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第3章 シャンバラ教導団の攻撃(3)


 ロイ・シュヴァルツ(ろい・しゅう゛ぁるつ)もまた、運のいい1人だった。
 第4ターンまで何事もなく走ってこれたのだから。
 しかも(6,9)前からスタートし、(6,8)(5,7)と、まるで罠が設置されたエリアが分かっているかのように、ちょうど罠エリアに挟まれたセーフエリアを走り抜けて来ていた。これを、運がいいと言わずに何と言うのか。
 第4ターンで早くも砂山の前まで到達したのは彼だけだ。
(へへっ。エリーの応援のおかげかもな)
 外野で彼を見守っているエリー・ラケーテン(えりー・らけーてん)を振り返り、手を振ってみせる。
 次の瞬間、そのエリーの顔が「あっ…!」というかたちに変化する。
「ロイ! 危ない!」
 エリーの前、ロイは笑顔のまま落とし穴に落ちた。
「……ちくしょう、これは一体…?」
 落下の衝撃を受け止めるように、ロイは穴の途中で何かの上に落ちた。
 軽く上下にバウンドし、転がる。
 手足に絡みつく、それは、無数に張り巡らされた糸――糸のように見える素材だった。
「くそッ、切れない」
 強度を見ようと腕を引っ張ったが、絡みついた糸はかなり柔軟性があるらしく、伸縮するだけで1本も切れる様子がない。それどころか、少し動いただけでさらに糸のしめつけは強まっていく。
 発煙筒を使おうにも、ポケットに手を入れることも不可能だ。
「まいった」
 穴の中で大の字になるロイの姿は、まさにクモの巣に絡めとられた羽虫だった。



 (4,3)に移動して早々に、マクシミリアンが落下した。
「マックス!」
 ガチャン! と鎧が底にぶつかる音がする。
 覗き込むと、3メートル先の底でマックスが立ち上がるところだった。
「マックス、無事か?」
 悠の声にマックスが振り仰ぎ、沈黙する。
 どうやら考えているらしい。
 そして頷いた。
「無事なようだ」
 ほっと胸を撫で下ろしたとき。
「じゃあ行きましょうか、悠くん」
 隣で同じくしゃがみ込んでいた翼が立ち上がり、手を差し出してきた。
「マックスも置いて行くのか?」
「俺のときも置いてったんだし。ま、いーんじゃねーの? ただ落っこちただけみたいだしな」
 追いついた張飛が、頭をボリボリ掻きながら言う。
「しかし今度は深さが違う」
「おーい、マックスー。おまえ、1人で上がってこれるー?」
 翼が下のマックスに訊く。
 マックスは、落とし穴を見渡し、また思案するようにしばらく沈黙して、こっくり頷いた。
「ですって。
 マックスが大丈夫って言ってるんだから、大丈夫ですよ。仲間なんですから、信用してあげなくちゃ。
 さ、行きましょう、悠くんっ! 軍人は前進あるのみです!」
 にこにこ笑いながら悠の手を引っ張る翼。
 張飛は、走り出した2人と、土壁に指先や足先を減り込ませて穴の中から上がろうとしているマックスを見比べ、ちょっと考えた後、はーっと重い息を吐いて、穴の縁にしゃがみ込んだ。
「ほらよ、マックス。もうちょっとだからな」



 暗闇ならばともかく、こんな真昼間の、人の大勢いる開けた場所でやって何の意味があるのか全く分からない、不気味な声がするだけの罠に首を傾げながら(4,3)へと進んだカオルは、目の前にそびえる坂にいくらか呆然となっていた。
 てかてかに光っているツルツルの表面。
 触れてみると、濡れた指もてかてかになった。
 鼻に近づけてにおいを嗅ぐ。
「油?」
 油まみれのヌルヌル坂だ。これを乗り越えて進まないといけないらしい。
 高さは2メートルほどしかないため、跳びつけば指を引っかけられる。そこからけんすいで上るしかないだろう。
 服や手足が油まみれになるのは避けられないが。
 えいやっと跳びつき指をひっかけたが、足がすべって坂に激突し、ガリガリッと落ちた。
 坂の枠に頬をぶつけ、クギか何かに引っかけたのか、頬骨のところで少し切れたような痛みが走る。
 ぐい、と手袋でぬぐい、坂を見た。
「……くそッ! こんな障害ぐらいでくじけるか! オレは決してヘタレなんかじゃないぞ!」
 気合いあらたに、カオルはヌルヌル坂に挑んでいった。



