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■第11章

 手紙にあった応接室へ入った直後。ラウルは黒い仮装用マントをすっぽりかぶった人物に手を掴み取られた。
 かすかに震えた冷たい手。彼女と直感した彼は、引かれるままにあとをついて歩き、2階のボックス席に入った。
「ラウル…」
 クリスティーヌの名を呼び、近寄ろうとした彼の動きをさえぎるようにクリスティーヌは手を上げ、もう片方の人差し指を口元に立てた。
 静かに、と言っているのだ。そしてドアに耳をあて、聞き耳をたてて廊下の様子を伺う。しんと静まり返った数分を経て、彼女は周囲にだれもいないことに納得して、そっとフードを取り払い、その天使のような面を見せた。
 緊張のためか、いくぶん青ざめた顔を。
「あまり時間がないの。長くはエリックをごまかせないわ。聞いて、ラウル。わたし――」
「ずっと、やつと一緒だったのか?」
 苦々しい声で、ラウルは低くつぶやいた。
 本当はそんなことを言うつもりはなかった。こんな恨みがましい言い方で。
 彼女は自分のものでもなんでもない。2人は恋人同士というわけではないのだ。彼女はだれとでも一緒にいる権利があるし、それをとやかく言う権利など自分にはない。
 それは分かっていたが、彼女の唇から第三者の存在を知らされると――胸を掻き毟られるような嫉妬を感じずにはいられなかった。
 クリスティーヌはそっと目を伏せ、顔をそむけた。
「そのことには触れないで。それよりラウル――」
「きみはまだ未婚の女性なんだぞ? それが男と2人きりで何日間もずっとすごすなんて! これがどういうことだか分かっているのか!? 本当にきみを愛する男ならこそこそさらったりせず、堂々と結婚を申し込んでいるはずだ! なのになぜきみだけがここにいて、当の男はいない?」
「ラウル、声が大きいわ。もっとひそめて――」
「ここに来ているのか? ならちょうどいい、面と向かって言ってやる。そうすればだれがきみを本当に愛しているか、はっきりするさ!」
「やめて!!」
 クリスティーヌは聞きがたいものを耳にしたように、叫んだ。
 はっと口に手をあて、ドア向こうの様子を伺う。まるで何か、おそろしいものが今にもそこから現れるのではないかとおびえているように。
「わたしたち2人の愛にかけて、そんなことはさせられない」
「2人の愛だって?」
 彼女の用いた言葉に、ラウルは鼻で嗤った。
「きみがぼくを愛してくれたことがあったか? いつだってぼくを無視し、ぼくの好意を投げ捨て、ぼくの愛を踏みにじってきたきみが。……ばかばかしい。きみにはひとを愛する心なんて到底分かりやしない」
「分かるわ……あなたを愛しているもの…」
 うそだ、とラウルは否定しようとした。けれど顔を上げた彼女の頬を静かに流れる涙が、彼から言葉を奪った。
 彼女が流す涙は、今までの彼女から受けた屈辱や鬱屈した思いすべてを彼から洗い流し、彼女への愛のみをよみがえらせた。
「クリスティーヌ…!」
 抱きしめようとしたラウルの胸を、クリスティーヌが強く突き放す。
「さようなら、ラウル。あなたにこれだけは告げようと思ったの」
「さよならだって?」
 ついさっき、ぼくへの愛を告白してくれたのに!?
「私、あと一度だけマルガレーテを演じるわ。でもそれだけ。もう二度と歌わない。地上に現れることはないでしょう」
 天を夢見て地獄で一生を終える――彼女はその決意だった。ラウルを見るまでは。それは強く、固い決意で、だれにも覆せないと信じていたのに。
「なんだって!?」
「ああ、あなたと会うんじゃなかった……こんなに心が乱れるなんて…」
 去ろうとする彼女の腕を取り、強引に引き寄せた。
「駄目だ、行かせないぞ! どういうことだ?」
「――ラウル、わたしたち、少しの間だけ夢をみましょう。ひと月だけ。わたしたち、婚約するの。だれにも知られず、ただ2人だけ」
「そんなことできるものか! ぼくはきみと結婚したいんだ!」
 その口を、クリスティーヌの手がふさいだ。言わないでと哀願するように首を振る。
 結婚などあり得ない。彼は伯爵家の者、自分はただの平民、歌手でしかないのだ。たとえこの状況になくても、伯爵様も、世間も、決して許してはくれない。
「ひと月だけよ、ラウル。わたしに夢を、思い出をちょうだい。あなたの婚約者としてすごす幸せを。その記憶があれば、これから先、冷たい地下でも幸せに生きていけるから」
 止める間もなく、するりと腕を抜け出して、クリスティーヌはドアから出て行った。
「クリスティーヌ!」
 ラウルの手の中に残されたのは、彼女のまとっていた黒いマントだけ…。
 彼女の残り香のするそれを手に、ラウルはやるせなく顔を覆った。

