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早咲きの桜と、蝶の花

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早咲きの桜と、蝶の花

リアクション

■第一章


「そのうちホンマモンの花見弁当を弥十郎はんらが持ってきてくれるから、それまでのツナギや! 楽しーい雰囲気、醸し出すんやで!」
 泰輔の号令のもと、一行は『しぐさ』での花見を続けていた。
 そう言う彼はといえば、指で丸を三つ描いて見せたと思うと、その端を持って口へ運んだ。「お団子ですか?」とのレイチェルの言葉に、グーサイン。
「せめて貧乏花見程度の物でも……と思わぬでもないがの。弥十郎殿らの料理が出来上がるまで酔狂に付き合うもまた一興」
 どこか残念そうに呟いた顕仁は、片手でお猪口を描くと、そこに酒を注ぎ入れるしぐさをして見せた。口元へ寄せたそれを軽く傾け、静かに喉を鳴らすと、苦笑交じりに一言。
「……風流とは、すさまじくも辛いものよの」
「花が実際に『ある』ところで花見気分を味わうのは、誰にでも出来る。それと同じで、幸せな春に幸福の歌を歌うのも簡単だ。けれど夏、秋、冬が訪れて、諍いや苦しみや争いごとの不幸の中に身を置くことになった時に同じ歌を歌えるかな?」
 その隣で『食事』に参加するでもなくギターのチューニングをしていたフランツが、誰にともなく呟きを零す。促すような顕仁の視線を受けて、彼は一旦手を止めた。
「それが出来たなら、すなわちマイスターの名に値するんだろうね」
 笑顔で言って、彼の意識は再びギターへ、その奏でる音色へと戻る。探るように一音一音丁寧に鳴らしては摘まみを弄り、少しずつ音を整えていく。
「これまでに目にした事のある美しいものは、記憶の中に残っているからね。それを探って音にしてみよう。まずは桜の花、満開の……」
 茶の瞳が、ごく一部のみを色付かせたハリボテの樹へと向かう。
「視界に入ってくる、まずは一枝、赤い、けれど紅くはない、やさしい色、花びら」
 呟きながら奏でられていく明るい、それでいて穏やかな即興の旋律。少し離れた位置から聴き入るように視線を注ぐシェディの目の先、フランツのギターは彼の手によって命を吹き込まれていくように、活き活きとした音色を奏で始める。
 ……の、だが。
「フランツ、卵の巻き焼き、投げるから食え〜! あ、ごめん、メガネにぶち当たった」
 泰輔の言葉に、フランツの手がぴたりと止まった。フランツは律義に片手で眼鏡の前を払う仕草をしてから、何かを拾い上げる仕草。
「……じゃあ、今度は君の番だ。ほら、太巻き投げるよ!」
「いや太巻きって一口で食えるものじゃな」
 言葉の途中で泰輔が仰け反る。どうやら直撃したらしい、と判断したフランツは小さく笑声を零した。


