|
|
リアクション
●『アイビス・グラス』として
海京の街のどこかに、小さなロシアンカフェがある。
よそでは飲めない薫り高い茶と、
味わい深い焼き菓子で知られている店だ。
大きな帽子を脱ぐと、鮮やかなエメラルドグリーンの髪が現れた。
眼鏡も外す。度の入っていない伊達眼鏡だからどっちでもいいのだけれど。
地味な色のコートも脱いでようやくアイビス……アイビス・グラスは人心地ついたような気がした。彼女が座っているのは、カウンター前のスツールだ。
「お疲れ。大変だよね、有名人ってのも」
カフェのマスター榊 朝斗(さかき・あさと)が、アイビスの前にティーカップを置いてくれる。
「ありがとう。でも、自分で選んだ道だから」
アイビスが、アイビス・エメラルド(あいびす・えめらるど)という名前だったのはもう十年ほど昔のことだ。
現在のアイビスは、歌姫として空前の成功を収めている。知名度も世界的で、変装せずにはうかつに外出もできないほどだ。
デビュー当時こそ芸能事務所の方針でアイドルソング丸出しの歌ばかり唄わされていた彼女だが、独立してからはその抜群の歌唱力を活かし、もっとコンテンポラリーな楽曲を歌うようになって爆発的な人気を博した。一昨年発売したクラシック音楽のカバー集は、その年パラミタで一番売れたアルバムとなっている。
加えてこのところアイビスは作曲もするようになり、シンガー・ソングライターとしても高い評価を得ていた。自分で唄うのみならず、若いシンガーにも次々と楽曲提供をしているのだ。ある週の音楽チャートの一位から三位がすべて、アイビス・グラス作曲の曲だったこともあるほどだ。
今や押しも押されぬ大スターと言っていいが、アイビス自身の生活はいたって質素だった。莫大な収入はせいぜい2〜3割を残す程度で、残りは貧困や病気で苦しむ人たち、難民や孤児となった子らへの募金として送り、みずから親善大使として現地に赴いたりもしていた。やはり人権・平和活動家として知られるジャネット・ソノダ女史との交流も続けており、彼女との対談集が発売されたこともある。
「今や八面六臂の活躍なのに、こうして時間を作っては、僕たちの店に顔を出してくれるのが嬉しいよ」
「そんな風に言うのはやめてよ。私は、昔のままのアイビスだから……周囲が変わっただけで」
それに、とアイビスは笑った。
「朝斗だって立派になった。この店を継いだんだから」
「先代マスターが引退しただけのことだよ……ちょうどそのタイミングで僕がいただけ」
この店は、かつて朝斗がアルバイトとして入っていた店だった。バイト時代には創業者のマスターから、茶の淹れ方や料理の手ほどきをみっちりと受けたものだ。
やがて朝斗が一人前になったと判断したのか、創業者は引退すると言い、世間相場からするととんでもない安値で彼に店を譲り渡したのである。
「朝斗がマスターになって、残念なことがひとつ」
「え? なに?」
と言いながら、なんとなく朝斗はアイビスの言葉を読んでいた。
「ネコ耳メイドコスをしてくれなくなったこと!」
「やっぱり……! そういう黒歴史を引っ張り出すのはやめてくれないかなあ。僕はもう成人だよ?」
「全然見た目変わってないじゃない?」
「それはまあ、T・アクティベーションの効果で……って、それでも中身は成長してるの!」
このときカランとドアベルが鳴った。
アイビスはさっと帽子を被ろうとして、手を止めた。
「お帰り、ルシェン。早いね」
「今日は休みって言ったでしょ。やり残した用事を片付けに学校に行ってただけ……って、あらアイビス、いらっしゃい」
スーツ姿のルシェン・グライシス(るしぇん・ぐらいしす)だった。
タイトスカートにパンプス、シャツの胸元は大きく開いている。クールなようでいて過激だが、これでも彼女は天御柱学院の教師なのである。元々はカウンセラーとして学校に勤めていたのだが、教員免許も取得していたこともあって、昨年から国語(古文)の教諭に転身したのだ。生徒指導係も担当している。
