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リアクション
大運河にて
大運河に浮かぶゴンドラは、普段にもまして多かった。中身が黄金色のパンお茶を売る店、お菓子を売る店、一艘を借りて演奏して回る吟遊詩人や楽団。
それが突然、すうっと一斉に両岸に引いて、代わりに数艘のゴンドラが、水上に滑り出した。
両岸には何時しか人が集まりはじめている。岸に付いたゴンドラからサンドイッチやお茶を買う人たちもいる。
これから水上オペラ、そしてメインのパレードが始まるのだ。食べながら見物しようという趣向なのだろう。仮装をしている人の姿もちらほらあるが、彼らはオペラの見学を終えたら、そのままパレードに参加するのだ。
浮かんでいるゴンドラの一艘が演奏を始めると、次々に楽器を構え旋律が重なりだした。演奏用の黒いゴンドラには一艘ずつバイオリン、チェロとフルートなどの奏者が別れて乗っている。
その中に中央に二艘の、白いゴンドラが浮かんでいる。花や草でひときわ飾られたそれには、それぞれ男性と女性が立っていた。
テノール歌手のアリアが始まると、わっと岸が湧く。
「さすがに『騎士ヴェロニカ』じゃない、か」
オペラの見物に来た宇都宮 祥子(うつのみや・さちこ)が呟いた。かつてその演目のオペラを、バルトリ家の主催で見たことがあった。
ふと視線を群衆に向けると、人ごみの中に見知った女性の姿がある。彼女の視線は水上ではなく、再前列で仮装をしてオペラを見ているバルトリ夫妻に向けられているようだ。
祥子は人波をかいくぐり、彼女の元へ近づいた。
彼女は長身の肢体に銀に輝く甲冑を纏った姿だった。一見騎士そのもので──本当に騎士だったが、彼女を知らない者にはお祭り故に仮装に見えただろう。
「お久しぶりです、ヴェロニカ様」
「ああ……久しいな」
ヴェロニカは祥子の顔を思い出し、真剣な表情を少しだけゆるめた。
「ヴァイシャリーにおられたのですね」
統一されたあと代王と共にヴァイシャリーから空京に移ったとは聞いてはいなかったが、まだここにいたのだ。元々街から遠く隠棲していた彼女のこと、もしかしたらもう街からは去っている可能性もあった。
「オペラをご覧になっていたのですね」
「ああ、と言っても、オペラと子孫と半分だな。彼は……夫に、目のあたりが似ている気がする。気がするだけかもしれないが。──あれから5000年だ」
ヴェロニカは、歓声に、視線を水上に向ける。
男が花束を高く打ち上げたところだった。
「知らない演目だな、近年のものだろうか」
「喜劇みたいですね。ハッピーエンドはいいことです。……この後どうなさいますか?」
「パレードを見たら……そろそろ家へ帰ろうかと思う。今は下宿生活なのだが」
祥子は、彼女が下宿で一人暮らしをしている姿を思い浮かべる。
貴族の娘でありながら武人としての生き方をしてきた彼女だ。野営ができるなら下宿生活もできるだろう。
──そしてその彼女を、そうさせたのは自分。女王陛下守護を理由にあの地からヴァイシャリーへとお招きした。
(その時と同じ事を繰り返すことになるけれど……)
「ご存知かと思いますが、女王陛下は現在、パラミタ崩壊を止めるため祈祷を行っておられます。
今後は如何がなさるおつもりで? 以前と同じ様に女王陛下にお仕えなさるご意志があれば、静香様やラズィーヤ様に仕官のお口添えをいただけるようお願いしますが」
「……」
「偉そうなことを言っても、私は所詮、チェス盤の上にあるポーンの1つに過ぎませんけどね」
隠棲していたこの人を世に出した責任が私にはある、と祥子は思った。だからこそこの人の行く末を後押ししたい、と。
「空京に来られるなら、よろしければ居が定まるまで我が家においで下さい。幸い部屋は余っていますので」
そもそも彼女は、ヴァイシャリーではなくツァンダの出身だ。政略結婚で短い時間を過ごしてから、戦いに赴いて死んだ。
「私が忠誠を誓ったのは、アムリアナ陛下。とはいえ、現女王陛下はその意志を継いだと聞き及んでいる。確かに女王の騎士としてそうするべきかもしれない」
けれど。
「あれから時間が経ちすぎた。今の私では陛下のお役に立てはすまい」
ヴァイシャリーに来て分かったが、と彼女は言った。
この5000年の間という時間、とりわけ地球がパラミタに及ぼした影響は大きかった。次々と新しい文化が生まれ、新しい剣技や戦術が発達し、イコンも多くの生徒が乗るようになった。
「当時とは状況が違う。陛下は今、5000年前には村でしかなかった空京の巨大な宮殿にお住まいになられている。数多の臣下に傅かれ、そして──契約者に守られている」
彼女は言った。
「仕官して宮殿の警備兵の一人になるのも良いだろう、だが私は現実を知るにつれて、その前に自分を鍛え直したいと思うようになった。
