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うそつきはどろぼうのはじまり。

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うそつきはどろぼうのはじまり。
うそつきはどろぼうのはじまり。 うそつきはどろぼうのはじまり。

リアクション



10


「おねーちゃんのこときらーいっ」
 普段と同じトーンで言われた言葉を、伊礼 悠(いらい・ゆう)は一瞬理解できなかった。声の主であるマリア・伊礼(まりあ・いらい)を見ると、頬を膨らませて怒っている様子。
「マ、マリアちゃん? どうしたんですか? 私、何かしましたか?」
 怒らせるような、思い当たる節はない。不安になって問いかけると、マリアは屈託なく笑った。
「ウソ!」
 その一言に、今日が四月一日だったということを思い出す。
「あっ……エイプリルフール」
「大好きだよ、おねーちゃん! ウソついてごめんね!」
 これあげる、と手向けられたものは、色とりどりの花たち。
 ああそうか。四月で、春で、花がこんなにも色鮮やかに咲く季節になったのか。
「ありがとうございます。こんなに綺麗な花を……飾れるように、花瓶、用意してきますね」
「へへへ。喜んでもらえて嬉しいなっ。探すとき転ばないようにねー」
「そんなにドン臭くないです、たぶん……」
 苦笑しつつ、部屋を出た。ひと気のない廊下を歩く。
 イルミンスールには、物置部屋と化している部屋がある。使わないものや要らないものが雑多に並べられている場所だ。室内の様子を思い出し、すんなり見つかるといいなあ、と思った。
「ぼんやりしていると危ないぞ」
 声に、ぱっと顔を上げる。一歩先に、ディートハルト・ゾルガー(でぃーとはると・ぞるがー)が立っていた。声をかけられなければぶつかっていたかもしれない。悠は慌てて頭を下げる。
「ごめんなさい」
「出かけるのか?」
「はい。あ、でも外じゃなくて、すぐそこの物置部屋までなんですけど」
「あの部屋に?」
「マリアちゃんが花をくれたんです。とっても綺麗だから花瓶に飾らなくちゃ、って思って」
 悠の答えに、ディートハルトがなるほど、と頷いた。
「私も行こう」
「へっ」
「不都合が?」
「いえ。ただ」
 少し、驚いただけだ。
 だってまさか、ついてきてくれるだなんて思ってなかったから。
「嬉しいです」
「ああ。ふたりで探した方が早いだろうしな」
「そうですね」
 多くの物が置かれている部屋だ。ディートハルトの言うとおり、ふたりでいたほうがいい。


 物置の中は、物が多いわりに整然としている。いや、そうしておかなければ文字通りあふれ出てしまうのだろう。そのため、花瓶を探すのも取り出すのも苦労した。絶妙なバランスで整頓されているものを崩さぬよう、そろそろと、そろそろと。
 無事に目的のものを取り出して安堵したとき、
「あっ」
 気をつけるべきだったのは手元だけではなかったことに気付いた。足場が限られている上に、不自由な姿勢で手を伸ばしていたものだから、自身がバランスを崩してしまった。
(倒れる)
 傾ぐ。抗う。踏み止まろうとして、余計に軸がぶれた。落下時に似た、制御の利かない浮遊感に目を瞑る。覚悟していた衝撃は、なかった。代わりにあったのは、何かにぶつかったような、いや、支えられたような、そんな感覚。
(……?)
 瞑っていた目を開け振り返ると、ディートハルトが自分を抱き止めていたのだと知った。密着した逞しい腕から、身体から、体温が伝わる。匂いもわかる。息もかかるほど、近くにいる。
「…………」
「…………」
 背後から抱きしめているような格好のまま、そしてそれを振り仰いで近距離で見詰め合ったまま、互いに何も言えずに黙った。
 彫りの深い顔の、凛とした目元。
 年を重ね刻まれた皺。
 薄い、少し荒れた唇。
 どれもが、近すぎるゆえにはっきりと見えた。心臓が跳ねるように動いていることに、いまさらながら気付いた。
(何これ)
 どきどきする。
 息が、上手くできない。
(近いですよ。ディートさん)
 こんなに近くにいたら、心臓の鼓動が伝わってしまう。それは、恥ずかしい。
 何か言えばいいのに、一向に言葉はでなかった。唇だけがはくはくと動く。そんな動きを見ても、ディートハルトは何も言わなかった。視線さえ、逸らさない。
(どうして)
 そんなに見詰めているの?
(私も、どうして)
 目を離せないの?
 息が苦しい。呼吸を忘れていた。それほどまでに、緊張している。どうして。どうして。頭の中は疑問符でいっぱいだ。
 時が止まったように、一枚の絵画の中での出来事のように、動くことができなかった。だけど、それでもいいと思った。
「――さん?」
 遠くで誰かの声がする。
「悠さん?」
 著者不明 『或る争いの記録』(ちょしゃふめい・あるあらそいのきろく)――ルアラの声だ。呼んでいる。
(応えなきゃ)
 でもまだこうしていたいと、自らの意思で思い始めたとき、ディートハルトが悠の身体を押した。真っ直ぐ立てるようになる。ディートハルトとの間に、距離ができる。離れていった体温を、とても恋しく思った。
 悠が持っていた花瓶を、ディートハルトは取った。そして、踵を返し部屋から出て行く。悠は、彼の背姿を見送ることしかできなかった。
 ドアが開き、閉まり、物置部屋にひとり取り残されると、脚から力が抜けた。その場にへたりと座り込む。
(……なんで、私)
 ぎゅっと、胸を押さえた。心臓が鳴っているのがわかる。
(こんな、に。どきどき、して……)
 つい今しがたまで見詰めていた男の顔を思い出す。どくんと心臓が跳ねた。頬が熱くなる。
 どうして。
 何度となく、頭の中でその四文字が繰り返される。
(ディートさんは、パートナー、なのに。仲間、なのに)
 名前を思い浮かべるだけで、こんなに胸が苦しくなるのだろう。
(ディートさん)
 とても口にだせそうにないから、心の中で呟く。
(ディートさん、私は。もしかしたら)


