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■第12章

 オペラ座が再開された。
 演目は『マルガレーテ』主演はクリスティーヌ・ダーエだ。カルロッタからは、もう二度とオペラ座の舞台にはおそろしくて立てないという主旨の手紙が届き、契約を破棄するための手続きを弁護士に依頼したとあった。
 休職期間を終えて現場に復帰したクリスティーヌは『ユダヤの女』を歌い、観客総立ちの喝采を浴びた。オペラ座に新しいプリマドンナが誕生した。そのニュースは紙面を大いににぎわした。もう圧力をかける者がいないのだから、当然だろう。

 ラウルは連日連夜、オペラ座に通いつめた。不可解な婚約、理解できない彼女のおびえと絶望を少しでもやわらげてあげたくて……そして彼女と愛を語らいたくて。
 しかし彼女の指には以前、だれかのはめた金の指輪があり、彼女は決してそれをはずそうとはしなかった。
 どこか、ここ以外の場所へ行こうと言うラウルを、クリスティーヌはだれもいない舞台に連れ出し、作り物の噴水に座らせた。

「作り物の壁、作り物の森、作り物の噴水……ここはわたしたちにぴったりだと思わない? わたしたちの婚約は作り物で、想いは幻想でしかないのだから」

 そしてそんな2人がうわさにならないはずはなかった。伯爵家の次男坊と一介の歌手の結婚――。愛人であるならば世間は騒がない。歌手とはそういう相手だ。事実、シャニィ伯爵フィリップもまた、プリマ・バレリーナのソレリを現在の愛人として囲っている。それが公となるのは愚かしい行為ではあったが、若いのだからのひと言と目上からの忠告ですむ話だった。上流階級とはそういうものだ。

 だがラウルは新聞記者に彼女との婚約は本物で、彼女を必ず妻にすると宣言してしまった!
 オペラ座新星プリマドンナと子爵との結婚。2人の婚約は記事となり、世間の風評を買った。いわく、愛人の力でその地位を得た計算高い女、平民のくせに分不相応にも特権階級に入りこもうとする女。

 オペラ座は満場の入りとなったが、そのほとんどが演目とは関係なく、クリスティーヌを敵視する者たちの集まりだった。
 観客から一斉に向けられた冷ややかな視線に、クリスティーヌは動揺した。ファウストに焦がれるマルガレーテの歌に、聴衆は薄笑いを浮かべ、2階ボックス席のラウルを振り向いた。

 だれもクリスティーヌに喝采を送らない。赤幕を前に、クリスティーヌは蒼白し、ガタガタ震えていた。
 逃げ出したかった。ここにはだれも味方はいない。だれ1人! 全員がわたしの失敗を待ち構え、嘲笑する瞬間を待ち望んでいる。
 だが赤幕は容赦なく動き始めた。

 ――さあ、ついに最後の幕が上がる。



 笹野 朔夜(ささの・さくや)はきょろきょろと観客席を見回した。だれも立つ者がいなかったため、後ろの席からも十分前列の様子は伺えた。
 1階中央の席にその人物を見つけられたことに、ほっとする。
 両左右が空いていたからだが、おそらくはそれも彼がチケットを押さえたからに違いない。すし詰めの席で鑑賞するような者ではないからだ。
「やっぱりいましたよ」
 こそこそ。隣の笹野 冬月(ささの・ふゆつき)に耳打ちする。
「ま、当然だろうな。5番ボックスは警察が張り込んでいる。そこへのこのこ出て行ったりはしないだろう」
「では冬月さん、お願いしますね」
 冬月は、本当にやるのか? と言いたげに、少しだけ首を傾けて朔夜を見た。
 朔夜は先までと変わらない目で冬月を見ている。
(――このにこやかな笑顔のときが一番曲者なんだ、こいつは)
 朔夜の真意を測ろうとするとき、表情を見てはいけない。かれは柳葉と同じで、強風に逆らいはしないがそのただ中にあっても決して折れたりはしないのだ。そうと知る冬月は、彼の目に静かな決意を見て、ふうと息をついた。
「……頑固者だ、おまえは」
「え? やだなぁ。何もしませんよ。オペラを見るだけです」
「どんなに同情してもいいが、やつは人殺しだ。それだけは忘れるなよ」
 そう言い置いて、冬月は防音の厚い扉を抜け、ホールから出て行った。もしものとき、扉の前で警察を食い止めるのだ。
 扉近くに立った巡査の1人に近づき、それと同化する。
「――「僕がファントムさんになれば誰も亡くならないですみますよね♪」って、そのだれもの中に自分を入れてないだろ、あのあほが」
 警察はその怪人を追っているんだぞ? わがままな頑固者め。
 あいつはいつもあの調子で、笑ってなんでもないことのように口にするから、だれもなかなかそうと気づけないんだ。
「ああでも、それと知って止められない俺も、十分あほかもな…」
 こつん。
 扉に背中を預け、冬月は両腕を組んだ。



