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早咲きの桜と、蝶の花

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早咲きの桜と、蝶の花

リアクション

■オープニング■

 まだ幾らか肌寒い、初春の一日。
 タシガンの一角、深い森の奥に、必要最低限の清潔さのみを保ったその屋敷は存在した。
 屋敷の入り口から少し離れた場所で、巨大なドラゴニュートのたまは、客の訪れを感じる度に緩やかに鎌首を擡げる。彼女の頭に留まった鳥はそれに動じることもなく、ぴちちちと小さな声を奏でた。
 道に迷う者がいれば、彼女は優しく屋敷へと導く。目的地が別にあったとしても、構わずに導く。
 そうして一人、また一人、或いはポスターを見掛け、或いはたまたま屋敷の周囲を通り掛かってふらりと立ち寄り、花見の会場は夜が近付くにつれ段々と賑わいを増していく。
 その中心には、美しくそびえ立つ一本の桜の樹があった。


 そんな一日の、物語。


「……と、いうわけで。桜の花はまだ無いんですよ」
 悪びれた様子も無く、むしろ楽しげですらあるヴラド・クローフィ(ぶらど・くろーふぃ)の説明に、大久保 泰輔(おおくぼ・たいすけ)は納得したとばかりぽんと手を打った。
「成程、つまり存在しない桜を観て楽しめ……て、ことやな」
 ヴラドの背後では、対照的に面持ちを曇らせたシェディ・グラナート(しぇでぃ・ぐらなーと)が申し訳なさそうに俯いている。こくこくと頷くヴラドの反応を見届けて、泰輔は改めてハリボテの樹を仰ぎ見た。申し訳程度にピンクの折り紙が貼り付けられたそれに、ふうむ、と考え込む。
「エア花見とは難しい注文やな。……やけど、心配いらんで。日本人には『何もない』のに『あるように見せる』古典芸能があるんよ」
「あるように見せる、ですか?」
 途端に目を輝かせたヴラドへ、泰輔はこくりと頷いて見せた。
「うん、落語」
「何もないのに、あるつもりで……とは、「だくだく」もしくは「書き割り盗人」だの」
 その隣で、讃岐院 顕仁(さぬきいん・あきひと)が言い添える。いまいち理解が追い付いていない様子で首を傾げるヴラドに構わず、泰輔は早速とばかりに庭の一角を陣取り始めた。
「ええと……ごっこ遊び、ですか? いいですわ、『あるつもりで』色々すればいいんですね?」
 歩み寄ったレイチェル・ロートランド(れいちぇる・ろーとらんと)もまた疑問気ながら意を決したように頷き、持ち込んだ新聞紙をその場へ敷き始めた。
「……じゃあ、まず、こうやって毛氈を広げますね。新聞紙じゃありませんよ、気は持ちようです。はい、座って座って」
 ぽかんと見守るヴラドの視線の先で、彼女の指示を受けた泰輔、フランツ・シューベルト(ふらんつ・しゅーべると)、顕仁の三人が順番に腰を下ろしていく。
「って別に、等間隔に座らなくてもいいです! 体育の時間じゃないですから。でも、真面目にやらないとお仕置きですよ?」
 ぴしりと言い添えて、レイチェルは四角い箱を両手で描く。
「はい、ここに御重箱。開けてみると……あなたの好きなもの、が入っています。たんと召し上がれ。お給仕、させていただきますからね」
「よーし、きちんと『喰い分け』するんやぞー。うどんとそばとラーメンと素麺は、きちんと演じ分けるように。努力せぇ、努力!」
「なに、しぐさで、食べ物の食べ分けをせよ、と? では、讃岐うどんと……きつねうどんの違いを……」
 何やら張り切り始めた泰輔と、その隣で真面目にどんぶりを描き始めた顕仁たちの雰囲気に惹かれたように、ひらりと一匹の蝶が舞い降りる。
 桜色の翅を持つ美しいその蝶は、ひとしきり彼らの上を飛び回ると、そこが定位置であると理解しているかのようにハリボテの枝へ止まった。


 それから少し経った頃、ヴラドとシェディに挨拶をする鬼院 尋人(きいん・ひろと)の姿があった。
「ここではいつも楽しい思い出ばかりだし、今回もこういう機会を作ってくれてありがとう」
 楽しい、の語尾に疑問符の添えられたその挨拶にシェディは苦笑交じりに肩を竦め、ヴラドは気付いた様子もなく嬉しげに彼の手を取る。
「こちらこそ、またお会いできて嬉しく思いますよ。残念ながら今日はクッキーマンはいませんが、楽しんでいって下さい」
 彼の背後には、襷がけをしてせっせと屋台を設営するブルーズ・アッシュワース(ぶるーず・あっしゅわーす)。ブルーズの隣では、執事服にサロンエプロンを身に付けた黒崎 天音(くろさき・あまね)が設営を手伝うでもなくその様子を眺めていた。屋台には『桜餅屋台』とあり、一通り準備を終えたブルーズはふう、と鱗に覆われた腕で額を拭う仕草をする。
「準備は終わりだ。焼き始めるのは人が集まり出してからの方がいいだろう、その前に」
 言って、ブルーズは西条 霧神(さいじょう・きりがみ)を振り向く。和装に身を包んだ霧神は待っていましたとばかりに、手にしたカップとソーサーを軽く掲げた。シンプルなデザインのそれは、和物でこそないものの、極力それに近い外見の器をと霧神が選び出したものだった。
「抹茶の点て方だが……屋台だから、軽くで構わない。こうして、茶筅を素早く上下に動かして……」
 実演するブルーズの手の動きに合わせて、ぴこぴこと彼の尾が揺れる。それを楽しむかのように桜蝶が一匹、ふわふわと尾に寄っては弾かれてを繰り返し始めたのを見付けると、天音はふっと口角を引き上げ笑みを深めた。


「さーて、とにかく楽しめばいいんだったな!」
 一升瓶を手にした久途 侘助(くず・わびすけ)はハリボテの近くにシートを敷いて陣取ると、どっかりと瓶を置いた。彼の傍らでは、パートナーの芥 未実(あくた・みみ)が呆れたように肩を竦めている。
「花見って言うから来てみたのに、なんでわざわざハリボテの時に来るのかねぇ……」
「こういうのは、集っていく過程が一番綺麗なんだよ。さーて、とっておきの日本酒を持って来たんだ。呑むぞ!」
 ぐっ、と杯を掲げる侘助。やれやれと大袈裟に溜息を零して見せる未実が酌をしてくれる筈もなく、彼女の器にジュースを注いでから、侘助は手酌で日本酒を杯へ満たしていく。
「そ……そんな目で見たって呑むからな?」
 じとりと向けられ続ける未実の視線に居た堪れなさを感じ始めたのか、侘助は怯みがちながらもきっぱりと断りを入れる。「はいはい」と手を振った未実は、ジュースを片手に口を開いた。
「呑みすぎは禁物だよ? 酔って絡み酒になったら殴るからね」
 そうして、未実は器を掲げる。遠回しに飲酒を許可する彼女の仕草に、侘助はほっと胸を撫で下ろした。
「そんなに酒癖悪くないっての。……乾杯!」
 チン。澄んだ音が、未だ静かな庭の中へと響き渡る。


 ひらり、ひらり、蒼空の下舞い踊る桜色の蝶。
 森のあちこちに散っていた桜蝶たちは、普段とは違った屋敷の様子に興味を持ち始めたようだ。