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春をはじめよう。

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春をはじめよう。

リアクション


●I only wanna be with you

 カレーの皿を受け取って、水心子 緋雨(すいしんし・ひさめ)天津 麻羅(あまつ・まら)は腰を下ろした。
「おうローラ、久方ぶりじゃのう」
 麻羅は屈託のない笑顔で、大柄の友人に呼ばわった。
「ひさびさー」
 とローラが席を空け、二人を迎える。
「こんにちはローラさん。百合園でもそうだったけど、外で食べるカレーっておいしいよね」
 緋雨もほくほく顔である。良きかな。
 落ち着くとすぐに麻羅は、緋雨持参のクーラーボックスをパカッと開いた。
「さて花見酒花見酒、カレーであればやはりビールじゃの。さきほどまでは濁酒を味わっていただけになんとも順序が逆な気もするが」
 といいつつクーラーボックスから冷え冷えの小瓶をするりと抜き出すと、水滴の浮かぶラベルを握ったまま栓抜きを探した。缶ビールは鉄臭くていかん、と麻羅は基本的に瓶ビール派なのである。
 栓抜き栓抜き……とうろうろしている麻羅をよそに緋雨がローラに問う。
「ところで七刀切さんの姿を見なかった? 朝方に見かけたんで『懇親会行くの?』って聞いたんだけど、なんか行くとも行かないともいえないような微妙な答えしかなくって」
「うーん。見てないね」ローラは首をかしげるばかりだ
「ところで」ぐいとローラ、緋雨の間に首を突っ込むようにして麻羅が問うた。「栓抜きを見かけなかったか? さっきまでそこにあったんじゃがのう」
「うーん。見てないね……」
 と言いながらローラは瓶を「貸して」と手で示し、受け取るや指先で、無造作にビールの栓を取り外してしまった。王冠がひしゃげている。
「おお、便利じゃのう。栓抜きいらずじゃ」
 天晴れ天晴れ、などと笑って、麻羅はよく冷えたビールを呷るのだ。
「よう、休憩させれもらっていいか?」
 メイド姿を誰かと見れば、それは朝霧 垂(あさぎり・しづり)なのである。口調こそ荒っぽいがさすがその扮装には寸毫の隙がなく、清潔感と柔和さ、それと少しの凛々しさが感じられた。
「ま、俺は夜の部からの宴会部長モードが本領なわけだが」
 本日、垂は自発的にメイドとして昼の部に参加する生徒達をもてなしていた。完全なボランティア、それでいて案内やゴミ出し、給仕的な仕事もそつなくこなしている。いまは、少し休み時間だという。
「もうそろそろ仕事は終わりだしな。一本だけもらうとするか……いいか?」
「おう。飲め飲め」
 麻羅に呼ばわりビールの小瓶を受け取って垂は座った。
「久しぶりだなローラ。とりあえず飲め〜」
 垂はいつの間にか、ビールをもう一本手にしていた。
「機晶姫なんだから、年齢なんて有って無い様なもんだろ〜? 気にせず飲め〜」
「あ、いや、ワタシ、ある事情で飲んでしまったことあるけど、超弱いね」
「なんだよ堅いことを……おっと」
 すさまじく堅いことを言いそうな人――すなわち涼司が近づいて来たので、仕方なく垂は瓶を引っ込めた。
 つまみにビーフジャーキーをかじりつつ、垂はローラと話す。
「そうか……パイからハガキが来たのか。けど居場所はわからないままというわけか」 
 俺思うんだけどさ、と垂は言った。

