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そんな、一日。

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そんな、一日。

リアクション



1


「……あれっ? ……」
 水心子 緋雨(すいしんし・ひさめ)は、時計を見て自分の目を疑った。それまでのまどろみが一瞬で消え、勢いよくベッドの上に身体を起こす。
「もうこんな時間!? ちょっと麻羅ぁ、朝早く起こしてって言っ――」
 文句を言いかけた口から、急速に声が消える。気付いてしまった。
「そっか……もう、麻羅は……」
 机の上に飾られた写真立てを、手に取る。天津 麻羅(あまつ・まら)と一緒に写ったもの。笑顔で、槌を握り、鍛冶師として頑張っていた頃の。
「…………」
 緋雨は黙って写真立てを伏せた。
 あの日――神の業を見せ付けられた日から、もう一年以上が経過した。
 心を打たれ、どうにかして彼女のような鍛冶師にと、一歩でも近付こうと、必死に頑張ってきた。
 けれど、頑張れば頑張るほど、身の程を知った。
「人と神との差がこれほどまでとは思わなかったわ」
 ひとりきりの部屋で、緋雨は呟く。返事をする者はいない。構わず緋雨は言葉を零した。
「どんなに努力しても届かないと思い知らされてしまったら、もう諦めるしかない……そうでしょ?」
 ならば、せめて潔く。
 これまで打ち込んできた鍛冶師への思いをすっぱり切って、緋雨は今ここにいる。
「もう、私は鍛冶師じゃない。だから、麻羅との関係も、もう違うもの。だから、麻羅は私から――」
 不自然に、言葉が途切れる。最後までなんて到底、言うことができなかった。
「……麻羅」
 名前を呼んでも、彼女はいない。
 どこにも。
 それがわかって、緋雨は立った。部屋着を脱ぎ捨て、クローゼットからお気に入りの服を出し、着替える。
(まったく麻羅ったら……! 私ひとりにボケさせて!)
 打ちのめされた悲劇の少女ごっこにはつっこみが必要不可欠だ。でなければただの女々しくネガティブな面倒くさい女で終わる。
(この先もっと劇的な展開を考えてたっていうのにもう……なんでこんな肝心なときにいないのかしら!)
 心の中で文句を言いながら、着替えを終えて軽く化粧をして。
 鞄を肩から下げて、颯爽と部屋を出る。
 目的地は、『Sweet Illusion』。
 せっかくの休みなのだから、あんな小芝居を打ってないで出かけよう。


 時間は少し遡り。
 『Sweet Illusion』が開店するとほぼ同時に、麻羅は店を訪れていた。
「あれ? 麻羅ちゃん、早いねー」
 さすがにフィルスィック・ヴィンスレット(ふぃるすぃっく・う゛ぃんすれっと)も少し驚いたようで、どうしたの、と訊いてくる。どのケーキを食べようかと品定めしながら、麻羅は答えた。
「うむ。ちょっとな、面倒でな」
「面倒?」
「緋雨が鍛冶師の道を断念したのは知っているな?」
「うん」
「とはいえ、わしと緋雨の師弟関係がなくなったわけではない」
「それくらいで壊れる絆じゃないってことだねー」
「……その言い方はよせ」
「わざとわざと」
「くせものめ。
 ……まあともかく、何かが変わったわけでもないのにあやつはそれを楽しんでいるのよ」
 ままごと遊びのような、ごっこ遊び。最初は騙されかけたし、二回目からはなあなあでツッコミを入れてやっていたけれど、回を重ねるごとに面倒でしかなくなった。
「あやつ、進む方向が変わっただけで根本的には何も変わっておらんのじゃ」
「そんなタマじゃないよねー」
「やはりか」
 神経の図太さというか、動じない部分というか。ある意味で大きな器を、緋雨は持っている。それが良いか悪いかは、判断に苦しむところだけれど。
「まぁ、人の一生という短い時間では何かひとつでも極めようとするのは難しいのかもしれんのう」
 自身の口から出た言葉を聞いて、麻羅はふっと苦笑する。
「少々重い話にしてしまったのう。すまなんだ、付き合ってくれたこと礼を言う」
「いーえー。それにもうすぐ賑やかになるしね」
 フィルの言葉に首を傾げたとき、ドアにかけられた鈴が鳴った。
 来客へと顔を向けようとしたとき、「あーっ!」という聞き慣れた叫び声。
「麻羅、なんであなたがここにいるのよ!」
 緋雨だった。フィルを見ると、予言的中、と笑っている。そうじゃのうと頷いてから、麻羅は緋雨と向き合った。
「相変わらずうるさいのう」
「うるさいとは何よ! 今朝麻羅がいなかったおかげでね、私大変だったんだからね!」
「大方ひとり芝居じゃろ」
「大正解! わかってるなら家にいてよね!」
 わかっていたから逃げ出したのだ、とは言わないでおく。
 緋雨は自然に麻羅の隣へやってきて、「あなたはひとりここで美味しいもの食べてたってわけね!」と恨めしげな視線を向けた。まだ何も頼んですらいない、とも言わないでおく。
「あー、もう! ほんっともう! 麻羅はマイペースなんだから!」
「どっちが」
「怒ったらおなかがすいたわ……フィルさん、今日のおすすめケーキセットちょうだい!」
「おぬし、ちぃとは人の話を聞け」
「ケーキ食べてからねっ。麻羅こそ私の話を聞きなさいよ?」
 すたすたとテーブル席へ向かう緋雨の背中にため息を吐いてから、麻羅も後を追った。
 いつもと変わらない一日の、はじまりはじまり。