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そんな、一日。

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そんな、一日。

リアクション



27


 欧州のコンサートツアーが、思ったよりも長引いてしまった。
(一週間で帰る、って言ったのに)
 テスラ・マグメル(てすら・まぐめる)は、罪悪感から目を伏せる。
(離れないでって言われたばかりなのに)
 盛大な、自己嫌悪の念。ごめんなさいごめんなさい、と心の中で謝罪を繰り返す。そのくせ、あの時言われた言葉を思い出してしまって顔がにやける始末。慌てて頬を押さえ、しっかりしないとと言い聞かす。
 押さえた頬は、熱かった。


 地球、空京、ヴァイシャリー。
 あって然るべきの時差ボケなんてなんのその。
 一直線に工房へ向かい、
「こんにちは」
 疲れなんて感じさせない明るい声と笑顔で、リンスとの対面を果たした。
「リンス! テスラおねぇちゃん、きたわ!」
 クロエの言葉が、自分を待ちわびていたように思えるのは自意識過剰だろうか。そうでなければ嬉しい。
 クロエに呼ばれたリンスが、顔を上げてテスラを見る。久しぶりだ。心が跳ねていることがわかる。彼に会うときは、いつもこうだけど。
「遅くなってしまいました」
「うん。待った」
 返しに、いやがおうにもエイプリルフールを思い出す。また頬が緩みそうになった。怪しいので必死に自制する。にやけを押さえ込んですまなそうに笑い、ごめんなさいと謝ってからお土産をテーブルに載せた。ピアノは、床に置いてもらう。テーブルの上じゃ、クロエが弾きにくいだろうし。
「テスラおねぇちゃん、これ!」
「そう。クロエちゃんに。本当、遅くなっちゃってごめんね。昔私が使っていた音楽の教科書も持ってきたから、教えてあげるね」
 早速ピアノに向かったクロエの頭を撫でて、優しく囁く。嬉しそうにクロエが笑った。
「リンス君には、こっち」
 テーブルに置いたお土産のひとつをリンスの前に滑らせる。紙袋に入れたそれは、
「私のCDです。これなら離れていても寂しくないでしょ」
 悪戯っぽく笑ってみせると、リンスが席を立った。つまらない冗談だっただろうかと取り繕う言葉を探していると、工房に響く歌声。紛れもない。自分のものだ。
「ちょっちょっとリンス君。冗談ですから。CDも冗談っ。だから止めてください、恥ずかしい」
 慌てて頼むと素直に止めてもらえた。ほっと息をつく。ひどい意趣返しを見た。じとりとリンスを見ると、彼はふっと笑った。それだけで、まあいいか、と思えてしまうのだから、ずるい。
 席を立つついでに淹れてきたのだろう、リンスがコーヒーをテスラの前に置いた。それから、自分も椅子に座る。
 コーヒーを飲んで一息ついてから、「褒められちゃったんですよ」と呟く。
「誰に?」
「コンマスに。ここ数年で、音楽表現が一段と飛躍したって」
「すごいじゃない」
「……誰のせいか、わかってる?」
 息を吐くように、ぽそり。あなたのせいですよ。視線で告げた。リンスの表情を見るに、わかっていない。本当に、もう、この人は。
「私ね。リンス君にとっての水になりたかった。北風でも、太陽でもなく」
 もっとも、旅に出ない彼にとってはどちらも縁がない、それだけに眩しいものかもしれないけれど。
 引っ張り廻すでもなく、賑やかに過ごすのでもなく。
 ただ、一日の終わりにお風呂に浸かって、ふと思うような。
 身の回りにあって、気付けば欠かすことのできない何かになりたかった。
「私にとって、リンス君がそうなっちゃったのは意外だったなー」
 テスラの言葉に、リンスが「え」と不思議そうな声を出す。ああやっぱり、わかってないか。
 でもいいや、とテスラは笑う。
「なんか、安心した」
 どんなに何もかもが変わっても、リンスはリンスのままでいてくれる。
 そう思うと、とても。
「……安心したら、なんだか眠くなっちゃった」
「寝たら? 休まないでここまで来たんでしょ」
「そういうところは鋭いんですね。じゃ、寝かせてもらいます」
 ソファを借りて、横たわる。タオルケットをかけてくれたクロエに礼を言って、目が覚めたらピアノを教える約束を交わした。
 目を閉じると、すぐに睡魔が訪れた。


 寝息を立てるテスラの方を見て、リンスはじっと考える。
 テスラが水にならないように、と。
 だってそれは、いつも当たり前にあるじゃないか。
 当たり前にあれば、失くすことを考えていないじゃないか。
 失って初めて大切さに気付くなんて、愚か過ぎる。
(だから、……)
 続く言葉を見失って、息を吐く。
 でも、だけど、それに近しい存在にはなっているのだ。
(忘れないようにしよう)
 この時間を、かけがえのないものだと思ったこの瞬間を。
 眠る彼女を愛しいと思った気持ちを。