「前をすみません」
 朔夜は謝罪を繰り返し、目当ての空席までたどり着いた。
「隣、いいですか?」
 何食わぬ顔で燕尾服の男に訊く。チケットを見せもせず、あえてここは自分の席とも言わない彼に、男は白手袋をした手で握ったステッキで、席を指した。
 シルクハットのつばから見える口元が笑んでいる。
「ありがとうございます。でもよかった、最後の幕に間に合った。この舞台はすばらしいと評判だったので、ぜひ観たかったんです」
 朔夜は相手の警戒心を解くように笑顔で話しかけ、隣にかける風を装って、2人の間の肘置きに手を下ろす。しかし次の瞬間、彼は男の膝に座るように、体を重ねた。
 重なると同時に怪人の姿は揺らいで薄くなり、怪人と二重写しとなった朔夜がそこに座っている。
 怪人の心が朔夜の中に流れ込む。
 今まで感じたことのない心の闇の冷たさに、息を飲む朔夜。それと同時に、赤幕が開かれ、舞台中央に立つクリスティーヌが現れた。

 わが子を殺した罪で投獄されたマルガレーテ。助けにきたファウストを拒み、天による救済を求める。

     天使たちよ、わたしを運んで
     天空に住まう彼の御許へ
     悪魔に連れ去られる前に
     わたしの魂をどうかあの御方の下へ――!


 クリスティーヌは堂々と胸を張り、全身全霊で歌った。ボックス席にすっくと立ち、食い入る眼差しで彼女だけを見つめる彼に両手を差し伸べ、愛を熱唱した。

「……彼女はすばらしいですね」
 朔夜はだれにともなくささやきかけた。
 固く縮んだ心の闇は沈黙し、朔夜と完全に同化することを拒んでいる。その冷たさを少しでもぬくもりに変えられたらと、朔夜は自らの心で闇を包んだ。
「彼女は美しく光り輝いています。それがなぜだか、あなたも知っているでしょう? オペラの心を理解するあなたに、人の愛が理解できないわけはありません。
 闇の世界に連れて行きたいあなたの気持ちも分かります。あの輝かしい光で、彼女も一時は闇の中のあなたを慰めてくれるでしょう。でもやがてその光は褪せ、勢いを失う。
 彼女は光にいてこそ輝くひと。あなたも、本当は分かっているのではないですか?」
「…………わたしは――」
 怪人の心が、何かを語り始めたとき。
 それは起きた。


 突然、ごうという風とともに、何かが舞台に降り立つ。
 ダンッ!! という、何か固い物が床に落ちた音はしたが、姿は一切見えない。
「きゃあ…っ」
 よろけたクリスティーヌの体が、宙でくの字に折れた。
「いや……あっ……やめて……あああっ…」
 苦しげに身悶えるクリスティーヌ。折れた腹部のところに両手をあて、何かを引き剥がそうとしているかのように必死に手を動かしている。
「……ええい、暴れるな。抵抗するならこうだ! ――アボミネーション!」
 何も見えない場所から声がした。
 クリスティーヌの横付近だ。
「きゃあああああっ!!」
 クリスティーヌの顔が青ざめ、恐怖にゆがむ。
「いやっ! やめてっ!!」
 背後の宙へクリスティーヌの手が伸び、何かを押しやろうとしているかのように動く。
「だ、だから……動くなと…。えーい、もひとつおまけだ、その身を蝕む妄執も受けろ!」
 そのとき、クリスティーヌの指が何かに引っかかった。無我夢中でそれを引っ張るクリスティーヌ。
 光学迷彩が解除され、途端、クリスティーヌを横抱きに抱え込んだザカコ・グーメル(ざかこ・ぐーめる)扮する怪人の姿が舞台にあらわとなった。

 何もなかった空間に一瞬で現れた怪人の姿に、観客が一斉に息を飲む。
「これは一体、どんなトリックなんだ!?」
「とゆーか、これも舞台なのか?」
「『マルガレーテ』にこんなシーンあったっけ?」
 ざわざわ、ざわざわ。
 アクシデントか、はたまた演技なのか? 判断がつきかねている観客を前に、きらーんとザカコの仮面の下の目が光った。

「くくく……苦しいか、マルガレーテよ。これはそなたの罪なのだ。リア充たるおまえがやすやすと天に昇ろうなどと片腹痛い。たとえ天が許そうともこの私が許さぬ」

――わー、ザカコさんノリノリ。

「……だれ、あなた……ああ、いや……助け…」
「もっと泣け、わめけ、絶望しろ! そして知るがいい! だれもおまえを助けられはしないということを!」
 そうとも! クリスティーヌめ! あれだけの恩義を受けながら、その目を掠めてラウルなんかと婚約するとは!
 やはり世の中顔か! 本の中でも顔なのか!? ――おのれリア充め!
「おまえは私のものだ! 今すぐ、この場からおまえをさらっていき、爆発……もとい、私だけのものとしてくれる!」
 ふはははははーーーっ。
 取り返した光学迷彩をマントにみたて、ばっさばっさやるザカコ。
 まさに天に昇らんとしたマルガレーテを迎えにきた悪魔そのもの!

