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●Hymn to Her

「名誉とか裁きだとか、あるいは、人生の清算だのなんだの……あんたらの吐く妄言はもう聞きたくないんだよ!」」
 彼女は叫んでいた。クランジΛ(ラムダ)はあのとき、憤怒の形相だった。
 しかし西宮 幽綺子(にしみや・ゆきこ)は思う。考えるほどに、その思いはつのる。
 あのときラムダは――泣いていたのではなかったかと。
 助けて、と悲鳴を上げていたのではなかったかと。
『父親』なんていう言葉は特にね!
 そう言い切ったラムダが、最後にその父親を呼びながら逝ったという。
(「不思議ね……」)
 雲ひとつなき秋空を、眺めつつ幽綺子は左手を握りしめた。
(「なんだか私、あの日からΛの夢ばかり見るの」)
 夢の中でも、ラムダは幽綺子の左手を砕く。吐き捨てるように幽綺子の言葉を否定する。けれどその顔は慟哭し、救いを求めて両手を伸ばす。
 なのに……助けられない。
 幽綺子の見る夢は夢であって現実ではないというのに、決してラムダは助からないのだ。
 契約者たちの集中砲火を浴びて砕け散るときもあれば、教導団の軍勢に破壊されることもある。巨大な白い狼に踏みつぶされるパターンも一度や二度ではなかったし、顔の見えない新手のクランジに八つ裂きにされることもあった。
 いずれにせよ共通するのは、ラムダが生き残れないという結末だ。
「……っ」
 瞬間、幽綺子は左手の甲に鋭い痛みを感じた。
 あのときラムダに折られた手だ。完治はしていない。
 いや、医学的見地からなら『治って』はいる。レントゲンで調査すれば元通りなのは一目瞭然だ。思ったように動かせる。重いものも持てる。
 しかしふとした拍子に、内側に火でも籠もっているような痛みを感じるのだ。ごく、たまにではあるが。
(「………手が痛むたびにあの子の事、思い出しちゃうのよね」)
 『父』の話をした時の、あの子の表情が忘れられない。
 冷たい風が、芝を撫でながら上昇していった。
(「……残念ね。機会さえあれば、仲良くなれたのかもしれなかったのだけれど」)
 幽綺子はまたも空を見上げていた。
(「ダメね。感情移入しても仕方が無いのはわかっているのだけれど……」)
 このところずっと、幽綺子の心は同じ場所をさまよいつづけている。

 心ここにあらずといった幽綺子の背に、博季・アシュリング(ひろき・あしゅりんぐ)はどう声をかけていいのかわからなかった。
(「……あんなこともあったし気分転換、百合園の綺麗な雰囲気ならきっと幽綺子さんも……って思ったんだけどな……」)
 元気な幽綺子が見たかった。
 お姉さんぶって叱ってくれる幽綺子でも、
 自分の『思いつき』をしっかりフォローしてくれる幽綺子でもいい、
 いずれにせよ、物思いに沈む幽綺子ではない幽綺子がまた見たかった。
 無力を感じないわけにはいかない。とりわけ、ラムダの最期を聞いてからは特に。
(「無力だなぁ、僕は。結局誰も助けられなかった。幽綺子さんにも、大怪我負わせちゃったし……。もっと強くならないとなぁ……」)
 ふと博季は我に返った。やめやめ、自分まで暗くなって、どうして幽綺子を元に戻せるだろう。せめて今日くらいは嫌なことを忘れて、楽しくすごそうじゃないか。
 そんな博季を救う一条の光のように、その人は百合園のサブグラウンドを歩いてきた。
 アゾート・ワルプルギス。ちょうど一人だ。移動の最中だろうか。
 博季は呼びかける。
「あー、アゾートさん! ごきげんよう」
「あ、キミは、確か……」
「博季です。博季・アシュリング、何度かアゾートさんの依頼でご一緒しましたよね」
「そうだったね。こうして話すのは初めてだったかな」
「ええ。あの……せっかくですから、お茶、していきませんか? いや、別にナンパの常套文句というわけではなくてですね……」
 アゾートは栗鼠のように笑った。
「わかってるよ。そもそもキミ、新婚さん、でしょ?」
 空いた毛氈の上で、茶を手にしつつ言葉を交わす。
 博季は様々なことを話した。互いの情報を交換した。とりとめのない会話だとは自分でもわかっていたが、話すことそのものに癒しの力がある。いつしか博季は自分の将来のことについて語っていた。
「こう見えて僕、イルミンスールで先生……のお手伝いしてるんですよ。いつか、きちんと担当とか持てたらいいなぁと思うんですけどね。教師免許は持ってるんですけどね。まだまだ勉強不足で……」
「そうだったんだ。いずれ、博季先生って呼ばないといけなくなるね」
「いや、そんな立派なものでは……あ、そうだ!」
 ぽん、と手を打って博季は言った。
「アゾートさんは錬金術お得意でしたよね……ってこれは失礼か。ごめんなさい」
「それほどじゃないよ。『賢者の石』についてものすごく興味があるだけ。趣味の延長というか……」
「それでも大したものです。ですので、手ほどきなんか教えていただけませんか?」
「手ほどき? 錬金術の?」
「ええ、そうです。僕、あまりにも専門外なんで、できれば初歩の初歩から知りたいくらいなんです。アゾートさんの腕前は伺ってますから。貴女なら安心して頼めます。いやー、いざ先生になれたときに生徒からの質問に答えられなかったら、寂しいですから」
「そんなにおだてられると困っちゃうな……。まあ、暇なときにでも、ちょっとずつね」
 器を返してアゾートは立った。
「じゃあ、僕、そろそろ行くよ」
「錬金術の話、本気ですからね。いずれ、指導を受けに行きます」
 ふと振り返って博季は口元を緩めた。幽綺子が、アゾートにあいさつしに来ていたのだ。
「あら、博季のお友達かしら? 私ははじめまして、ね」
「ボクはアゾート・ワルプルギス、よろしく」
 わずかだが、幽綺子の顔に血色が戻っていた。
 アゾートの存在が、少し、幽綺子を前向きにしてくれたようだ。二重の意味で、博季は内心、アゾートに感謝するのだった。