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■序


 嘗てその樹は、別の場所にあった。
 蒼空学園の建設に伴い、移植された大木なのである。飴色の幹がいくつものこぶを持つ太い幹や根を彩るその木は、まだ冬の風が厳しい現在にあっても、薄黄緑色の優しい色合いを揺らめかせ、時には劈くような葉音を響かせている。

 ――地球の古い超心理学研究のある論文には、石や樹が、何度も繰り返された在る光景を、記憶しているのではないかという説を唱えているものもある。
 だから今、樹の下にたたずんでいる一人の騎士――トリスタンが、正面に捉えている光景は、そんな樹の記憶あるいは彼自身の白昼夢なのかもしれない。彼は優しい笑みを浮かべながら、長い瞬きをしているようだった。


「じゃあ明日の朝、補講の前に、この木の下で待ち合わせね」
 金髪の少女が、両頬を持ち上げる。彼女は蒼空学園の制服の上に着た外套の袖を、しっかりと握りながら相手の反応を見守っていた。
「そうですね――遅刻しないで下さいよ?」
 揶揄するように返した私服の青年は、背の低い彼女の頭を撫でる。
「絶対しない。留年しちゃうもん。それより、その時に、返事を聴かせてくれるんだよね?」
 髪を指で弄りながら、彼は笑って返した。光の加減か青く見えるが、本来は黒いその毛先は柔らかそうだ。
 多くの場合、本命のチョコレートと真剣な告白を聖ヴァレンタイン・ディに受け取るというのは、既に愛を受け取ったに等しく、既に結論など出ている問題だろうにと、内心苦笑していたのかも知れない。
 だから返事などせずとも、とうに、そうとっくに自分達の関係は変わっていたのだと、その時彼は思っていた。けれど、目の前で朗らかに笑う彼女は、言語化された約束を待っている模様である。
 そんな風に察しながら、お返しに何を渡そうかと、思い悩む穏やかな時間。


 愛しい人の事を考え、その相手を倖せにするにはどうすれば良いのか。
 そう思い悩む一時は、悩む現実すら、あるいは快い感情をもたらすのかもしれない。
 トリスタンはそのような思考の渦に囚われながら、ただぼんやりと樹を見上げるのだった。

「おはようございます」

 いつもの通りの通学路。
 樹の前でたたずむ青年に対し、イズールトはそう声をかけた。
 しかしぼんやりと大木を見上げている青年からの応答はない。
 ――だが、これもいつもの事だ。
 彼女は嘆息しながらも、気を取り直すように、樹の根へと視線を向ける。
 そこにはここ数日、そうホワイト・ディが終わりを迎えた頃から、幾人もの人々が備えていく白い百合の花が横たわっていた。
 ――この路もこの樹も、普段は本当に、何の変哲もない風景の一部だ。
 だからイズールトも通常は、正面に立つトリスタンというらしき騎士への挨拶以外、気に止めるというような事はない。
 けれど例年この時期だけは、木の根の周辺が賑わうのだと彼女は知っていた。おそらくは学園で聴いたのだと思う。彼女は、百合の花を見おろしながら、足を止めた。
 日の光が金色にも銀色にも見える彼女の髪を静かに揺らす。それからイズールトの緑色の瞳が見上げた大木には、ある伝説が残っているのだ。
 ――嘗て、その木の下で待ち合わせをしていた地球人とパラミタ人がいた。二人は恋人同士と断言するには未だ曖昧な関係だったらしい。だからホワイト・ディに合わせて改めて青年は告白をしようと決意していたようである。だが相手の女性は、現れなかったのだそうだ。事故に遭い、亡くなってしまったとの事である。
 ――けれど今となっても、彼は、彼女が訪れる日を待っているとの逸話だ。

「どうしてそこで、立ち止まっちゃうのかな。次の恋に行けばいいのに。好きな人の幸せが一番だって、そう亡くなった相手も思ってるって考えて、待ってるなんて止めればいいのに」