*...***...*


 ツァンダにある総合病院にて。
 ハイコド・ジーバルス(はいこど・じーばるす)は、ソラン・ジーバルス(そらん・じーばるす)の病室を訪れていた。
 ソランのベッドのすぐ脇には、双子の赤ちゃんが眠っている小さなベッドがひとつある。つい先日産まれたばかりのふたりの子だ。黒髪に真紅のメッシュが入った男の子と、琥珀色の目をした女の子。
 ハイコドは、産まれた日のことを思い出す。
「……怖かったなあ……」
「なにが?」
 無意識に零れた言葉に、ベッドに横たわったソランが目を丸くした。
(なにがってだって)
 出産の日、ハイコドは義理の母と自分の母、両家の母から分娩室から追い出された。廊下にあったソファに座りながら待つ間に聞こえてきたソランの声は、「死ぬ」「苦しい」「あああああ」と、断末魔じみたものばかり。それも声の限りに叫ぶから、怖くて怖くてたまらなかった。
「でもよかった。無事に生まれてきて」
 すやすやと眠る子供の頬に人差し指を当ててくすぐる。ぴくりと、赤ちゃんの身体が動いた。可愛い。くすっと笑うと、ソランが「かわいいね」と呟いた。
「うん。かわいい」
「ハコに似てる。私にも。私が地球人だったら、ハコが獣人だったら、きっとこんな感じだったのかな」
「かもね」
「でも、ところどころ違うかも。口元とか目付きとか」
「よく見てるなあ」
「うん。ずっと見てたし、これからも見てるよ。この子たちのことも、ハコのことも」
 聞いていると、少し恥ずかしくなってはにかんだ。はにかむとソランも笑った。
「おなか、大丈夫?」
「うん」
 ソランの腹部には、傷がある。ひとり目は自然分娩で生まれてくれたけれど、ふたり目の彼女は逆子になってしまったためにできた傷だ。
「痕とか気になる?」
 心配に思って訊いてみたが、返答は頼れるものだった。
「全然。お母さんの勲章でしょ、誇らしいよ」
「さすが僕のお嫁さん」
「任せなさい。
 ところでハコ、この子たちの名前とか考えてくれた?」
「うん。安直かもしれないけど……」
「どんなの? 教えて?」
 ハイコドは、眠る我が子を見て答える。
「この子はシンク」
 髪を見ていたら、ぱっと思い浮かんだ名だった。
 同時に女の子の方も、目を見てぱっと思い浮かんでいた。
「こっちはコハク」
「いい名前だよ」
「安直すぎない?」
「名は体を表すって言うでしょ?」
「言うけど」
「自分の名付けに不安? お父さん」
 問いに、ハイコドは首を振る。
 安直かも、と思いつつ、この名のほかない、とも思っていた。
 ふと、カレンダーが目に留まった。四月の、まっさらなカレンダー。今日は四月一日だ。
「エイプリルフールか」
「嘘、つく?」
「折角だから。……そうだねぇ、『僕はきみから離れる』でどうでしょうかソランさん?」
「すごくわかりやすい嘘だね」
「ソラからは? ない?」
 ソランが、「んー」と間延びした声を上げながら、病室の天井を見た。
「じゃあね。『私はきみから手を離す』でどうでしょうハイコドくん」
「すごくわかりやすい嘘ですね」
「意趣返し」
「素敵だと思います」


 それからずっと、話をした。
 ソランの頭を撫でたり、シンクとコハクをふたりで見つめたり。
 双子を家に連れてくる準備はできているのかと相談したり。
 早く一家団欒したいね、と希望を描いて。
 面会時間が終了するまで、ずっと、ずっと。


「…………」
 もう少し。
 あともう少し経ったら、ソランや子供たちが元気だということをしっかり理解し目に焼き付けたら。
(僕は、行くよ)
 修行のために、遠いところまで。
(僕はまだ、弱い)
 弱いから、負けた。
 負けたら全てを失う。弱者が手にするものなんて、身を裂くような痛みと苦しさ、悔恨だ。
(もう絶対に負けない)
 守りたいものがある。
 失いたくないものがある。
(負けるわけには、いかない)