「なぁんだ、やっぱり演技だよ。最後を創作したんだ」
「ああ驚いた」
 観客は胸を撫で下ろして再び座席に腰を下ろす。
 だれも彼女を助けようとはしないことに、ほくそ笑んだザカコ。さああとは気絶したクリスティーヌを連れ去るのみ、と退路をうかがったときだった。

「お待ちなさい!!」

 やはり舞台上で、ザカコを呼び止める者がいた。
 いつからそこにいたのか、黒のシルクハットに燕尾服、白手袋にステッキを持った仮面の男が立っている。

「おまえはだれだ!?」
「俺か! 俺はファントム!」
「なんだと!? 俺がファントムだ! 先に出たんだからな!」

「はーい、ボクもファントムね〜」
 もぐもぐ、もぐもぐ。
 前の場面の仮面舞踏会から堂々盗み取ってきた大皿料理を食べながら、鏡 氷雨(かがみ・ひさめ)が手を挙げて意思表明した。
 だぶだぶの燕尾服、頭半分がすっぽり入って今にも転げ落ちそうになっているシルクハット。ズボンの裾も引きずっていて、仮面は食べ物の汁がついて汚れている。
 よっこらしょ、と客席側から舞台に飛びつき、這い上がった氷雨は、あらためて皿の料理をもぐもぐする。

「俺がファントムと言ったらファントムなんだ! 名乗ったモン勝ち!」
「どこの小学生だ、てめーは!!」
 舞台の2人は完全無視――というか、視界にも入れてないらしい。最初っから全く気づいてないのかもしれない。

「ファントムの名をかたる悪者め、クリスティーヌを置いて今すぐ立ち去るがいい!」
 びしィッ! ステッキで指差す新ファントム。
 書き割りの上に立って見下ろしているせいか、スポットライトまでしょっていて、こっちが正義の味方のように見えた。
 というか、ザカコのしていたことはまるっきり悪役なので、だれがどう見てもこっちが正義!
 だがいかんせん、立っている場所が悪かった。
 かっこつけるにはいい場所だったが、薄いセットは安定感がない。
 それと見抜いたザカコが、けりっとばかりに軽く横払いをかける。

「――はうおっ!?」
 新ファントムはあっという間にバランスを崩し、びたーんと舞台に腹打ちをしてしまった。

 そしてあらわになった、新ファントムの背後面。
 なんとそこには、背中を渡ってチョウチョ結びになった糸が数本しか張られていなかった!!
 背面を決して見せないことを前提として作られた、前身ごろのみの欠陥衣装である。
 とんだ安衣装もあったもんだ。こんなの、見つけてくるのも難しい。
 ご丁寧に、シルクハットも前半分だ。
 ぱんつまで、ひもしかない……というか、Tバックだ。つーか、アレだ。ジャパニーズTバック。
 男は黙って赤ふん! のジャパニーズ勝負ぱんつだ。

 ――うわ、また怪人違いが現れた。

「いたたたた…」
 打った鼻を押さえながら身を起こす新ファントム。仮面がぱりんと割れて、如月 正悟(きさらぎ・しょうご)の顔が現れる。
 その上に、人影が落ちた。
 ザカコである。
「――――フッ」
 がーーーーーーーーーーん

 勝ち誇るならまだしも、あわれみの目で、鼻で嗤われてしまったっ!
「ちっ、ちがっ……予算が……金がなかったんだ…!」
「スウィップがそんなの用意するわけないだろ!
 吹っ飛べ変態!! 力が正義だ! っつーか、勝ったモンが正義でファントム!」
 ザカコが振り切る腕に現れるカタール。そして炸裂する罪と死!

「うぎゃあぁぁぁ!!!」
 正悟は吹き飛ばされた。壁を突き破り、はるか彼方の虚空へ向けて。
 あとに残ったのは、人型にあいた壁の穴のみ!

 ザカコやクリスティーヌの姿も、消えていた。

「だーかーらー、こういうときは「俺たちがファントムだ!」って言えばよかったのにねー」
 1人残されたファントム・氷雨は、顎までずり落ちそうになるシルクハットを支えながら、皿の料理に手を伸ばした。
 ……もぐもぐ。うん、これほんとにおいしい☆



 バン! と押し開けられた扉の向こうから、ミフロワ警視――ルカルカと、エースが飛び込んだ。
「どこ? ファントムは、ここにいたんでしょう!?」
 つかつか歩み寄り、席に座したままの朔夜を見下ろす。冬月に突入の妨害をされたことで、相当いらついているようだ。
 彼女たちの後ろで冬月扮する巡査が肩をすくめているのを見ながら、朔夜は首を振った。
「彼は行ってしまいました。おそらくは、クリスティーヌを追って…」
 


 そしてここにもう2人、ファントムとクリスティーヌを追う者たちがいた。
「クリスティーヌは「冷たい地下でも幸せに生きていける」と言った。彼女は地下にさらわれたんだ」
 刹姫・ナイトリバー(さき・ないとりばー)扮するラウル、そして彼に手助けを申し出た<謎のペルシャ人>ダロガに扮したマザー・グース(まざー・ぐーす)である。
 2人はオペラ座の地下迷宮へと深く、深く、もぐって行ったのだった。