 イズールトは思わずそんなことを呟いた。そして彼女は、相も変わらず返答のないトリスタンに微笑を返してから、学校へと向かった。
 道中には休日と言うこともあり、様々な連れ合い寄り添う二人組の姿が見て取れる。
 寒さの残る路地を歩きながらそれらの光景に頬を緩め、そうして彼女は蒼空学園の敷地内へと足を踏み入れたのだった。だがイズールトは、丁度その時響いてきた泣き声に歩みを止めた。周囲を見渡せば、一人の少女が泣いている。補講の開始時刻が迫ってはいたが、号泣し、大粒の涙をこぼしている彼女を放っておくことは忍びない。そう考えたイズールトは、思わず少女に近寄った。
「どうかしたの?」
 蒼空学園の制服を纏っている彼女は、涙を止めどなくこぼし続けながら唇をふるわせている。話しかけたイズールトに応えたのか否か、少女――イゾルデが不意に大声を上げた。
「待ち合わせをしていたのに、彼、来なかったの!! フラれたのかしら、そんな、っ、そんなっ……もう嫌!! 世界なんて滅べばいいのに!!」
 嗚咽混じりの叫び声に、思わずイズールトは一歩後ずさる。
 待ち人が来ない≒世界滅亡などとは、桶屋が儲かることわざも、バタフライ・エフェクトよりも驚嘆の理屈ではないか。
「まぁまぁ落ち着い――……」
「嫌々嫌!! こんなの嫌。全部嫌。何もかも嫌。全部全部許せないっ!!」
 金色の髪を揺らしながら、イゾルデが喚く。大きな緑色の瞳の淵では、長いまつげに涙がどんどん溜まっていくようだった。
 イズールトの制止は、何の効果も発揮していない様子である。
 嘆息した彼女は、叫んでいるイゾルデのことは勿論気にかかったが、時計で時刻を確認しながら、溜息をついた。
「――ごめんね、とりあえず先に補講に行くよ」
 そう告げ彼女は、学園内へと足を運んだのだった。

 イズールトは考える。確かに、確かにチョコレートを渡す瞬間は、とても緊張する一瞬だ。どのように捉えられるのか、どんな風に思われるのか。義理だと言って、ごまかせないほど恋い焦がれている相手がいたならば、猶更だろう。
 教室へと向かいながら、細く息をつく。
 その上相手が、そのチョコに込められた含意をどう解釈するのかなど、渡す側には分かりようもない。
 教室の扉を開けると、そこでは教壇の正面でアインハルト・フォン・オベルクという臨時講師が、正面に座る生徒を相手に、自慢げに話しをしているところだった。黒い髪が揺れている。
 確か教卓前に座っているのが初花という名の少女で、その横に座っているのがジリヤという少年ではなかったかとイズールトは思い出す。
 この補講は、別のクラスからも単位や出席日数不足の生徒を集めているため、普段は知らない生徒も多数参加しているらしい。だが確か先程叫んでいたイゾルデは、自分と同じクラスの生徒だったはずだと、イズールトは考えていた。何せ普段からこの教室で、一緒に授業を受けているのだから、間違いはない。
「え? じゃあ先生は、お返ししなかったんですか? というよりも、私の義理チョコにもお返しくれないんですか? それを期待してわざわざ来なくても良い補講に来たのに……!」
 不服そうに目を細めた初花の声に、アインハルトが嘲笑するように片頬を持ち上げる。
「ああ、無い」
「義理……義理すら俺には無かったんだけど」
 ジリヤが呟くと、臨時講師は肩をすくめた。
「腐るほどの本命チョコって奴を貰ったけどな、俺は一切お返しはしなかったし、呼び出しにも応じなかった。よくやるよなぁ、本当、みんな。俺なんて今日の課題のテスト作りで、日付すら覚えて無かったよ。仕事をしてたんだ、仕事を。補講が必要なお前らみたいな馬鹿のためにな」
 アインハルトを見据えながら、イズールトは席に着く。それほどモテるようにも見えない。確かに話しぶりは面白い先生だったが、最初に着任した頃は、もう少し丁寧な口調をしていたのではなかったかと考える。
 ――まぁ良いか。
 一人頷きながら、イズールトは、外を眺めた。窓際のその席を、彼女は気に入っている。
「先生が本命チョコ貰うとか、それ自意識過剰か、勘違いなんじゃ」
 初花がそう口にすると、アインハルトが鼻で笑った。
「こう見えて俺はロマンティストなんだ。甘い――その気にさせる言葉なら任せろ。詩の才能なら他者に引けを取らない。ちなみに愛読書は、カール大帝伝だ」
「それってロマンティックな内容なのか? それに俺は一途な方だからそう言う、声かけてフる的な人、最低だと思う」
 ジリヤが目を細めると、アインハルトが喉で笑った。
「お子様には真の恋愛なんぞ分からないんだろ」
 眼前にいる年を重ねただけのお子様教員を一瞥しながら、イズールトは溜息をついた。