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 ここで場面は一転する。
 空京大学とは随分離れた場所に、今朝『なんか行くとも行かないともいえないような微妙な答え』をした人物の姿があった。
 すなわち、七刀 切(しちとう・きり)である。
 正直、切は昨日からあまりよく寝ていない。眠れなかったというのが正しい。
 発端は昨夜のことだ。
 突然、彼の所持していた無線機が鳴ったのである。しばらく話し込み無線機を置いた彼は、もうじっとしていられない気分だった。だから、
「連絡来た! 連絡来た! 大事な事なので二回言いました! いやっふうううー!!!」
 大いに叫び、夜だというのに飛び跳ねた。
 トビウオのように空中で姿勢を捻ってベッドに切が着地したところで、彼の部屋のドアがカチャリと開いた。
「…………なんの騒ぎだ?」
 同居人もとい同居魔鎧の黒之衣 音穏(くろのい・ねおん)が、切のはしゃぎっぷりを聞きつけて顔を出したのだ。
「あ、いや! なんでもない!」
 なんでもない人間がベッドの上にガッツポーズして立つか普通? ――と音穏は言いたい気持ちだったが、ある程度のことは察しているので「そうか」とだけ短く返事した。
「それで明日、懇親会でも行こうかと思っていたが、大切な用事が他に入って……!」
 蒸気機関車みたいな口調の切に比し、音穏は割と冷静だ。
「行ってこい。我は我で好きに過ごすゆえ」
 完結に答えてパタンと扉を閉めた。ここはそっとしてやるべきと思ったのだ。
 音穏が行ってしまったのを確認して、再び切は大きく飛び跳ねた。
「パイから連絡が、来た!」
 そう。行方不明だったクランジ パイ(くらんじ・ぱい)、自爆装置が起動してしまった現在、他の人にはかかわりたくないと告げて姿を消した彼女が、残していった無線機に通信をくれたのだ。
「……やっと落ち着いてきたけどこのところ退屈で退屈で仕方がないから……会ってあげてもいいわよ」
 ということである。この言葉、切はどれだけ待っただろう。
 かくして彼は、行きがけにばったり出会った緋雨と麻羅にはこのことを微妙に誤魔化して無人の山に飛空艇を停めたのである。
 山桜が咲く静かな山中だ。
 周辺に居住地はない。手つかずの自然だ。遠くに鳥の声がするくらい、とても閑静な場所だった。
 しかし切は大いに音を聞いているのだ。自分の胸の鼓動を……高鳴って仕方がない!
 だって好きな子と念願の初デートだ――まあパイは絶対に『デート』という言葉を認めないだろうがどう見てもデートなのだ。落ち着け、といっても無理というものだろう。
 指定されたポイントで待つこと十分程度、その一分一分が一年に匹敵するほどの長さに切には感じられた。ああ、胃がキリキリ(駄洒落ではなく)痛む……と、彼が思ったとき、ついに桜の影からパイが姿を見せた。
「やはー、パ、パ、パ……」しどろもどろになる彼に比べると、
「なに、本当に来たの?」彼女はなんとも、落ち着いた口調だ。
「パ……」
「?」
 寝不足ゆえか張り切り過ぎたゆえか、ここでフッと切の意識が暗転した。彼は電池が切れた人形のように横転したのだった。
 数分後、彼は自分の顔を、パイがのぞき込んでいることに気がついた。
「あ……」
 小さいけれどパイの胸の膨らみがわかるのは、そして、頭に柔らかな感触があるのは……。
「膝枕されてる!?」
「し、してないっ!」
 カッと頬を紅くしたパイがいきなり立ち上がったので、切は転がり落ちて野原をコロコロするはめになってしまう。
「あんたねー、いきなり倒れるなんてなに考えてるの?」
 フン、と腕組して怒っているが、パイが真横を向いているのは、ひょっとしたら照れているからだろうか。
「HAHAHA、そりゃ、パイが美しすぎるせいさ!」
「アホ! 私、帰る!」
「あー、待って待って! ふざけたのは謝る! でも本当、緊張してうっかり、な、堪忍してな!」
 といった感じでいきなりトラブル発生したわけだが、それでも切とパイは、歩きながら春の自然を楽しむのだった。
 自然観賞にとどまらない。色々な話をした。たくさん話した。パイが、垂の提案に従って現在は『パトリシア・ブラウアヒメル(あるいは略して『パティ・ブラゥ』)と名乗っており今後はこれを本名にしたいということ、ローラのその後、他のクランジのその後、魍魎島戦の顛末、あるいは切の学校生活など……パイはやはり孤独だったのだろう、一度話し始めるとお互いに話題はつきなかった。
「パトリシア、パティか。可愛い名前だな、すげぇ似合ってるぜ!」
「そんなあんたはどう呼んだらいいの?」
「ああ、俺のことならユーリウス……ユーリでいいぜ。パティには、できればこっちの名前で呼んでほしいんだ」
「いいけど、なんで?」
「そりゃあ……」
 言いかけて切は口をつぐんでしまった。パイに爆弾をしかけたクランジΘは、皮肉を好む者だったと聞いている。
 だとすれば。
 この先、切が言おうとした言葉こそが『キーワード』ということだってありえるだろう。
 パイ、いやパティが爆発する……そんなこと、想像するだけで耐えられなかった。
 だから切は言葉を濁し、弁当にしないか、と提案した。
「俺、これでも家事は得意だからな、味の方はばっちりだぜ?」

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 俺思うんだけどさ、と垂は言った。
「俺さ……パイの体に爆弾は仕掛けられていないんじゃないか? って思うんだよな」
「えっ?」
 目を丸くしたのはローラだけではなかった。涼司も、緋雨と麻羅も、美羽も、この場にいて話を聞いていた者は誰もが、ふいを打たれたように言葉を失った。

