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第1章 森の館へ


 マーケット開催当日、魔道書パレット、リピカ(リピカ著『アカシャ録』)、ヴァニ(画集『ヴァニタスの世界』)の3人は、会場である迷いの森の館に出発する前に、エリザベート・ワルプルギス(えりざべーと・わるぷるぎす)と会っていた。
「マーケットには事情を知っている契約者も何人か向かうようですがぁ、重々気を付けてくださいよぉ」
 エリザベートは厳しい表情で言う。
 魔術書と縁の深い魔法学校であるイルミンスールとしては、このような類の催しに無関心でいるというわけにもいかず、よって好奇心を満たすのを兼ねて偵察してくれるという魔道書達の申し出は有難いし、それを受け入れてこうして送り出そうとしているのだが、何しろ敵は、禁書をこの世から消し去ることへの妄執が具現化したような、詳細のしれぬ不気味な人外の存在である。それがいつ現れるか知れない。
 自衛しようにも非契約の魔道書では限界があるだろうが、危険を充分想定して動いてもらうに越したことはない。
「こっちのことは心配ないですぅ」
 エリザベートが、片腕を上げてそう言った。その掲げられた腕は、イルミンスールそのものを示していた。
「もしかしたらイルミンスールにいる魔道書達にも危害が及ぶかもしれないと懸念して、一筆したためてきた者もいたようですぅ」



 その懸念の主は、ネーブル・スノーレイン(ねーぶる・すのーれいん)だった。
「えっと、えっとね……
 聞いた話だと、魔道書とかを取り扱ってるマーケットを開くん…だって……
 ……今は、そっちに行って何かないか考えてみようって…思ったんだぁ……」
 心配そうな表情で、ネーブルは鬼龍院 画太郎(きりゅういん・がたろう)に相談した。
「けどね……本当は…こっちじゃなくてイルミンスールで何か起っちゃうのかもって心配もあるんだ……
 今イルミンスールで噂になってる禁書処刑人さん……
 これって…捕まえてあげないと…イルミンスールに住んでる魔道書の皆も…安心できない…よね……」
 マーケットには多くの古い書物が集まるようだが、イルミンスールにも魔道書は沢山存在する。
「かぱぱ? かぱ? かっぱぱ? かっぱぁ!」
 画太郎はいつもの如く、筆を手に、紙にさらさら〜っと文字を書く。
『お嬢が行くのであれば、かっぱで執事である俺がついて行くのは道理と言えましょう』
「もし、もしもの為に…校長先生に連絡して…『魔導書の皆を、守ってあげて』って…伝えておかないと…だね」
「かぱかぱっ(では、俺が学校の方に一筆したためておきますね)」
 心配が二つの方向に裂かれて少なからず悩んでいるネーブルに、画太郎はいかにも頼もしげに言って(書いて)、その言葉通りイルミンスール校長室に向けての手紙を素早くしたためた。
 執事として主の負担を軽くするために迅速に仕事をするのは当然のことである。
「ありがとう、がぁちゃん……
 それじゃあ、私たちは……マーケットに行って…処刑人さん、捜そうね……
 魔道書の皆の…安全のために……」
「かっぱっ(はいっ)!」



「――まぁもちろん、大ババ様の持ち前の用意周到さは死角ナシですから、イルミンスールは大丈夫ですよぉ」
 エリザベートはそう言って、それからこう付け加えた。
「まぁそれだけ、あなたたちの身を案じている者もいるってことですぅ。だから用心に用心を重ねて行ってくるんですよぉ」
 魔道書達は頷き、校長室を辞した。



 学校を出て「迷いの森」へと向かう間、パレット、そしてリピカは言葉少なだった。ぎこちない沈黙をほぐそうとするヴァニの多弁がどこか空々しく回っていた。
 ヴァニがお喋りなのはいつものことだが、それでもいつもならパレットもそのお喋りに乗ってはしゃぐのに。
 しかしヴァニにも、このぎこちなさの理由は分かっていた。だからこそ、空回りを承知でお喋りに精を出していたのだ。