 丁度その時の事だった。

――バキィィィィィンッ。

 聴く者によってはそんな風に言語化できる擬音が周囲に響き渡り、同時に声にはしがたい耳を突き刺すような不協和音が辺りへと谺する。
 一歩遅れて、悲鳴が聞こえてくる。
 その悲壮な声は、主をかえて繰り返し、何度も何度もあがり始める。

 教室内の空気が一時凍り付き、それから慌てるようにアインハルトが窓際へと近寄った。
 イズールトもまた、真正面に立っている彼の隣から、窓の外へと視線を向ける。
 すると――……

「待ち合わせをした場所なんて無くなっちゃえば良いんだからっ!! それに、世の中の恋人同士とか、みんな、いなくなっちゃえばいいのよ、きっと、それが世のためっ!!」

 学園の屋外では、先程イズールトが遭遇した少女が、暴挙に出ていた。
 まず目に付くのは、周囲の木々や校舎の一部が、凍り漬けになっている事である。
 だが最も息をのまずにはいられない出来事はといえば、道行く恋人同士とおぼしき二人組が、数々の氷像になっているという点だった。
 既にいくつもの氷像が、蒼空学園前の路に完成している。
 その現在の最後尾には、エヴァルト・マルトリッツ(えう゛ぁると・まるとりっつ)がいた。


 ――バレンタインにチョコを送ると、ホワイトデーにお返しが貰えるらしい。
 その事実を知ったミュリエル・クロンティリス(みゅりえる・くろんてぃりす)が、黒く長い髪を揺らしながら、青い瞳でエヴァルトに懇願したのは、今朝方の事である。
 通常の彼女は大人しい寂しがり屋だ。その上基本的に恥ずかしがり屋なのである。その彼女が、意を決してエヴァルトに告げたのだ。
「手を繋いで登下校したいです」
 彼に対して恋心を抱いているアリス・リリの出であるミュリエルは、しかしてその元来ひっ込み思案な性格ゆえなのか、優しさによるものなのか、普段はエヴァルトに対して独占欲や嫉妬心を見せることなど滅多にない。それだけ彼女は、皆が『仲良く』する事を尊重する穏和な少女なのである。
 10歳前後に見える、身長が110cm程度しかない幼さ全開の彼女は、その愛らしい青い瞳でエヴァルトを見上げていた。
 通常の性格や優しい一面を知っている分、エヴァルトはゆっくりと頷いた。若干目付きは悪いが、大人びて見える赤い瞳を静かに揺らして了承したのである。
――ホワイトデーのお返しだ。
――妹分の頼みだし、無碍にはできんな。

 そんな風に考えながら、彼はミュリエルの華奢な手を握り、休日ではあったが補講があるとの事だったため、蒼空学園へ向かっていたのである。
 そうして学園の敷地へ入ろうとした、まさにその時の事だ。

「恋人同士とか、みんな、いなくなっちゃえばいいのよ、きっと、それが世のためっ!!」

 イゾルデのそんな声が響き渡った直後、二人の元へと凍てついた攻撃がとんできた。
 急な事態に息をのみながらも、エヴァルトはしっかりと手を繋ぎなおし、ミュリエルを庇うように一歩前へと体を出した。そして咄嗟に敵対者とミュリエルの間へと立ちはだかったのだった。
 ――だが。
「(あれ、俺凍った!? ミュリエルも!?)」
 反撃しようと手を動かそうとして、彼は自身の体躯が微動だにしない事実に瞠目した。つまさきから指先まで、元々寒さを感じることがあった場所はおろか、顔の皮膚も、耳も、髪にさえも違和を感じる。
 視界の端限界の所で、パートナーが氷像になってしまった事実も確認できた。自分自身の体も動かない現実を理解して、エヴァルトは内心呆然とするしかないのだった。