*...***...*


 テスラは、マナ・マクリルナーン(まな・まくりるなーん)の補助なしでも地球での公演を立派に遂げた。
 ディリアーに一部始終を見せてもらい、「大丈夫そうですね」とマナは言う。
「駄目だったら? 帰ってた?」
「意地の悪い質問を」
「じゃァ、見なくても平気よ」
「とはいえ気になるものです」
「難儀なものねェ」
「貴方様にそっくりそのままお返ししますよ」
 にこり。微笑んだまま言うと、ディリアーは不満そうに口を尖らせた。
「だからアナタって嫌いよ」
「有難う御座います」
「褒めてないわァ」
「お約束ですね」
 対照的に満足そうに笑う。ディリアーは呆れたように息を吐いて、水晶の中を見た。ウルス・アヴァローン(うるす・あばろーん)リィナ・レイス(りぃな・れいす)が、彼女の部屋で話し合いをしている光景が映っている。水晶玉の中のリィナの表情にはどこか翳りがあって、マナはふむ、と顎に手を当てた。
「占いでもしましょうか」
 唐突な言葉に、ディリアーがマナを見る。説明を求めているとわかったので、言葉を続けた。
 どうやらリィナは、マナやメティスに払った代償を気にしているようだから。
「今の選択を否定せず、全力で幸福に向かっていっていただけるように助言を」
 貴方様も退屈を持て余しているようですし、と促してみる。が、ディリアーは「必要ないわねェ」と笑顔で否定する。
「そこでアタシが手を貸しても意味がないのよ。あの子、ああ見えて強い子なのよねェ。だから大丈夫、自分でなんとかするわァ」
 水晶を見つめる彼女の目は優しく、その言葉が嘘偽りでないことは容易にわかった。もし本当にどうしようもなくなったら、助けに行くであろうことも。
「貴方様は、優しい魔女でしたからね」
「何ィ? いきなり」
「他意は御座いません」
「そォ。……ところでアナタ、アタシが退屈を持て余していることに気付いていたのよねェ? じゃァちょっと、面白いことしなさいよォ」
 墓穴だったか。無茶振りを投げられ、しばし考える。さすがにすぐには思いつかない。
「そういえば」
「話逸らさないでくれるゥ?」
「リンス様に施した魔法、あれの代償は?」
「人の言葉を無視なんて、いい度胸してるわよねェ」
「未だわかっておりませんが」
「思いつかないなら思いつかないって言えばいいのにィ。負けず嫌いよねェ、アナタ」
 魔女はぷいとそっぽを向いた。思いつかなかったのもあるが、ふと疑問に思って聞きたくなったことも事実だ。
 結局、魔女は問いに応えることはなかった。無茶を強要する声もなくなったので、マナはお茶の準備をする。損ねた機嫌を直さなければ。


 代償なんていらないことを、ディリアーは言わない。
 いつかテスラにも言ったけれど、だって、必要ないのだから。
(だってアタシ、魔女だし)
 魔女が人の何を得て、それでどうすると言うのか。
 御伽噺の存在でもなんでもない。ただの『魔女』だ。人の何かなんてもらったって困るだけ。
(だからね、アナタも出て行きたいなら出て行っていいのよ)
 誰かの幸せを、邪魔する気はなかった。
 ここにいたいと願うならそれでいい。好きなだけそうすればいい。
 だけどもし、少しでも出たいと望んでいるなら、ディリアーは止めない。
「魔女様。お茶が入りました」
「ありがとォー」
 止める気は、ないけれど。
 惜しく思うのは、きっと彼の淹れる紅茶が美味なせいだ。


*...***...*


 テスラが目覚めたのは、一時間ほど経ってからだった。ソファの上に身を起こし、目を擦る。
 ピアノに向かっていたクロエが、ソファの軋む音に気付いて「おはよう」と笑いかけてきた。その声を聞いて、リンスもこちらを向く。
「おはようございます」
 ふたりに笑いかけてから、テスラははたと気付く。
「寝顔、見てませんよね?……」
 すっかり安心しきっていたせいで忘れていた。見られていないといい、と思う間もなくリンスが答える。
「見た」
 えっ、と声が裏返った。顔が熱い。たぶん、耳まで真っ赤だ。頭の中を、寝顔を見られた、という事柄が占領する。寝顔。自分じゃわからない顔。緩みきった、だらしない顔をしていたらどうしよう。恥ずかしくて逃げ出したい。
「クロエに失礼よって止められたから、一分ちょっとくらい。考えごとしながら」
「くっ、クロエちゃんの言うとおりですよ!」
「そう?」
「そうです! 恥ずかしいなあ……」
 ごめん、とリンスが謝る。謝られても、恥ずかしさは消えない。それどころかかえって増した。
 ああ、もう。もごもごと口内で呟いていると、「れでぃーすえーんじぇんとるめん」場違いに明るい声がした。顔を上げる。ウルスがリィナの手を引いて立っていた。
 視線が集まった後、ウルスは咳払いをして、言った。
「俺とリィナ、このたび結婚することとなりました!」
「えっ……えっ!?」


 プロポーズの後、具体的な話をたくさんした。
 話はとんとん拍子に進み、今、こうして発表することができる程度に固まってもいる。
「それで、式はもうちょっと先だけど。その時はよろしくな」
 驚きを顕わにする面々に、ウルスは笑いかけた。
「諸君は俺を『お義兄様』と呼ぶように。もちろん尊敬の意を込めて。というわけで、まずは呼ばざるを得なくなるリンスに予行演習してもらおうか」
 さあどうぞ! とリンスに手のひらを向けると、彼はあろうことかノーリアクションのまま「お義兄様」と言ってのけた。拍子抜けどころじゃない。肩透かしもいいところである。
「…………」
「何か不満?」
「不満だらけだけどまあいい。しかし以降義兄と呼ぶことは禁ずる」
「はいはい」
「はいも一度で結構! とにかく結婚するんで! 祝福しろよ、おまえら!」
 吼えると、ぱちぱち、と拍手の音がした。クロエだった。驚きから解放されたらしい。
 ありがとな、と笑う。
 一年間、色々あった。
 色々あって、考えた。
 欲しいものも、手放せないものも、たくさんあって。
 全部欲しいなんて欲張りかもしれないけれど、知ったことか。
「欲張るぜー」
 欲しいなら掴み取れ。それができなくて何が男か。