!」
の声を合図にし、恐縮と同時に嬉しさを感じながら、三名の杯がもう一度高く小さく音を立てたのだった。
そんな賑やかな光景に、北都が微笑ましげにしているのに、クナイはそっとその傍へと近寄った。
「いい湯ですね」
「うん」
クナイの言葉に北斗は頷いて、ノヴゴルドやエリュシオンの客、シャンバラの契約者達が混在する湯船に目を細めた。地球とパラミタ、エリュシオンとシャンバラ。世界も国も違い、お互いに戦いあったこともある。それが今は、地球のお酒を一緒に飲んでいる。それがどれだけ深い意味があるか。
「本当に、いいお湯だね」
その繋ぐ架け橋であるこの場への敬意も込めて、北都はしみじみと口を開く。そんな北都に、クナイはそっと距離を寄せると、頷いてその指を、湯船の中で滑らせて、北都の指を探し当てた。
「……こんな時が、ずっと続くといいですね」
そして自分達も、と、そんな思いと共に重ねる手の平に、北都は一瞬目を瞬かせながら、その指先を絡めるようにして、そっと握り返したのだった。
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