 響き渡った轟音に、如月 正悟(きさらぎ・しょうご)が顔を上げた。彼は大学の課題をこなすため、蒼空学園の図書館へと文献を探しにやってきていたのである。端整な顔立ちをしている正悟の青い瞳は、短い黒髪の下で輝いていた。その色は、冷静――と表するには少し険しく、冷徹と表するのが丁度良いのかも知れない。
 彼は続いて叫声を耳にしたため、思わず窓の傍まで歩み寄った。そして彼は氷漬けになっているエヴァルトら、複数の人々の姿を見つけて瞠目する。
「なんだよあれ?」
 空京大学の学生である彼は、原因を探ろうと周囲を見渡した。すると攻撃を放っているイゾルデの姿が、真っ先に視界へと入ってくる。ほぼ反射的にアプソリュート・アキシオンへと手を伸ばしながら、彼は外界を見守った。
 アプソリュート・アキシオンとは、改造していた銃とウルクの剣をムリヤリ組み合わせた片手剣だ。柄にあたる部分が銃のグリップになっている。引き金を引く事で弾丸の代わりに刀身が振動し、斬撃とともに衝撃を与えるという、バランスを無視した改造品だ。だが正悟の強化光条兵器がガンブレード型である事も幸いしてか、変則的ながらも彼は使いこなしている模様である。
 またウルクの剣とは、シュメールの都市ウルクから出土したシュメール文明ゆかりの剣であり、パラミタのカナン地方の国家神イナンナの守護を受けているとされている。その切れ味は、そのままでも驚嘆するほどの鋭さを誇っていたという代物だ。
 この銃は正悟が、鏡 氷雨(かがみ・ひさめ)から貰い受けた品である。彼女の脳天気そうな子供らしい外見を思い出しつつ、正悟は、対照的に喚いていて、明るさなど全くうかがえないイゾルデを一瞥する。
「恋人同士なんて世界からいなくなっちゃえばいいのよ!」
 そして、響いてきた彼女の、悲壮が滲む怒りの声音に、思わず首を縦に振る。
「……確かに気持ちは分からないでもない……」
 クリスマスや、ヴァレンタイン、そしてホワイトデー等といった恋人同士の季節は、独り身には『切ない』行事であると考えられないこともない。
「って、けどこれ、まずいよな。なぁ、ヘイズ?」
 正悟はそう告げると、伴って図書館へと訪れていたパートナーのヘイズ・ウィスタリア(へいず・うぃすたりあ)の姿を探した。
「おい? あれ? ヘイズ?」
 だが休日の閑散とした図書館に、その時には既に、パートナーの姿は見えなかったのだった。首を傾げつつも、正悟は腕を組む。
「ヘイズの奴め、何処に消えた?」
 そんな事を呟きながら、窓の外を再度眺めると、そこには見知った姿があった。
「……あんなところでレンジアと話してやがる……この、クソ忙しい上に、ややこしい時に、いちゃつきやがって……」
 イゾルデが暴れている場所とは丁度逆側で、ヘイズはなにやら話し込んでいる様子だった。
「確かハイドが氷雨と一緒に、この辺に来ていたはずだよな」
 友人達の姿を想起しながら、正悟は思わず呟いた。かろうじて笑みを浮かべている端正な表情の奥深くで、その黒い瞳が諦観とも憤怒ともつかない色を宿しているのは、気のせいではないだろう。
「よし、連絡してやろ」
 決意し彼は、氷雨とハイド・ヴァイオレット(はいど・ばいおれっと)に対して、連絡を取ることに決めた。


「職員室に戻って、色々と連絡を入れてくる」
 一方その頃教室でも、丁度アインハルトが事態の収拾を図るため、各所へ連絡を入れる決意をしていた。
「早く行った方が良いよ――……特に、駅には早急に。みんな使ってるだろうし。それにあの娘――イゾルデは、先生の、この教室の生徒だし」
 イズールトがそう告げた時、一人頷きながら臨時講師は歩き始めた。
 扉を乱暴に開閉し、足早に廊下を進んでいく。しかしそうしながら、ふと彼は考える。
 ――あんな少女、自分の補講クラスの参加者にいただろうか?
 彼女の金色に輝く髪を回想しながら、何度かアインハルトは瞬きをする。無論、未だ受け持って僅かの期間であるから、失念しているだけなのかも知れない。
 だがどこか腑に落ちない思いのまま、臨時講師は、職員室の扉を開けたのだった。