 一方(7,6)では。
 ルカルカは、自分に何が起きたのか分からなかった。
 走っていたはずなのに、気がついたら穴の底で、空を見上げていた。
 もしかしたら落下した際に頭を打って、気を失っていたのかもしれない。
 耳元でピチャピチャと水の揺れる音がしていて、初めて自分が水の中に顔の下半分を突っ込んでいることにも気付いた。
「――カ、ルカ! ああよかった、気がついたんだな!」
「……ダリ、ル…」
 おかしい。声が出ない。
 頭がクラクラして、体が重い。上のダリルに向けて伸ばした手が震えている。
「どうした? ルカ。立てないのか?」
 ルカの異変を悟って、ダリルの声が厳しさを増した。
「……ダリ……から……しびれ…」
「くそっ! しびれ薬を溶かした水か!」
 穴の深さは3メートルはある。ダリルが下へ下りても、彼女を持ち上げて穴から出すことはできない。それどころか、水に触れれば皮膚から薬を吸収して、動けなくなってしまう可能性が高かった。
「ルカ! 今からこのロープを投げるから、どこでもいいからなんとしても巻くんだ! そうすればあとは俺がサイコキネシスで固定して、引っ張り上げる!」
 砂山攻略用にロープを持ってきていてよかったと思いながら、ダリルはフックの付いた先がルカルカの手元にくるよう下ろしていった。
 だがナーシングが使える者がいない。
 溶かされていた薬剤の濃度も、ルカルカが口にした量も不明な状態では『肉体の完成』でどこまで耐性効果があるか分からないが、全く動けなくなるということはないだろう。薬が抜けるのも常人より早いはずだ。
「……グレーターヒールで体力を補いながら回復を待つか」
 どうせ1回休みなのだ。この1回を有効に使って回復を図ろう。
 腕に巻きつけるだけで体力を使い果たしてか、ぐったりとなったルカルカを引っ張り上げながら、ダリルはそう呟いた。



 様子見をして正解だったと、歩きながら小次郎は思った。
 (9,9)(8,8)と、ことごとくルースが罠に引っかかってくれたおかげで、小次郎は難なく(8,8)まで来ることができた。
 そして第4ターンの今、彼はルースを追い抜こうとしている。
 最初のうち、小次郎は、これも勝負の世界だからと穴の横を通り過ぎるだけにしようと思っていたのだが、しかし穴に頭から突っ込んで落ちているルースを見て、少し考えが変わった。
 というか、ちょっと不憫になったのだ。彼が走っていなければ、自分もここでこうなっていたのだから。
 ルースが身代わりになってくれた、と言えなくもない。
「ルース殿、大丈夫ですか?」
「……う〜〜…」
 ルースは、応とも否ともとれる唸りで返事をした。
 ふう、と息をついて、しゃがみ込む。
「ほら、手を伸ばしなさい。引っ張り上げてあげますから」
 手伝い、穴から出したルースは、荒い息をしながらそのままごろんと地面に転がった。
 毒霧と落とし穴でかなり体力を消耗し、もう立つことができなくなっているようだ。
 毒霧を受けたのが第1ターン。今は第4ターンだから、200は体力を失っている計算になる。それに落とし穴のダメージが重なっているのだから、もうルースの体力は限界点を突破していた。
「歩けますか?」
 声をかけてみたが、ルースは完全に意識を失っているようだった。
「お嬢! おい、お嬢!」
 隣のエリアから、そんな鋭い呼びかけが起きる。
 声の主は、(9,7)へ移動したゾリアのパートナー・ロビンだ。
 ゾリアもまた、第4ターンでついに体力を完全に失ってしまったらしい。ザミエリアがいくら耳元で叫んでも、ロビンが強く揺さぶっても、ゾリアはぴくりともしなかった。
 もはやこれまで。
 ロビンの手が、発煙筒をポケットから取り出し、パキリと割った。
 紫の煙が出たのを見て、待ってましたとばかりに外野から救護班が飛び出してくる。
 その様子を見ながら、小次郎もまた、ルースの服を探って発煙筒を取り出すと、パキリと割った。
 意識を失ったルースの枕元に発煙筒を立て。
 彼自身は、次のルートとなる(7,7)に向かって歩き出した。

