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リアクション
●桜並木に春が降る(7)
アトゥと別れ、ぶらぶらと並木道を行くイングリットを、その背後から颯爽と追い抜く姿があった。
まるで黒い風、枝毛一つなく切り揃えられたイングリットの髪がふわりと乱れる。
「あら? これは奇遇なこと」
トレーニングウェアの上下、たったったとその場でランニングの歩調で足踏みしつつ、きりりとした目元の少女が話しかけてきた。
「イングリット? まぁ……珍しいところで出会いましたわね」
快活に述べる彼女は白鳥 麗(しらとり・れい)、ココア色をしたなめらかな肌、抜群のプロポーション、そして、ウェーブのかかった金の髪が特徴の、すれ違った人がはっと振り向くような秀麗なるお嬢様だ。正体は秘密なので一般的には知られていないが、彼女は趣味で覆面のプロレスラー活動もしており、計画的に鍛えられた肉体はルネサンス期の彫刻のように均整が取れている。
「お会いできて嬉しうございますわ」
イングリットも丁重に礼を返した。二人は気心の知れた仲であり、良きライバル関係でもある。
「本日はトレーニングを兼ねてのランニングですか?」
イングリットが問うと、
「ええ、軽いものですけどね。ティータイムばかりでは体に悪くなってしまいますし……、天気も宜しいので適度な運動をしておりますの」
リズムをまったく崩さぬず、やはりステップを踏みながら麗は答えた。軽いランニングといいながら結構な速度で走っていたものの、息もまるで上がっていない。レスラーは体力が資本、しかもランニングはその基礎中の基礎だ。少々走ったくらいで呼吸を乱したりはしない。
そのとき、ついーっと滑るように一台の自転車が、行く手からやってきて停止した。
そのサドルに跨る精悍な面構えは、英霊サー アグラヴェイン(さー・あぐらべいん)である。彼は深々と頭を下げ、礼を示してイングリットに告げた。
「おや、おや、これはイングリット様。本日もお変わりございませんようで、何よりで御座います。お嬢様は、現在マラソンの最中でございます」
「軽いマラソンですわよ」
けろりとした顔で麗は言う。
「お嬢様……ランニングとおっしゃいますが、その実、この行程はフルマラソンです」
アグラヴェインの言う通りだった。軽いなんてとんでもない。麗が計画しているコースは、42.195キロのフルマラソンなのであった。それを、一般人のランニングをはるか上回るペースで走るのである。世界陸上にでも出るつもりか。
「マラソンがいけないとは申しませんが……。フルマラソンに気楽にチャレンジされるのは、白鳥家のご息女としては少々はしたないかと」
困ったように眉間のしわを深くする彼であるが、麗はこれを聞き流した。
「これくらい、なんていうことはなくってよ」
そしてもう一度イングリットに向かって、かく告げたのである。
「というわけでランニングあらためマラソンを再会しますわ。いつもでしたら勝負を挑むところですけれど……貴女はその格好では、走れませんわね」
残念、というように肩をすくめて、
「仕方ありませんわ。では本日は私の不戦勝と言うかたちですわね。またの機会にしっかりと競いあうと致しましょう。それではごきげんよう、ほーほっほっほっほ!」
と高笑いを残し、栗鼠のように軽快にふたたび長距離走に復したのである。
「まったく、お嬢様らしいというか何というか……」
アグラヴェインは難しい顔をますます難しくして彼女の背を見送ったが、ふと振り返ってイングリットに告げた。
「……マラソン用のお召し物でしたらお嬢様の替えを用意して御座います……少々、イングリッド様の方がお体が大きゅう御座いますが、動きやすいように大きめにあつらえておりますので、イングリッド様にも問題ないかと……」
彼の口元に、悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
「よろしければイングリット様も、お召しになられて走られますか?」
すると同じく、イングリットも口元に優雅な笑みを浮かべたのである。
「ええ」
喜んで、と彼女は言った。
ややあって麗は、背後から猛追してくるイングリットに目を丸くし、すぐに、待ってましたとばかりに彼女と並んだのだ。
さあ、桜に負けぬほどの美、そして体力をを競い合おう。