なおルシェンが教職についた理由は、「強化人間への技術は進歩したとはいえ、まだまだ課題もあることだし、それを見出すのも学院教師が一番だから」ということである。
「ルシェンも受けてみる? 私の授業。これでも結構評判いいのよ。わからないことがあったら私に質問しなさいね……ちゃんとわかるように説明してあげるから……ね?」
などというルシェンの口調はなんとも艶っぽく、おまけに前屈みになるものだから視覚的にもデンジャラスだ。そういう観点で『評判がいい』のかもしれない。どちらにせよ、ルシェンには自覚がないようだが。
「にゃ!」
ルシェンが足元に置いた鞄から声がした。
「おっと忘れてた」
拾い上げて開くと、そこから出てきたのは帰省中のちび あさにゃん(ちび・あさにゃん)だ。
「天御柱が見たいようだから、連れてってあげたの。ごめんごめん、わざと無視してたんじゃないから」
だが放置されていたことが気にくわないらしく、
「にゃあー」
とちびにゃんは腕組みするのだった。
ちびにゃんは卒業後、パラミタや地球のイコンを整備する仕事をしている。依頼があればどこへでも行くので、結構忙しくしているのだ。ちびにゃんにとっては、この世界は驚きと発見に満ちており、移動続きの生活にも飽きてはいないようだ。
「お久しぶり」
とアイビスはちびにゃんの手を握って、
「なんだか主だった顔ぶれが揃ったね」
それぞれの顔を見た。
パラミタに平和が訪れて約十年、自分を含めて四人は、それぞれの道に進んだ。
でもこうしてときどき集まっている。集まって、昔みたいに心安らぐひとときをすごす。
それは十分に幸せなことかもしれない。
だけど、いつか終わりのときはくるのだろう。
それがいつ訪れるか――そのことがアイビスには正直不安でもあったりする。
アイビスはふと思った。
――お母さんも同じ気持ちだったんだろうな。
それでも亡き母が、最後までアイビスと一緒の時間を大切にしてくれたように、彼女もこの瞬間を大事にしていきたいと思うのだ。
そしていつか自分が子を持つことになったとしたら、母のこと、それと自分のこれまでのことを教えたい。息子ないし娘にも、幸せな人生を送ってもらいたいと思うから……。
そうだ、子どもといえば――アイビスは気になっていたことを口にする。
「ところで、朝斗、ルシェン……いつになったら子ども作るのよ?」
「な、なに突然?」
あまりに唐突な展開だったので朝斗は怪訝な顔をした。
「いえね、今度ここに、ある人を連れてこようと思って……」
「ある人? 誰なの?」
「決まってるじゃない……私と婚約する人よ。それに私、今3ヶ月目になったところよ♪」
さらりとアイビスはあきらかにしたのだが、これは朝斗にもルシェンにも、もちろんちびにゃんにも初耳のことだった。
「にゃー! にゃー! にゃー!」
これはちびにゃんの反応、
「ちょ、ちょっといきなり……もしかしてすごい爆弾発言じゃないのそれ!?」
これは朝斗の反応、
「相手の男は誰よ!? やっぱりあいつ? ダリル・ガイザック(だりる・がいざっく)!?」
そしてこれは、ルシェンの反応だ。
「彼、デルタって奥さんがいるでしょ。そもそも彼のことそんなに知らないし。それで実は……」
三人は額を付き合わせ、アイビスの告げた名前に、歓声とも悲鳴ともつかぬ声を上げたのであった。
このとき内心、ルシェンが激しい焦燥感に駆られたということだけ記してこの節を閉じよう。
――先を越された!? っていうか……そもそも、うちら最近ちょっとレスなのよねえ……。
ちらっとルシェンは朝斗を横目で見た。
なんだろう、下腹部のあたりがもぞもぞする。
――うう……これはアイビスへの対抗心? それともただの欲求不満?
どっちにしろ今夜、迫ってみよう――そう決めた。主導権も取らせてもらうつもりだ。
今夜ルシェンがどんな迫り方をするか、そしてその結果がどうなるかは、読者の想像にお任せするものとしたい。
ヒントは『ネコ耳』。
それではまたどこかで!