第4ターン終了。




『あーっと、発煙筒です! 今、発煙筒が2つ焚かれました! ついに棄権者が出たもようです。
 救護班が設営したテントに抱きかかえられて運ばれているのはゾリア・グリンウォーター選手、シャンバラ教導団所属、救護者に両肩を支えられて運ばれているのはルース・メルヴィン選手、同じくシャンバラ教導団所属です!
 一体どのような罠が彼らを追い詰めたのでしょうか? この先、さらに罠の確率は高まります! 競技者の皆さん、くれぐれもお気をつけください!』



 ピーーーーーーッとプリモのホイッスルが鳴って。
 (3,7)へ移動した瞬間、ハインリヒはまたも落とし穴に落下した。
「うわっ!」
「げ!」
 どかどかっと降ってきた、ゴットリープ。
 彼は、2人が罠で1回休みの間に追いついてきたのだ。
「だからなんっっっでおまえら俺の上に降ってくるんだよ!」
 ゴットリープの肘を頬に受けて、ハインリヒは涙目だ。
 今度は倍の4メートルの落とし穴だったため、加速が増している。
「いたた…。仕方ないでしょう、そういうルールなんですから」
 ハインリヒはクッションというにはゴツすぎて、落ちたゴットリープも十分痛い。
「今度はおまえが先に行け! 俺が上に落ちてやるから!」
 押しのけて立ち上がったハインリヒは上を見上げる。
 今度ばかりは1人で脱出は無理だ。
「おーい、ヴァリア、亜衣!」
 ロープか何か投げてくれ、そう言おうとしたときになって、初めてハインリヒは上が騒がしいことに気がついた。
「どうした! 何があった、ヴァリア! 亜衣!」
 だが彼の声に気付いて穴を覗き込んだのは、ゴットリープのパートナー・天津 幻舟(あまつ・げんしゅう)レナ・ブランド(れな・ぶらんど)だった。
「ゴットリープ、無事かの?」
「ええ、この通り。多少打撲したけど、それだけ。
 そっちで何があったの?」
「おぬしたちが落ちたのと同時に、クレーメック殿が感電したのじゃ」
「ええっ!」
「なんだって!?」
 (3,7)に仕掛けられていた罠は2つ、ハインリヒとゴットリープが落ちた落とし穴と、クレーメックがひっかかった電撃だった。避雷針が据えられており、それに触れた者に雷撃が落ちる仕組みになっていたのだ。
 もちろん死ぬほどの威力はないが、それでも衝撃は凄まじく、無防備で受けたクレーメックは完全に意識を失って倒れた。
「今、優子と亜衣がヒールをかけておる。すぐ目を覚ますじゃろ」
「2人とも、待っててね。今みんなで引き上げるから」
 レナが後ろの者に向かい、こっちへ来て、と手を振っている。
 2人がほかの4人の助けを借りて地上へと戻ったとき、クレーメックもまた意識を取り戻して、頭を振っているところだった。
「よぉ。とんだ災難だったな」
 手を差し出し、起き上がる手助けをする。
「おまえの方こそ、打撲だらけではないか。早くヒールをかけてもらわないと、青あざになるぞ」
 後ろでヒールを受けているゴットリープを目で指すクレーメック。
 そちらを振り返って、ハインリヒは、にやりと笑った。
「優子ちゃん貸してくれる?」
 すぐ後ろに亜衣が控えているのを知りながら、まったく懲りない男だった。



