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リアクション
【九 脱出】
マーダーブレインが、動いた。
目にも留まらぬ、という表現はこの化け物の為にあるのかと思わせる程の、信じられないような速度の動きであった。
「うぁっ!」
短い悲鳴と共に、肉が引き裂かれる耳障りな音が、その場の全員の鼓膜を強く打った。
見ると、美晴の右腕が肩先から綺麗に消失してしまっていた。赤い筋肉の束から、砕けた骨の先端が剥き出しになっているという生々しい切断面からは、しかし、血が一滴も流れていない。
これだけの傷口であれば、失血死する程の大量の血液が噴き出してもおかしくないのだが、矢張りここが仮想現実であるということが影響しているのだろうか。
「み、美晴さん!」
「大丈夫ですか!? お気を確かに!」
理沙とセレスティアが慌てて、片膝をついてうずくまる美晴の傍らに寄った。だが他の面々は、マーダーブレインの恐るべきスピードに対処するだけで、精一杯の様子だった。
「逃げろ!」
エイコさんが叫んだ。
「奴は、君達の脳波を取り込んでいるぞ! つまり、奴の戦闘能力は、ここに居る全員の能力を統合しているようなものだ! 今の君達では手に負えんぞ!」
全員が、背筋に冷たいものを感じた。
自分達の技や能力をそっくりそのままコピーして、ひとつの個体に凝縮しているというのである。まともに勝負しようとすれば、八つ裂きにされてしまうだろう。
そう、片腕を一瞬で失った美晴のように。
「に……逃げましょう〜!」
レティシアの悲鳴に近いその叫びが、壮絶なる脱出劇の号砲となった。
* * *
「ひっ!」
みのりが、口元を両手で押さえて小さな悲鳴をあげた。
理沙とセレスティアが美晴を左右から抱える格好で音楽堂から離脱してきたのだが、初代通天閣へと向かう途中で、真とみのりのふたりと出会ったのである。
みのりは、美晴が右腕を失っているその様に、酷く衝撃を受けた様子であった。
「だ、大丈夫ですか! 一体あちらで、何が起きているんですか!?」
真が、みのりの受けた衝撃を気にしながらも、理沙とセレスティアに抱えられる美晴に駆け寄った。
答えたのは、すぐ後を追うようにして走り込んできたあゆみだった。
「と、とんでもない化け物が出ちゃったのよ! 全く、冗談じゃないわ!」
さすがのピンクレンズマンも、すっかりお手上げの様子であった。同様に走り込んできたヒルデガルトも、すっかり青ざめた表情で、背後を何度も気にする素振りを見せた。
「とにかく、まずは皆さんのターミナルポイントに行きましょう。ここに居ては危険です」
捜索救援隊としてログインしてきた者達は、その気になれば強制ログアウトキーですぐにでも脱出可能なのだが、先にログインしてきていた者達は、そうはいかない。
まずはとにかく、ログアウトする為のターミナルポイントに向かわねば、話にならないのである。
「分かりました、行きましょう……みのり!」
「あ、はい、真さん!」
真はあゆみ達に頷くと、すぐにみのりを促して、魔鎧へと変身させた。恐るべき敵が迫っている以上、四の五のいっていられる状況ではないのである。
幸い、ターミナルポイントは現在のところ、二箇所だけに限定されている。逃げる側としては、そのどちらかに向かえば済む。
問題は、マーダーブレインの攻撃をエイコさんがどこまで防いでくれるのか、というところであった。
* * *
その不安は、シズル達のところで見事に的中した。
もう間も無く、ターミナルポイントである恵美須通りの街門へ到着しようというところで、突然マーダーブレインが頭上から奇襲を仕掛けてきたのだ。
「シ、シズル様ぁ!」
凶刃がシズルの脳天に達する――つかさが絶望の悲鳴をあげたが、しかし深手を負ったのは、クドだった。
彼が咄嗟の判断でシズルを突き飛ばしたまでは良かったが、背中を肩口から腰の辺りまで、深々と切り裂かれてしまったのである。
「ク、クド!」
シズルが叫んだ。同時にそこへ、エイコさんが駆けつけてきた。
「すまん! 遅れた! 君達は早く、ログアウトを!」
エイコさんの指示を受けるまでもなく、シズル、つかさ、そして途中で合流したあうらとノートルドといった面々が、早速ログアウトの手続きに入る。
クドのログアウトは、つかさが代わりとなって操作することになった。
「いやぁ、参った参った……お兄さん、こういうキャラじゃなかった筈なんだけどねぇ」
シズルを庇って深手を負ったクドだが、青ざめた表情でも、その口数が減らないのはさすがである。
だが、つかさは厳しい表情でそんなクドを叱責した。
「喋らないでください! 助かるものも、助からなくなってしまいます!」
「へいへい……じゃ、ログアウトしたら早速、お嬢さんの下着の色でも教えてもらいますか」
あくまでも減らず口を叩き続けるクドであった。
* * *
『ちょっと待って……悪いニュースや』
理沙達が今まさに、ログアウト操作に入ろうとしていた矢先。
突然頭上に現れたビリーさんが、深刻な表情で低く唸った。
曰く、全ユーザーがログアウトを完了すると、その時点で、どこかに集積されている脳波ログデータが一気にシリアライズされ、受け口として待ち構えているウィルス生成サーバーに流れ込んでしまうのだという。
逆にいえば、ひとりでもログアウトせずにこの世界に留まれば、コントラクターの優秀な戦闘力を誇る脳波がひとつとして奪われずに済む、ということだ。
「そ、そんな無茶なこといわないでよ! あんな化け物が居る世界に留まれって!?」
理沙が吼えた。無理の無い反応であった。
『そないなこというてもなぁ……このままほっといたら、あのウィルスが世の中に出てってまいよるで』
ビリーさんがいわんとしていることもまた一理あるのだが、では一体誰がここに留まるというのだろうか。
全員が苦りきった表情で俯いたその時。
「あたしが……残るよ」
誰もが耳を疑った。
美晴が、今にも死にそうな青ざめた顔で、脂汗を浮かべながら気丈に笑っていた。
「む、無茶だよ美晴さん! そんな体で、一体どうやってあの化け物の攻撃から逃れるつもり!?」
理沙が怒ったのも、当然の感情といえるだろう。
だが、美晴は恐ろしく冷静に、今の状況を分析していった。
「あたしが今ここでログアウトしたって、現実の体が右腕を失ったって錯覚するだけさ……少なくとも、あの野郎から右腕を奪い返さない限り、ログアウト出来ないね」
『まぁ、それが道理やろうなぁ』
ビリーさんも、酷く困った様子ではあったが、美晴の意見に賛同した。
ということは矢張り、今の状態でログアウトすると、美晴の現実の肉体では脳が右腕消失と錯覚し、最悪の場合、機能不全で右腕が壊死する可能性もあると考えるべきであろう。
であれば、如何に瀕死の重傷だとはいえ、美晴が残るのがベストの選択、ということになる。
尤も、こんな状態の美晴をひとりで残していくというのは、心情的にはとても許し難い行為であると、誰もが考えていたのであるが。
だが、他に選択肢が無いのも事実であった。
理沙は、涙が溢れそうになった。この大事な局面で、何も出来ない自分が許せなかった。
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