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リアクション
●Walk on
音声入力装置は今では、かなりの精度で思考を文字に書き起こしてくれるし、キーボードによる入力だって、適切な言葉やその意味を、あまり考えず引っ張り出すには便利なツールだけれど、それでも皆川 陽(みなかわ・よう)はペンを持って手で、原稿用紙に言葉を書き連ねる手法が好きだ。アナクロニズムかもしれないが、手を動かして書き、インクと紙の匂いに埋もれて思考の海をただようほうが自分に合っている気がする。
実のところ、そうしないと良い文章が書けない。登場人物にも情景にも、血や息吹が感じられないのだ。これまで陽が上梓してきたたくさんの物語のほとんどは、そうして書いてきたものだ。
いま、陽の目の前にも、そうして生まれたばかりの小説がある。原稿用紙にして六百枚超の長編、明日までという締め切りにはなんとか間に合った。
最後の一行にはエンドマークとしての『《完》』の文字が打たれ、剣のようにふるってきたペンはその横に倒れている。ほんの少し前までこのペンは火を吹くように激しく動いていたのである。今も、指先で尖端に触れればその熱が感じられるかもしれない。
物語は、主人公が新たな未来へと歩み出す場面で終わっていた。当初のプロットでは、彼すなわち主人公は悲劇的な死を迎えるはずだったのだが、書いているうちに陽はその展開に疑問を抱くようになり、結末部に大胆名変更を加えたのだった。
それが正しい判断だったかどうかは、わからない。
読者が判断することだろう。
それは今から十数年後。
守ってくれる、強くて綺麗な顔をした騎士に、自分はすべてを委ねていた。どんな駄目な自分も全肯定してもらえるっていうのは心地良い天国だった。なにかしようとしてつまずいても、怪我するくらいなら歩かなくて良いよって抱きしめてもらえた。
自分はそれに頷いていた。ずっとそうしてきた。
だからあんなことになった。
物語を作りたいっていう自分の夢を追いかけようとして、彼の腕の中を抜け出そうとした。
それがもとで、自分は彼に殺された。
契約の力がヘンに働いて魂だけが現世に残った。
それとも、パートナーロストで壊れた(その前から壊れていたのかもしれない)彼が、ボクを生き返らせようという名目で彼の思い通りのボクを創ろうとしてやっているおぞましい行為のせいだろうか。
ボクたちはどうしようもなく間違っていた。
だから……戻って変えなきゃって、決意したんだ。
「変えなきゃ! 救わなきゃ!」
陽(ユウ)は叫んだ。
叫んだ……つもりだったが、
「そろそろ夕ご飯だよー」
と肩に置かれた手で突然、現実に引き戻された。
「……はへ? 寝てた?」
「うん。書き上げた疲れがどっと出たのかな? 何度か呼びかけたけど起きなかった」
という笑顔はテディ・アルタヴィスタ(てでぃ・あるたう゛ぃすた)のものだ。
それでも陽の頭はまだ、霞がかかったようで判然としない。
どうやら起こされたようだが、それでもまだ、目覚めているはずのこちら側のほうが仮想世界のようにも感じてしまう。
――えーとここはどこだ……家?
そうそう、自分の家だった。
「嫁と二人で助け合って働いて、二人の力で買ったこの家に住んでるんだった……」
確認するようにつぶやいた。
「なに言ってんだよ、ずっと前からそうじゃないか」
テディは腰に手をあてて陽を見おろしていた。
「そうだよな? 記憶もしっかりあるよ? でもなんかヘンな……夢を見たような気がする」
やはり夢だったのだろう。夢の記憶は、話している今この瞬間にも急速に消えていく。記憶のタンクに孔があいて、そこからどんどん流れ出していくかのように。
「え? 夢?」
テディは陽の発言を聞いて小首をかしげた。
「そういえば、昨夜僕も夢を見たような気がするんだよね。よく覚えてないけど、自分のせいで何かとても大事な物を壊しちゃって泣いたような……」
その刹那、チカッと陽の頭のなかでなにかが瞬いた。
しかしそれは、あらわれたと同時に消えてしまった。
もう、さっきの夢らしきものを説明しろと言われても、できない。
ただ、今この時間より先の未来だったような気がする。といっても予知夢と言うよりは、誤った目的地という印象があった。たとえるならば、乗る列車を間違えたとでもいうかのような。
「まあ、でも夢の話だよ」
「そう……夢、だよね」
陽はゆっくりと息を吐き出した。目をしばたくと、もやもやしたものはなくなり、かわりに自分が、ひどく空腹であることを思い出した。
「ずっと書いていたものがようやく終わったよ。ほっとしたら、お腹空いちゃった」
そうだろうと思って、とテディはウインクする。
「お腹に優しいもの作ったよ」
さあ、とテディは陽の手を取り、階下のダイニングに誘う。
「うん」
陽は立ち上がって、ちょっと顔をしかめた。短い時間だったようだが、変な姿勢で椅子に座ったまま寝ていたようで肩が痛い。
「小説家ってすごいよね。雇われ騎士として物理的に戦って働いてる自分とは違う仕事だけど、なんていうかこれも戦いだね」
テディは朗らかな口調だった。仕事中の陽には話しかけないようにしているので、しゃべりたい気持ちが溜まっているのかもしれない。
「自分にはわからない世界で手伝えないけど応援してるよ。だから、一緒にいる時は安らいでもらいたいな」
「ありがとう」
席につくと、テーブルで湯気を立てているのは好物のホワイトシチューだった。とろとろに茹だった人参やジャガイモがとても美味しそうだ。なるほどこれは、お腹に優しいに違いない。
つつましいながら、楽しい食事である。ふたりの会話も、自然と弾んだ。
「テディは明日仕事なの? ついていくよ。魔法のサポートあったほうが良いよね?」
「え? そりゃあ、サポートがあったほうが心強いけど、陽は大きな仕事が終わったばかりで疲れてるんだろう? ゆっくりしたほうがいいんじゃ……」
と言うテディの手に、陽は自分の手を重ねた。
「離れたくない気分なんだ。ほら小説のネタにもなるしね!」
陽の黒い瞳。
可憐で、儚げで、それでもこの数年でずっと強く、たくましくなった瞳。
意志も情熱ももった瞳だ。
こんな目をされては、テディに断れるわけがない。
「わかった、一緒に行こう。でも朝が早いよ、起きられるかな?」
「だったら起こしてよ。自分で目覚ましをかけてもいいけど……テディに起こされるのが好きなんだ」
明日は、晴れるといいな。