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リアクション
●桜並木に春が降る(6)
桜並木の中に、イングリット・ネルソン(いんぐりっと・ねるそん)の姿もあった。
背筋をしゃんと伸ばしつつも、悠然と自然を愛でながらイングリットは往く。
「これぞ日本の美といったところですね」
こうした光景の中にいるだけで、不思議と落ち着く彼女なのである。前世は日本人だったのでは、と冗談半分で言われたことがあるが、あながち的外れな話でもないかもしれない。
このとき、
「……!」
イングリットの胸は高鳴った。息を呑む。
なぜって、桜の樹の間に彼女の憧れ、見習いたいと思う女性ナンバーワンのアトゥ・ブランノワール(あとぅ・ぶらんのわーる)がいるのを見出したのだから。
武道家として、アトゥは泰然自若としつつも破格に強い。
女性としても、同列に並ぶのがおこがましいほど洗練されている。
それらをひとまず措くとしても、アトゥの懐は広く、人格的にも成熟しているのだ。
「おや、イングリットくんじゃなにか、久しぶりだね」
「あ、はい……! お久しぶりです」
恋する乙女、というのとは違うかもしれない。しかしアトゥに駆け寄るイングリットの動きはそれに近いものだった。
「春だね」
アトゥは眼を細めた。白と黒の髪が、風になびくに任せつつ、
「いつの間に春になったのか、気づくのが遅れてしまったようだよ――時が経つのは早いものだ。いやはや、この調子だとおばあちゃんになっちゃうのもあっという間かもしれないな」
「そんなことありませんわ。永遠に若いままでいてくださいまし」
アトゥ相手だと、つい甘えたような口調になってしまうイングリットである。
ははは、と彼女は笑ってこれを聞き流し、
「春の訪れをこの目で照覧すべく、立派に咲いている桜の観賞がてら並木道を散歩していたところだよ。イングリットくんもそのくちかい? ……そうか。だったらしばらく、ともに散歩しないか」
イングリットにとってこの申し出は望外の喜びである。二つ返事でアトゥに並んだ。
「最近はどうだったかい? 色恋、楽しかったこと悲しかったこと、あれば聞かせてほしいものだね。そしてあれから、何人の強者と拳を交えたのかも」
「色恋……ですか? 特にありませんね」
イングリットは即座に否定して続けた。
「何人かは指折り数えてはいませんけども、週末はキマク近郊で強敵と拳を交えていますわ」
「強敵との戦いについてはそれは結構なことだねえ。けれどできれば、恋愛や学校生活にも同じくらい力を入れてほしいな」
「なぜです?」
「なぜって……一言で言うのは難しいが、まあ、様々な人生を豊かにするからだよ、キミ」
「けれどそれは武の道を究めるのに役立つのでしょうか?」
「まずはキミ、武道だけにとらわれた考え方をやめたほうがいいのではないかな? 私は、『強さ』というのはその人の人生から滲み出てくるものだと思っている」
「人生、からですか……」
まあそう硬くならずに、とアトゥは言ったのである。
「私もまだまだ修行の身さ。武道に限っても、人生という大きな意味でも」
このときアトゥは、以前イングリットに師事を請われたことを思い出した。
「あのとき、イングリットくんが求めた私への弟子入りを断ったよね? でもそれは、意地悪や吝嗇というものではないんだ。何故ならと理由を述べるのなら、私などは武の道においてはひよっこも同然、ましてや人生においてをや、というやつだからね……柄ではないという理由もあったけれど、やはり人に何かを教えるにはまだまだ未熟なのさ」
「そんなことはありません!」 身を乗り出したイングリットは、熱のこもった視線をアトゥに向けた。「それでもわたくしは……!」
ところがこのときアクシデントが発生した。
イングリットのスカートがめくれあがったのだ。それはもう、スカートが顔に当たるくらいに。
「えっ……!? 風!?」
顔から日が出るくらい恥じながら、イングリットは周囲を見た。どうやら風がピンポイントに、自分だけ目がけて吹いたようだ。そんなことがあるのか……!?