「ミレイユ……そんなに力いっぱい掻き混ぜていると、手が疲れてしまいますよ?」
 心配そうなシェイド・クレイン(しぇいど・くれいん)の指摘を受けて、ミレイユ・グリシャム(みれいゆ・ぐりしゃむ)は泡だて器を動かしている手をはたと止めた。彼女の手元では、充分に泡立てられたハムのムースがボウルいっぱいに収まっている。
「味付けは私がやりますので、ミレイユはアボガドのディップを……ミレイユ?」
 ボウルとシェイドの間で不安げにあわあわと視線を往復させるミレイユの様子に気付くと、シェイドは言葉半ばで彼女へと呼び掛けた。真っ赤な瞳を揺らし、ミレイユは首を傾げる。
「混ぜすぎちゃってない? 大丈夫?」
「ああ、大丈夫ですよ。丁度良いくらいです」
 どうやら無心で混ぜていたらしい。彼女の不安の理由を理解したシェイドは微笑ましげに双眸を和らげ、丁寧な仕草で彼女の片手を取った。
「私が心配していたのはこちらですよ」
 そう言って、手の甲へと労うように口付けを一つ。途端に頬を赤らめたミレイユの手を軽く撫で遣ると、シェイドは改めて彼女の様子を窺うように優しげな視線を注ぐ。
「わ、ワタシは大丈夫だよ! アボガドのディップだよね、任せて」
 慌てた様子で逃げるように視線を逸らしてしまうミレイユの横顔を暫し眺めた後、シェイドもまた調理器具を持ち直した。
 彼らの隣では、佐々木 弥十郎(ささき・やじゅうろう)の手にするフライパンから香ばしい匂いが広がっていた。揚げたてのから揚げを皿へ引き上げては次々に数を増やしていく弥十郎の見事な手並みを、傍らの水神 樹(みなかみ・いつき)が一心に見詰めている。
(かっこいい……)
 日頃は穏やかな笑顔を浮かべていることの多い弥十郎が、料理をする際に見せる引き締まった面持ちに、気付けば樹は見惚れていた。流れるような手腕と合わせ、料理に臨む彼の姿は樹にとって酷く魅力的なものだった。勿論、普段の彼も非常に魅力的なのだが……そんなことを考えているうちに、樹の鼓動は自然と落ち着きなく高鳴っていく。
「……?」
 ぼうっと弥十郎を見詰めていた樹の瞳の前に、不意にから揚げが一つ、差し出される。
 疑問気に目を瞬かせた樹が視線を上げると、そこには弥十郎の笑顔。
「これ、味見してみてくれないかな」
 その言葉に、樹は慌てて頷いた。焦ったような彼女の反応を微笑ましげに眺めつつ、弥十郎は手にしたから揚げを彼女の口元へと運ぶ。
「あっ」
 ぱくりとから揚げの端を口にした樹は、しかし直後に小さく声を上げた。はふはふと口内で熱を冷ましながら何とか咀嚼する彼女の姿に、弥十郎は咄嗟にから揚げを置きつつおろおろと様子を窺う。
「ごめん、熱かったかな……ちょっと見せてみて」
 ようやく欠片を飲み込んだ樹が躊躇いがちながらも舌を出すと、端の方が少し赤らんでいるのが見えた。それほど酷い火傷ではないらしいことにほっと胸を撫で下ろし、弥十郎は悪戯な笑みを浮かべ直す。
「これ、ちょっと痛そうだね……でも、」
 舌を差し出したままの彼女が反応するよりも、早く。弥十郎は樹の後頭部を優しく抱き寄せると顔を寄せ、赤くなった部分へ口付けを落とした。
「こうしたら、早く治るかな?」
「! そ、そうですね……」
 嬉しさと気恥ずかしさの間で頬を染めた樹へ微笑み、「今度はこっちが火傷しちゃったかな」と呟いた弥十郎は彼女の頬へ唇を触れさせる。
「もう、大丈夫です。ありがとうございます、弥十郎さん」
 照れたように目尻を色付かせた樹の言葉に嬉しげに頷き、弥十郎はから揚げの続きに取りかかる。樹もまた料理を再開しようと目線を戻すと、そこでミレイユとばったり目が合ってしまった。
「「…………」」
 一瞬にして耳まで赤くなったミレイユは、慌てて目を逸らし、手元のアボガドディップを高速で掻き混ぜ始める。一部始終を見守っていたシェイドは肩を竦め、「大丈夫なのでしょうか」と苦笑交じりに呟いた。


