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第3章 予兆

 地下の作業は佳境に入っていた。
 草木はだいぶ大人しくなっていたが、無駄に成長した分邪魔なまでにはびこった草の蔓や木の枝を除かねばならない、その作業はまだ続いている。
「さぁ、もう心配しなくていいよ」
 通路を通る人間の目を叩きそうなまでに伸びていた木の枝先をちょんっと軽く伐って払い、エースが話しかけているのは無論、そこを通る人ではなく枝を切られた果樹にだ。
「これで皆もう君のことを怖がらないから、君は安心してまた美しい花を咲かせることができる。……ん?」
 しかしエースも、ただ気持ちのままに、果樹や苗草に喋りかけていたわけではない。『人の心草の心』を使い、植物側からの訴えをも聞き取ろうとしていた。
 だが、この特殊な地下空間で生まれ、育っているらしい植物たちは、コミュニケーションが決して上手ではなかった。
「……。君たちはどうやら、何かとても強い危機感に……煽られて、焦っていたんだね。追い立てられるように。それで慌てて、こんなに成長してしまったのかい?」
 それが、訴え下手の植物たちから根気よく感受してきたものを、エースが彼なりに分析した結果だった。
「その強い危機感の源は何だろう。回路の暴走? それとも、他に何か……?」

「回路の動きはだいぶ落ち着いてきたらしいぜ」
 黒条 冬真(くろなが・かずさ)は、地下空間の隅の、業務用機械が並ぶエリアの手前の、いくつかの回路が並走するように設置されている辺りに生えている草を、真空波でざくざくと刈っているパートナーの冴弥 永夜(さえわたり・とおや)に声をかけた。汗を垂らしながら、それでも永夜は、回路の全容がはっきり表に現れるまで、周囲の邪魔な草を刈ることをやめる様子はないようだった。
「植物も目に見えておとなしくなりつつあるし、少しペースダウンしたらどうだ。蒸し暑いし、ばてるぞ」
「あのイーリーって技師と、一緒に回路研究しているメンバーが、業務用機械と接続している部分の回路に特に問題があるんじゃないか、って言ってるのを聞いたんだ」
 刈った雑草を蹴散らしながら、それでも草を刈るのを止めず、永夜は強い口調で言う。
「俺には回路の故障や不具合を正確に診断できるような知識はないから、彼らにしっかり見て、悪い部分は直してもらわないと……不具合が原因で、あの機械が止まったりしたら……
 アイスクリームが店で出せなくなるだろ!? 大ごとじゃないか!」
 まさに世界の一大事を語るかのような切迫した口調で、必死で草を伐り続ける永夜のおかげで、複雑折れ曲がったりして重なり合っている回路の全体が見る見るうちに姿を現してくる。冬真はちらりと、並んでいる大型の業務用機械の群れを見た。茶葉の乾燥機や大型冷蔵庫など、必要な機械は沢山ある中で、どうやら永夜の目に映っているのは「アイスクリーム製造器」だけらしい。
「……あのなぁ、冴弥」
「ふぅ……しっかし、暑いなここは。こう暑いとますますアイ」
「この辺の草持ってくからな」
 額の汗を拭いながら、何かを乞うような眼差しをアイスクリーム製造器に向ける永夜に、冬真はそれ以上何も言おうとはせず、刈り取られた草を抱えて運んで行った。

 不要な草や枝の山の隣には、段ボール箱が幾つかあり、剪定組が収穫した果物や少しの野菜(サラダなどに使うが、甘味メニューの方が多いのでもともとそれほど沢山は植えていないらしい)、が入っていた。それを、手の空いた店内組の誰かが、頃合を見計らって階段を下りて取りに来ることになっていた。
「ほう、ベリー類が沢山……子供連れのお客が増えて、パフェやケーキが多く出るようになったから、これは助かるな」
 箱を採りに降りてきた八雲 虎臣(やくも・とらおみ)が、段ボール箱に沢山入った果物類を見て、少し表情を緩めた。収穫物が満載の箱を階上に運ぶ程度の力仕事は、彼にとっては苦でもない。しかし、
(……果物に葉や茎が、まだ沢山ついている)
 動く植物を相手にしながらの収穫では、実だけを丁寧に摘んでいるような余裕がないのだろう。しかし、このまま上に持っていくと、それを取り除いてまとめてゴミとして捨てるという、店内組の仕事の数が増える。客が増えてきて、笑顔で忙しく立ち働くパートナーの椿や牡丹の顔を思い浮かべ、虎臣は少し考えて、邪魔にならないよう階段の隅に腰を下ろした。
(せめて、すぐ使うことになる果物類だけでも)
 どのみち接客向きでない自分のできそうな仕事は、客席では多くない。ここである程度、使わない葉や茎を落としてから持っていこうと、虎臣は大柄な体にはいささか不釣合いなちまちました作業を、しかし黙々と開始した。

 子供が多くなり、少し店内は騒がしくなり始めたが、従業員たちの対応で大きな騒ぎは起きていないようだ。客たちはそれぞれのテーブルで、妙に活発に話に花を咲かせているらしい。従業員が気を遣ってくれたのか、騒がしそうな客たちからは少し離れたテーブルで、トマス・ファーニナル(とます・ふぁーになる)は、それら店内の様子を、一つの風景を見る目で眺めていた。
 彼の注文した「スパゲッティ・ナポリタン」はまだ来ない。メニューブックの片隅の、目立たない「その他の軽食」の欄にひっそりと乗っていた名前だった。だが、トマスはその、今や昔風の鄙びた喫茶店にしかないと言われるそれを、食べてみたかったのだ。