 リピカには、上手く切り出せないでいた。

 禁書処刑人が狙っているという『万象の諱(ばんしょうのいみな)』。
 心得を持たぬ常人には読み解けない意味不明の言葉の羅列、という特徴はパレットに似通っている。
 そんな、自分とそっくりの書物をターゲットとする処刑人が出現するだろうというマーケットに、なぜわざわざ足を運ぼうとパレットは考えたのか。

 実は、エリザベートはリピカに、こっそり尋ねていた。
 ――疑うのは嫌ですけどぉ、本当にパレットは、自分の素性を覚えていないのですかぁ? と。
 だと思います、としか、リピカは答えられなかった。
 仲間思いで屈託のないパレット。けれど、肝心なことは自分一人で抱え込んでしまって、どんなに信頼する仲間にも打ち明けない。
 そういう深淵を抱えていることに、ふとした時に気付くのは、今に始まったことではない。
 そして明らかにパレットは――『万象の諱』という名に、何か動揺している。





 迷いの森は、惑いの呪いを解かれたとしても、深い森に変わりはない。飛空艇だの、何か大きな乗り物だので行き来するのは困難だ。館に大量の売り物を運ぶ商人たちも、基本荷馬車やそれに準ずるアナログな乗り物で森を行くのが普通だ。
 杠 鷹勢(ゆずりは・たかせ)は、山犬の白颯(はくさつ)を連れて森の中を歩いていた。
 連れている、というよりはむしろ、白颯の方が先に立って歩いている。森の中の道は決して状態は良くない。踏み込むのを鷹勢が躊躇している間に、白颯がすたすた先を行く。その後を追っていくと、何とか歩きやすい道を歩けている。白颯の方が先達という感じだ。
 知らずに歩いていたら躓いて転びそうな太い木の根をひょいっと飛び越したところで、白颯が急に歩みを止めた。
「どうした? 白颯、……あ、」
 前方から近付いてくるのは、鷹勢も、そして白颯も見知った人影だった。
「こんにちはー」
 ルカルカ・ルー(るかるか・るー)だった。
「こんにちは。もしかして、ブラックブック・マーケットに?」
 鷹勢が尋ねる。彼女に道を譲るように脇によけて座った白颯にも笑って挨拶代わりに手を振り、ルカルカは鷹勢に頷いた。
「そうなの。いろいろ聞いたから、興味があってね」
 実際、ルカルカは鷹勢がここに向かうこと以外にもいろいろ聞いて知っていた。主催者の謎の男爵、イルミンスールの魔道書パレットたちもまたここに向かっていること(エリザベートから聞いた)……
 鷹勢はどの程度知っているのだろう、と思っていた。
 処刑人のキナ臭い噂は、一般の生徒たちも遭遇していることで、契約者に限って言えばかなり人口に膾炙しているふしもある。
「鷹勢はどうしてこのマーケットに? 何か本を見たい本でも?」
 ルカルカに訊かれて、鷹勢は、
「うん……まぁ、そんなとこ」
 曖昧に笑った。
「……ね、一緒に行かない? 歩きながらいろいろ聞かせてほしいな」
 少しだけ歯切れの悪い鷹勢を、ルカルカはわざとそれに気付かないかのような顔で誘った。
「一緒に? いいの?」
 鷹勢の顔に少しだけ安堵の色が浮かんだ。非契約者の鷹勢は、今日も小型結界装置持参でここまでやって来たはずだ。何かあった時には契約者のように振る舞えない分、心許ない。よく見知っている契約者のルカルカが同行してくれるということに、素直に安心したらしかった。
 ルカルカは、そうまでしてここまで来る鷹勢の目的が気になっていた。
 けど、急かして聞き出すことはない。自分も心打ち明けて話す、そして彼にも同じように話してほしい。
「もちろん! じゃあ行こっか。白颯も、今日は一緒によろしくね♪」
 白颯は滅多なことでは、吠えたり鳴いたりうるさくすることはない。ルカルカに声をかけられたこの時も、声は発さなかった。けれど、尻尾をゆったりと鷹揚に振ってみせた。どうやら白颯も、ルカルカの同行を歓迎したようである。