「ウィル〜!」
「うおっ!?」
 突然飛び付いてきたティエリーティア・シュルツ(てぃえりーてぃあ・しゅるつ)に、ウィルネスト・アーカイヴス(うぃるねすと・あーかいう゛す)は素っ頓狂な声を上げた。はしゃぎ抱き付くティエリーティアを「ウゼェ!」と引き剥がすウィルネストに、鋭い視線が注がれる。
「ティエルさんと二人で花見をしにきたはずが……」
「だったらこいつに紐でも付けとけ! 俺は忙しいんだよっ」
 眼鏡の奥の鋭い瞳を向ける志位 大地(しい・だいち)の呟きに、ウィルネストは眉を吊り上げた。噛み付くように文句を言い放つと、ずかずかとステージへ歩み寄っていく。
「あー、マイクテスト、テステス」
 持参のラジカセ、マイクセットを置き、ウィルネストはステージの中央へ。花見の準備を始めていた人々も、突然の声になんだなんだと目を向ける。
「よーし、準備完了。さあて……
 いっくぜぇえええ!! 俺の歌を聞けェえええ!!
 彼の叫びと共に、彼自身の雷術によってずどん、ずどん、と幾筋もの雷が降り注ぐ。
 同時に、ラジカセが伴奏を掻き鳴らし始めた。即興のライブめいたそれに、周囲の熱も高まっていく。桜蝶たちもその雰囲気に惹かれたように数を増し、ヴラドやシェディも期待の眼差しを向けた。

〜♪

 しかしそんな熱狂も、ウィルネストが歌い始めるまでのことだった。
「……彼は、マイスターではないようだ」
 絶望の響きを帯びたフランツの言葉に、同意するように頷く影が幾つも。ウィルネストの喉は世にもすさまじい音程を奏で、マイクによって拡声されたそれは、まるで形の無い暴力のように周囲へと降り注ぐ。あまりの衝撃に、桜蝶もその大半が吹き飛ばされてしまう。

 要するに。彼は非常に、歌が下手だった。

〜〜♪ イェイ!!

 しかし、彼だけがその事実に気付かない。
 ノリノリで歌い続けるウィルネストは、自身の周囲に炎を舞い散らせ、美しい煌めきと共にターンを決める。歌さえなければ見事なステージだった。歌さえ、なければ。

「〜〜〜♪ へぶっ!?」

 見かねたヴラドが彼を止めようと、一歩を踏み出した時のことだった。
 突然放たれたドラゴンアーツが、ウィルネストの頬を直撃する。きりもみし吹き飛ぶウィルネストに追い打ちを掛けるように、シェディの雷術が降り注いだ。
「折角の可愛い蝶が逃げちゃってるじゃない」
 不満げに言いながら現れたドラゴンアーツの主、ルカルカ・ルー(るかるか・るー)へ、周囲から称賛の拍手が送られる。ぷすぷすと煙を上げるウィルネストは、ぐぐ、と首を持ち上げた。
「俺様の幸せの歌で、蝶を呼び寄せてやってたんじゃねーか……」
「ありゃ不幸の歌の間違いだろ、見てみろ」
 ルカルカの傍らのカルキノス・シュトロエンデ(かるきのす・しゅとろえんで)が、呆れた様子でぐい、と樹の方へ首を向ける。釣られてそちらを見たウィルネストは、蝶たちが逃げるようにそこから離れていく光景にようやく気付いたようだ。
「あっこら待ちやがれ!」
 がばりと飛び起き蝶を追うべく駆け出したウィルネストは、しかし志半ばで前のめりに倒れ込んだ。ぷしゅう、と煙の上がる彼に歩み寄る、白衣の影が一つ。
「……大丈夫か?」
 先程のステージとその顛末を見ていたからだろう、嵯峨 奏音(さがの・かのん)の声にははっきりと呆れた色が含まれていた。
「ふっ……この程度、何ともないぜ」
「そうは見えないな。ちょっとこちらに来なさい」
 薔薇の学舎に校医として勤める奏音は、もがくウィルネストを有無を言わさずに引き摺っていく。そんな彼らの後ろからひょっこりと顔を出した嵯峨 詩音(さがの・しおん)は、蝶の一匹もいなくなってしまったハリボテを残念そうに眺めると、一先ず奏音の後に続いていった。