「む〜〜、髪がベタベタします」
 元の少女の姿に戻って最後尾を走りながら、いなさはトリモチだらけになってしまった髪を持ち上げた。
 その頬や手、服にもトリモチがへばりついている。さっきからぬぐいながら走っていたのだが、薄く広がっただけで完全にとりきれていない。
「我慢しろ。それ以上は落としてる暇がない。これが終わったらきれいにとってやるから」
 前を行く垂が、そう返事をしたとき。
「うわぁっっ!」
 そんな声を上げて、先頭の栞の姿が消えた。
 (6,7)に、深さ2メートルの落とし穴。
 もう、驚く気にもなれない。
「おーい栞、大丈夫かぁ?」
 ライゼが笑いながら訊く。
 穴底の栞は、声もなく後頭部を押さえてうずくまっている。
「……これは地味に痛いぞ…」
 なにしろ、穴底には何もないのだ。クッションとなるトリモチもスポンジもなく、硬い岩肌がゴツゴツ露出しているのだから、そこへ落ちれば痛いに決まっている。
「大丈夫! 僕がヒールで治してあげるから、いくらでも落ちて構わないんだからね! 心おきなく盛大に落ちてよねっ」
「……それ、うれしくもなんともない」
 結局毎回痛いのは変わらないんだからさ。
 シクシクシク。
 心の内で泣きながら、垂の手を借りて栞は穴から這い上がった。



「――はっ!」
 (6,4)に進んだ恵琳は、足元が崩れたのを感じてすばやく飛びずさった。
 反射でつい反応してしまったが、この競技では罠には必ずかからなければいけないのがルールだ。
「これはやっぱり、飛び込まなくちゃならないかしら」
 もう落とし穴の口はあいてしまっている。
 目の前にあいた穴にわざわざ飛び込むなど、ばかげた話だと思うが、ルールはルールだ。従わなければならない。
 飛び込む覚悟を決めて、とりあえず中をひょいと覗き込んだ恵琳は、しかしそこにあり得ない物を見てショックを受けた。
「――そんな…」
 なんと、金 鋭峰の顔がそこにあったのだ。
 高さ3メートルはある落とし穴の底いっぱいに、精悍な金 鋭峰のパネルが設置されている。
 しかもドアップなので、どこへ足を下ろそうとも、踏むことは避けられない。
「なんて巧妙な……われわれ教導団の精神的ダメージを狙った罠なのね」
 こんな恐ろしい罠が、まさか存在するとは!
(金団長の見ている前で、金団長の御顔を足蹴にしろだなんて…!)

『魏 恵琳選手、凍りついたように動きを止めてしまいました! 一体どんな罠が彼女を襲ったのでしょうかっ?
 ――ふむふむ。このトラップマップによりますと、あそこのマスに設置されています罠は、シャンバラ教導団団長・金 鋭峰のパネル写真という踏み絵だそうですっ! これは教導団員としてかなりの大ピンチではないでしょうかっ! さあ、恵琳選手はこのピンチに対していかなる対処をとるのかっ? 必見です!』

 硬直している恵琳に、すばやくなんらかを感じとったプリモが熱く叫ぶ。
(あの小娘、よけいなことを…)
 ますます追い詰められた思いで、恵琳は拳をつくった。
 感情的になってはならない、冷静に状況を分析して、論理的に動かねば勝利はないのだ。
 そして論理的な行動というのは、もちろんこの穴に飛び込み、罠を突破し、砂山に向かうことだ。
 だがはたしてそれでいいのか?
 軍人として憧れの人、こうありたいと日々修練を積んできた、敬愛する金団長の御顔を踏みつけ、この競技を続ける――それで、はたして失うものはない? この先も今の自分であり続けることができる?
「いいえ。それほどの価値がないのは、この競技の方です」
 恵琳は発煙筒を取り出し、パキリと割ると、紫の煙が噴出するそれを堂々と掲げ持った。

『魏 恵琳選手、シャンバラ教導団所属、棄権です! 棄権を選びました! 誇り高く顔を上げ、堂々と競技場を去っていきます。そしてその手には、しっかりと金団長のパネルが抱えられています! あんな穴の中に金団長の御姿を放置できないという心配りなのでしょう! あっぱれです! これぞまさに教導団の誉れ!』


「いやぁ、団員に愛されてるねぇ」
 冷やかし笑う山葉の隣で、金は、少し頬を赤くしながらも無表情を貫いた。



 そのころ、(5,3)エリアでは。
 トリモチ入り落とし穴からようやく脱出した永谷が、再び2メートルの落とし穴に落ち込んでいた。
「……騎兵は、前進…」
 頑張れ永谷!

第5ターン終了。