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 爆発のことを意識したせいだろうか、そこから切は一気に言葉が減ってしまった。
 忘れていた。パイを殺さないためには、あまりしゃべってはいけない。ここで彼女が爆発すれば、まず二人とも助からないだろう。
 パイとて、切の様子が変わった理由を察せないほど子どもではない。
「おいしいね……」
 沈んだような口調で、憎まれ口も叩かずに弁当を口に運んだ。
 あれだけ弾んでいた
 数時間かけて作ったせっかくの弁当なのに、切はその味を楽しむことはできなかった。
 あれほど楽しみにしていたデートなのに、大好きな女の子と二人っきりなのに。

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 垂は自分の言葉がもたらした反応を確かめもせず、一気に推理を語る。
「だってさ、考えてもみろよ? 爆弾があるなら、シータは自分が離れた後、監視役の蜘蛛にキーワードを発声させれば、その場にいた俺達を全員抹殺にする事だってできたはずだ」
 そういえば、という声があがった。
「それをしなかったってことは、パイに仕掛けた爆弾云々というのは、自分が安全にユマの所へ行くための嘘だったんじゃないか? パイも小山内みたいに、催眠術で爆弾を仕掛けられてると思い込まされてるんじゃないかな?」
 ま、何の保証もない戯言だけどな、と垂は言ったが、この発言が与えた衝撃はそんな程度を超越していた。
「あり得ない話ではないね……いや、大いにあり得る」
 コハクが膝を打った。
「だとしたら、シータってやつらしい手口だ」
 涼司は歯がみするように言葉を吐き出す。
「……死してなお、シータは俺たちを踊らせていたってことか」

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 咲いていた花がみるみる萎れて、ぺたっと前のめりに倒れたかのよう。
 空が曇ったせいだろうか、ぱたりと切とパイの話は途絶えてしまった。
 何分、そうして無言で座っていただろうか。
「ほ、本当は……」
 食欲が失せて食べさしになった弁当箱を見つめたまま、切はようやく言葉を口にした。
「パイ、いやパティの装置……自爆装置な」
「言わないで。それ以上続けると爆発するかもよ」
「ああ、でも……」
「でも、何よ!」
 目を怒らせてパイが立ち上がった。
あんただって死にたくないでしょ! だったら黙って! あたしは……あたしなんか、もう、死んだようなものなんだから! 歩く爆弾なんだから!」
死ぬのが怖いんじゃない!
 しかしパイに倍するくらいの声を上げ、切も立ち上がっていた。
「俺は、パイに幸せになってほしい! おこがましくも言わせてもらうが、俺が幸せにしてやりたいと思ってる! 俺が怖いのは……それが叶わずに終わってしまうことだ!!」
 目が真っ赤になってしまった。どうしてこう、自分は要領が悪いのか……これじゃ言いたいことの半分だって……。
 切の思考はぶっつりと中断した。
 固く握りしめた自分の手を、パイが握ってくれたからだ。
「……デート、なんでしょ、今日? あんたから言えば……私はそのつもりないんだけど……」
 まだ強がりを言うパイであるが、それが逆に、彼には嬉しかった。
「デートだったら、手くらいつないだって、いいわけじゃない……?」
 けれど彼女もまた、何かをこらえるように目を潤ませていた。
「あ……うん、定番だよな……」
 二人は互いに、互いの唇に微笑が浮かぶのを見た。
 これで腹が据わった。ユーリは意を決して告げた。
「パティ、好きだよ。誰よりも大切に想ってる」
「……なによ、いきなり」
 手を握ったまま、パイはぷいと横を向いた。
「これで爆発するかも、って考えてた。……そうそう、さっき言いかけてやめたのは、大切な人には本名で呼んでもらいたい、って話な」
「バカね、そ、その『好き』だのなんだのいうタワゴトなら前も言ったじゃないの」
「いや、『大切に想ってる』とは言ってないはずだ。意地悪い奴ならこういう言葉にこそ罠をだな……」
「ま、まぁそうかもしれないけれど……結果オーライだしいいんじゃないの? ふふ」
 ぱっと彼の手を放してパティは笑った。けれどすぐに背中を向けたのである。
「あんたの気持ちは一応わかったけど、だからって、私も同じ気持ちだとか自惚れないでよね!」
「あ、うん……そう言われる気がしてた」
 切も笑った。言葉とはうらはらに、彼女と心が通じ合ったように思った。
 しかしパイの返事は、また予想外のものだった。
「帰って」
「え?」
「また連絡するから。今日はもう帰って。私……さっきみたいな……こ、告白……されるの慣れてないから。今まではまだ冗談半分かと思ったりもしてたけど……ごめん、まだ、頭の中、整理できない……えっと……じゃあ」
 楽しかったわ、とだけ言って、パティは一度も振り返らずに山を降っていった。

 この日、作ってきたビーフジャーキーの袋を残し、そのままこの場を立ち去ったこと――つまりパイを追わなかったことを、後から切は深く後悔することになる。

 なぜならパイと彼をつなぐ無線機が、それ以後二度と鳴らなくなってしまったからだ。