「彼女の指にはまっている金の指輪に気づいたか?」

 闇からささやく声が聞こえた。ぱっと周囲を見回したが、ボックス席にいるのは自分だけだ。
「あの指輪をはめたのはおまえではない。同様に、これまで彼女が歌ってきた歌も、おまえにささげられたことはない」
「だれだ! 姿を現せ!」

 闇は沈黙し、二度と声を発することはなかった。



 羽飾りつきの帽子を頭に乗せ、真紅の衣装を着た髑髏の男が歩いていた。
 ホールに集まった人たちには背を向け、何の関心も示さず、ビロードのマントをひらめかせながらひと気のない廊下を横切る。
 かつかつと音を響かせながら、足早に地下道へと続く階段を下りる髑髏。
「待ってください」
 霜月は踊り場で、行く手をふさぐように立ちはだかった。
「あなたがオペラ座の怪人……エリックですね」
 名前を呼ばれ、おや? と小首をかしげるような動作をする。
「さあ。どなたかと――」
「ごまかさなくていいんです。自分は、全て知っています」
 霜月は気負うこともなく、無防備な体勢で彼に歩み寄った。
「あなたも彼らの会話を聞いたでしょう。あの2人は愛し合っているんです。そうっとしてあげてくれませんか?」
「…………」
「あなたの状況に同情しないではありません。けれど、自分の不幸に他人を巻き込むのは間違いです」
「不幸?」
 髑髏はステッキで帽子のつばを押した。眼窩の奥で目が楽しげな光りを放つ。
「わたしは数オクターブの声を出せるし、どんな歌でも歌うことができる。曲も作れる。こんな才を持つ者がどこにいる? わたしは天に愛された<音楽の天使>なのだ。
 クリスティーヌを見出したのも、育てたのもわたし! きみは聞いたかね? あの天使の歌声を! 類まれなる声だ! 彼女の歌声を聞けば、パリの者たちは即座に彼女の足元にひれ伏すだろう!」
 両手を大きく広げ、魂の宣言をする髑髏――エリック。
 霜月は一切変化なく、ただ静かに彼を見つめ続けた。
 それでも彼は不幸だし、間違いなのだと…。
「……きみには、愛する者はいるかね?」
「はい」
「では分かるだろう。わたしは不幸ではない」
「いいえ。ひとを愛することは幸・不幸と関係ありません。愛することはだれにだって、動物にだってできることです」
 霜月の言葉に、ぴたりと髑髏の足が止まった。
 袖がふれ合うほどすぐ真横にいながら、2人は決して視線を合わせない。

「では、きみは何がひとの幸・不幸を決定すると思うのかね?」
「愛されることです」
 霜月は目を閉じ、愛する妻を思った。彼女が愛してくれていると……そしてメイたち、家族に愛されていると思うだけで、彼は何がなくても生きていけると思えるほど、幸福なのだ。
「……そうか」
 髑髏は再び歩き出した。
 霜月の横を抜け、再び地下へ通じる階段を下りていく。

「エリック。あなたが彼女に愛されたいと思うのなら……そしてその愛を永遠にしたいと願うのであれば、あなたは手放すべきです。そうすれば、あなたは今以上に幸せになれるでしょう」


「……いいの? 霜月。行かせちゃっても」
 上の階段の手すりから、メイがさかさまに身を乗り出した。
「ええ。いいんです。ごめんね、つき合わせてしまって」
「霜月がいいなら、いーけどー…」
 手すりの隙間から足をぶらぶらさせながら、霜月が上がってくるのを待つ。
 メイは、地下から上がってくる髑髏を見つけた最初、きっと霜月に教えれば戦闘になるぞとワクワクしていた。というか、メイ自身、愛する2人を邪魔しようとする怪人なんかボッコボコにしちゃう気満々で、いつでもここから飛びかかれるぞー、って気持ちでいたわけだが。
(なんか、そういう雰囲気でもなかったしー)
 メイだって、空気は読むのだ。――ちょっと残念だったけど。
「ねぇねぇ、霜月! ファントムは分かってくれたかな?」
「たぶん……きっと」
 あの人は、おろかではない。自分の言った言葉を、真剣に考えてくれるだろう。
 霜月はそう信じていた。
「じゃあさ! もし分かってなかったら、今度こそぶっとばしていい?」
 わくわく、わくわく。
 早くもそのときを待ちわびて目を輝かしているメイを見て、霜月はぷっと吹き出すとメイの髪をくしゃくしゃにした。
「もうっ! なんだよ、霜月っ!」
 めいっぱい伸び上がって怒るメイを見ながら、霜月はくすくす笑い続けたのだった。