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Buch der Lieder: 歌を忘れた金糸雀

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Buch der Lieder: 歌を忘れた金糸雀

リアクション

「……最優先項目の再設定にエラーが出ていると言うか。仕事、行きたくないんですかね。俺は」
 ぼんやりした口調で吐き出されたそれは、バイクのエンジン音に掻き消されて良く聞こえなかった。
「え? なんだって?」
 そう聞き返せば何でも無いとばかりに軽く首を横に振られたので、きっと他愛の無い話なのだとそれ以上追求せずに放置する。
「帰還は一週間程度かかるので、その間あなたの料理が食べられないのが残念です。それでは、行って来ますね」
 恋人が別れの言葉を口にするのに、ハインリヒ・ディーツゲン(はいんりひ・でぃーつげん)は何時も通りの優美な微笑みで送り出した。
 ツライッツ・ディクス(つらいっつ・でぃくす)は『プラヴダ』も関わりを持つ調査団のサブリーダーで有り、人の目のある場所では徹底してその役目を守る行動をしている。ハインリヒもそんな彼を尊重し、妄りに触れるような真似はしないし、惑わすような言葉も掛けない。一応紳士たる教育は受けたのだ、一応。相当な目利きで無ければ、二人は凡そ恋人同士には見えないだろう。
 そんな訳で今日も定例に従って淡白過ぎる別れかたをした。ハインリヒには、このままではこれが今生の別れになってしまうと分かっていたのにだ。
 ツライッツは最後まで気付かなかったが、今もジャケットの下のシャツの袖は、血で赤黒く染まっている。ハインリヒは此処へ来る前も腕を切っていたのだ。着替えでもすれば良かったが、生憎クローゼットのシャツは全て出払っている。
 無事なシャツが一枚も無くなるくらいにこの行為を繰り返す自分は精神を病んでいるのか、悪いものに取憑かれでもしたのか、最早二つに一つの判断もつかないが、纏わり付く死の影が存在ごと覆い隠そうとしているのは分かる。
 むかつく位麗しい悪夢が繰り返す白昼夢となってハインリヒに牙をむき始めたのは、恋人との距離が仕事によって離れてからだ。彼がまた傍に居てくれれば、『彼女』を見る事は無くなるかもしれない。だったら縋り付いて行かないで欲しいと懇願するのが正しいのだと分かっていたのに、ハインリヒにはそれが出来ないのだ。
 ツライッツは機晶姫で、クローディス・ルレンシア(くろーでぃす・るれんしあ)と契約したその瞬間から彼女のものだった。製作された背景事情からか、彼は通常の機晶姫よりもマスターの存在を重んじる。判断基準にいつもクローディスの存在が有り、彼女があってはじめて、ツライッツの全てが存在するのだ。
 そんな相手にマスターについていかないで欲しいなどと願うのは、厚顔無恥もいいところだ。
 恋人と言えば聞こえが良いが、ツライッツから愛の言葉――つまり「好きです」なんてものはただの一度貰った事は無いのだから、彼の中で恋人の優先順位が相当に低いのは自覚している。叶わぬ望みを口にして置いていかれるほうが、余程惨めに思えた。
 まあ、たった一週間と少しの日を、我慢すればいいだけだ。繰り返す痛みに耐えて、宵闇の中を得体の知れぬ何かに追い回される不安から逃げ続ければいい。
 行って来ますという言葉は、帰ってくるという意味だ。ツライッツが約束を違えた事は一度も無いから、期日には必ず戻ってくる。そう自分に言い聞かせて、空になった駐輪場から踵を返した。



「――」
 時計の分針が12の数字を越えて行くのを見ながら、ハインリヒは何かを呟く。   
 夢の中に居る間に、外側の自分は家の中に刃物が見つからないと作る事まで考えたらしい。足元で割れた硝子が音を立てる。異常な状況よりも、気に入っていたグラスが駄目になってしまった事の方が酷く思えた。腕に突き立てられたままの破片を一枚ずつ取り除き、新たに溢れてくる赤い色を見ながら、そこそこショッキングなこれをパートナー達が見なくて済んだ事を安堵する。
 ハインリヒはとうとう、死の傍らに居る事に慣れきってしまったのだ。
 キッチンのカウンターの上には、作り掛けのカスタードプディングが型に入れられたまま放置されていた。
 戻ると知らされていた日から毎日こうして好物を作って待っているのに、連絡の一つもこない。彼は今一体何処に居て何をしているのだろう。
 端末の最新の履歴に指先を伸ばす。もう無駄だと分かっていたのに、一縷の望みに無様にも縋ってしまった。
 ぱたぱたと落ちる血が画面の全てを真っ赤にした頃、自動音声案内が流れ出した。
[お客様の御掛けになった番号は、現在――]
 と。つまり、ツライッツは帰って来ない。自分はまた、置いていかれたのだ。 
 心の底から疲れきっていて、もう何もかもが嫌だった。全てを忘れて、彼女と共に笑っていたかった。
 ゆっくり瞬きをすれば、またあの沼に居る。
 彼女達が手を引くのに、もう抵抗する気力は無かった。それどころかいっそこのまま、沼の底の泥に埋もれてしまいたいとさえ思う。 
 胸の上までぐっしょりと濡れ、寒さを堪えて葦と水を掻き分けていけば、そこには彼女が待っていた。
 乳白金の髪に草で編み上げた冠を戴き白いドレスを纏った水面に立つ女王を、ハインリヒはこう呼んでいた。
「――ミルタ」
 掠れた声に混じる官能の色に、ハインリヒが諦めに瞳を閉じたのに、ミルタは満足してハインリヒの頬を撫でる。遂に彼は抵抗する事を止めたのだ。指先は掌握した命を確かめる様にゆるゆると下へ辿り、喉元を掴み引き寄せる。
 ミルタの色の無い唇と、ハインリヒの青白い唇が触れ合う。
 このまま口付けを交わし、彼女へ生命の全てを捧げる筈だった。
 しかしミルタは瞼を大きく開いて動きを止める。彼女の指先が咽から離れたのにハインリヒが目を開けた瞬間――。
 ハインリヒのグレーと数ミリの距離に青い目玉が迫っている。
 突然のことに咽の奥がひゅうと音を立てた。
 人生で一番不快で甘美な感覚が胸を満たした直後、ハインリヒは生を保ったままこの世の存在で亡くなった。