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そんな、一日。~三月、某日。~

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そんな、一日。~三月、某日。~

リアクション



9


 雷霆 リナリエッタ(らいてい・りなりえった)は、荷物がなくなってすっかり寂しくなった部屋を見回した。
 先月から少しずつ始めた荷造りは順調に進んでいて、残す荷物はせいぜい、各自スーツケースがひとつずつ程度だ。
 あと少し、学校の卒業関係の行司が終わってしまえば、もう。
「…………」
 寂しいような、名残惜しいような気持ちが少しだけ沸いたが、気付かない振りをした。
 それよりも気がかりなのは南西風 こち(やまじ・こち)のことだった。ここのところなんだか、しょんぼりとしているように見える。
 この家を離れることに関して納得してくれているし、大丈夫だと言ってくれているが、本当のところどうなのだろう。
 お姉さんらしく振舞うために強がっているのではないだろうか。
 本当は、離れたくないのでは?
 そう思っても、声をかけてあげることはできなかった。肯定されても今更決意を覆せないからだ。
 ごめんね、こち。
 心の中で謝った。当然こちには伝わらない。
「ねえこち、今日はふたりで遊びに行こうか」
 代わりに、そう声をかけた。
 外はもう随分と暖かく、春の訪れを肌で感じることができる。
 この場所を離れる前に、ふたりきりでお花見がしたかった。


 制約があることで、随分と器用になったとこちは思う。
 キッチン周りを汚さずに料理も作れるようになったし、みんなが疲れているであろうタイミングでレモネードを振舞えるようにもなった。
 色々なことができるようになるのはいいことだ。必要に応じて、リナリエッタの助けになることができる。
「ねえこち、今日はふたりで遊びに行こうか」
 そう言ったリナリエッタが連れて行かれたのは、桜の木のある公園だった。咲いている桜の近くに持参したシートを敷いて、座る。
 春の匂いのする風が吹いた。目の前を、桜の花びらが飛んでいく。ひらひら、ひらひら、風と遊ぶように舞っていた。意識していないのに目が花を追って、右に左にせわしなく動いた。
「ふふ」
 リナリエッタが小さく笑うのがわかった。恥ずかしく思って、追うことをやめる。
「見てていいのに」
「いいのです。もう堪能しました」
 こちが言い切ると、リナリエッタは「そう」と頷き、それ以上は勧めなかった。
 持参した水筒のお茶を出そうとしていると、再びリナリエッタが口を開く。
「あのね、こち」
「?」
「この桜の花ね、次に見に来る頃にはもう、散っちゃって、ピンクの樹を見ることは来年まで我慢しないといけないの」
 どうしたのだろう、急に。それくらい、こちにはわかるのに。
 だけどリナリエッタの表情は真剣だったので、こちは何も言わずに顎を引いた。リナリエッタは言葉を続ける。
「次の年、私たちはこの場所にいないかもしれない。けどね、この樹は来年も素敵な花を咲かせてくれるわ」
 それも、わかっている。そう思ってからようやく、こちは気付いた。
「その時は、またお花見しましょうね」
 リナリエッタがこちの頭を撫でる。
 やっぱりそうだ、とこちは確信した。リナリエッタは、こちが寂しがっていると思っている。
 確かに、寂しくないわけではない。
 会いたい人に会えなくなるのは悲しいと思うし、相手もそう思うかもしれない、と考えるとまた悲しい。
 けれど、それだけではないではないか。
 この世界は、どこまでも綺麗なものがいっぱいある。
 今日リナリエッタがこちに桜を見せてくれたように、誰かに見せたくなる景色で溢れている。
 綺麗なものを見て、誰かに見せてあげたいと考えることができるようになりたいと、こちは思う。
 誰かと見たかった、と寂しがるのではなくて。
 いつか見せてあげるんだ、と。
 そうなりたいこちだから、寂しがるばかりなんかじゃ、ない。
「マスター」
「……うん?」
「お外には、桜の花、あったら嬉しいです」
「……そうね」
「桜の花がなくても、綺麗なお花、こちが探します。それで、マスターに、見せてあげます」
「こち」
「マスター。こちは、大丈夫なのです」
「……そうね」
 こちが真っ直ぐリナリエッタの目を見て言うと、彼女は柔らかく微笑んだ。微笑んで、もう一度こちの頭を撫でた。暖かくて優しい手だ。こちの大好きな、手。
「マスター」
「なあに?」
「一緒に綺麗なもの、探しましょうね」
 綺麗なものを見つけたら、弟妹たちに教えてあげるのだ。
 写真を撮って、手紙に添えたりして。それをクロエに送ったら、きっとみんなで見てくれる。クロエは返事をくれるだろうし、そうしたら、どうだ。離れていても、繋がっているではないか。
 何も寂しいことなどない。こちは心の中で呟いて、桜を見上げた。
 頭上の桜は、見事なまでに咲き誇っていた。