アトゥは反射的に構えを取っていた。しかしすぐにこの風に、スカートをまくる以上の悪意がないことを悟り、再び何食わぬ顔に戻ったのである。
(「一瞬で熱くなってしまった。……やれやれ、春の陽気にでもあてられたのかな。どうやら私もまだまだ青いようだね」)
やはりまだ未熟、と悟ったか、「手合わせ」という言葉を唇にのぼらせようとしていたものの、アトゥはそれを引っ込めることにした。
(「イングリットくんが私を鑑にするというのなら、せめて少々のことには動じないようにしなくては示しがつかないからね」)
大人をやるのも大変だ、とアトゥは思った。
さて例の突風だがこれは、もちろん自然のものではないのであった。
「わらわは風! 悪戯な春一番なのじゃ!!」
と、呵々大笑するの春の神……を自称するエロ神な医心方 房内(いしんぼう・ぼうない)が起こした危険な風のイタズラなのだ。
そんな春の神は、桜の枝と枝の間に隠した脚立に昇り、周辺をくまなく見渡している。
西に少女のグループあれば、
「風の悪戯なのじゃ。だから、スカートが捲れてもしょうがないのじゃ」
と、女子のスカートを吹き上げ、東にカップルあれば、
「………皆が幸せなるようにわらわからの祝福なのじゃ」
と、これまた皆の下着をあらわにする。
「お盛んですね」
房内のいる木の下で、幹に背を預けつつ鬼龍 貴仁(きりゅう・たかひと)は言った。
貴仁は房内の真の目的を知らず、単に桜吹雪ををほうぼうに流している程度に考えている。手には杯、そこには御神酒がなみなみと注がれていた。といってもこの『御神酒』は空京神社にて配布されたノンアルコール飲料なのでその点ご理解の程を。
同じく、手に朱塗りの杯を手にしつつ、房内はふふと笑った。
「そうじゃの、盛んじゃの。これはな、嬉し恥ずかしのイベントを作りだしておるのじゃ。善行なのじゃよ………春じゃしの」
「春風の演出というわけですね」
貴仁はうなずきつつ杯を傾けた。
そういえば、春風で桜吹雪を作るにしても、『嬉し』はともかく『恥ずかし』とはどういうことだろうか……と、貴仁も思わないでもなかったが、陽気が招くほんのりした眠気が、そのような思考を明確な形にしなかった。
貴仁は軽くあくびした。春に、その温かさに抱かれているような気分。なんとも幸せだ。この時間おw噛みしめるようにしみじみと言う。
「春の陽気はいいですね。のんびりできて……心が安らぎますよ」
「なんじゃ主様、若いのに年寄りのような」
「ははは、しかし普段、事件やトラブルといっためんどくさいことには事欠かないこの地ですからね。たまにはこうして太平を楽しむのもいいでしょう?」
「まあ、それもそうじゃのう」
房内が、するすると樹を伝わって降りてきた。
「では」
つい、と彼女は杯を突き出す。
「桜が一番の肴、それに主様が買って来たつまみにも不自由せぬ。呑み飽きぬひとときを大いに楽しもう。酌を願うのじゃ」
「いくらノンアルコールとはいえ、飲み過ぎは良くないですよ」
仕方ないですねえ、と言いながら貴仁は、銚子を取って彼女の杯を満たした。
すると房内はぐいとこれを乾し、こんどは銚子を自分が手にして、
「ご返杯じゃ」
「あ、いや、俺はそろそろ良い気分になってきたので、あとはこの手元の分をちびりちびりやるだけでいいです」
「まあそう言うな。わらわの御神酒が飲めんというのか?」
「酒癖……いや、ノンアルコール御神酒癖が悪いというか……あ、いやいや、いただきます」
ぐっ手元を空にして、貴仁は杯を空けた。急いであけたゆえ、ちょっと効いたようだ。頭がふらつく。
「急いで呑むと酩酊感があると言いますが……本当ですねえ。すこし暑くなってきました」
貴仁は片膝を立てて樹に背を任せた。いい気持ちだ。
「ふっふっふ、主様、こうして乱れたところを近くで見ると、そなたなかなか色っぽいのう」
「セクハラ上司みたいなことを言わないで下さいよ……もう」
などと言いつつ、貴仁は恥ずかしいのか、ほんのりと頬を桜色にした。
「良いではないか良いではないか」
「何が良いのやら……ははは」
房内の言い方があんまり面白いので貴仁は吹きだしてしまった。
釣られて房内もけらけらと笑う。
これでどうにも盛り上がってしまい、二人の杯はさらに進んでいくのである。
貴仁の杯に桜の花弁が、音もなく舞い降りてゆらゆらと揺れていた。