世間との乖離が──ありていに言えば世間知らずだな。そのために、ヴァイシャリーの生活に慣れることにした。今後は各地を回り、修行を重ねたいと思っている」
それが、今平和になった婚家・バルトリ家を無用に乱さないためということも、理由の一つでであろうことは祥子には想像がついた。
たとえアウグストやアレッシアが厭わなくても、居候にはそれなりの気を遣うし、バルトリ家の親族、メイドたちも騒ぐだろうから。
「では……これでお別れですね」
「そうだな。……が、手始めに空京に行こうと思っている。宮殿をこの目で見ておきたい。だから──君さえよければ、その間下宿させてほしい」
「光栄です」
「その前にその堅苦しい言葉遣いはしないで欲しい。私が世話になるのだから」
この騎士様とどちらが堅苦しいのかよく分からないけれど。そう思いながら、祥子は差し出した。
「わかったわ」
「宜しく頼む」
二人は固く握手を交わした。
「これは、多くの乙女を惑わせたヴァイシャリーの美男子が、貴族の娘と身分違いの恋をする、というオペレッタの喜劇です」
バルトリ家当主夫人アレッシア・バルトリは、夫であるバルトリ家当主アウグスト・バルトリと共に、群衆の中にいた。
以前、ティーパーティで日本茶でもてなした縁で知り合ったカトリーン・ファン・ダイク(かとりーん・ふぁんだいく)と明智 珠(あけち・たま)は、オペラの解説を彼女に頼んだのだった。
水上を響き渡る女性の声が、恋の嬉しさと戸惑いを歌えば、侍女役が二人のったゴンドラがすいっと通り過ぎて、おやめなさいと歌う。
「美男子は吟遊詩人です。あの襟元に宝石のようなものが沢山付いているでしょう? あれは恋人たちから受け取った宝石類です」
すぐに夢中になるお互いだが、密会現場には、自分が代りに行こうと欲を出した侍女が現れる。暗闇で彼女が男に抱きしめられれば、それを男に別れを言い出され、納得できていない元恋人──恋人たちの一人──が見付け、浮気だと男を罵る。
一方で男が自分に本気だと勘違いした侍女は遊びのつもりで主人の立つ瀬がないと戸惑い、浮気だと勘違いされた男は、娘に嫌われたのだと思い込む。誤解だと知った後も、恋人に詰め寄られる場面を娘に見られて……。
──でも最後に政略結婚させられようとした娘を救い出して、物語はハッピーエンド、だ。
「それにしても、オペラに興味がおありになるのね?」
「先日は日本茶を通して皆様に日本文化を知っていただけたと思いましたが、次は私たちがヴャイシャリーの文化について学ぶ番だと思いました。オペラを通して歴史や文化を学べると思いましたので」
「ええ、わたくしも興味がございます。……英霊であるわたくしの生前をモデルにしたオペラがございまして、そこからオペラに興味を持ち始めたのでございます」
珠──明智珠は、明智光秀の娘である。そして結婚し、もう一つの名を持った。それは、細川ガラシャ。キリスト教徒であり、その最期は殉教と湛えられて遠い国で戯曲、そしてオペラとして伝えられるに至ったという。
「そうなのですか、その演目も是非拝見したいですね。どのようなお話なのですか?」
「妻は芸術、とりわけオペラに目がないんですよ」
珠をモデルにしたオペラの話題に興じ、それからしばらく衣装や歌の解説を受けていたカトリーンだったが、オペラが終わる頃、
「そろそろ移動した方が良いかしら?」
アレッシアがアウグストを見上げる。
「そうだな」
「カトリーンさんも珠さんもパレードに参加されるのですよね? ご一緒しましょう」
アレッシアに言われて、カトリーンは是非と答えた。
四人は群衆のなかを、ゆっくりと上流に向かって歩き始める。しかしその様子は随分と目立つものだった。
というのも、カトリーンは故郷オランダの民族衣装。深い黒を基調とした半袖の上衣に花柄のジレをかけ、鮮やかなストライプの巻きスカートの上から、ジレと同色の布を使用した、黒のエプロン。そしてレースの帽子。
足元は木靴で、こちらは若干──いや、かなり歩きにくいが。
珠の方は、日本の民族衣装である着物だ。武家の夫人の礼装である、刺繍が美しい小袖の上から、桜の春らしい打掛を羽織っていた。
バルトリ夫妻もかなり金額をかけたのだろう。アレッシアが騎士の、夫は古代シャンバラ貴族の、本格的な衣装だった。
「その衣装は……?」
「私たちのご先祖様の衣装を再現したものです」
これからこの恰好でパレードに出るのだ。
先を行くと、白を金色の細工で飾った大きなゴンドラが何艘も岸に繋がれていた。それぞれにシャンバラ王国やヴァイシャリー家の旗が翻っている。
一艘に数十人は乗れそうな船に、十人ほどのゴンドリーエたちが一列に並び舵を握っている。その上に、今日の市民パレードに参加する人々が次々と乗り込んでいる。
貴族に扮したパン屋の夫婦、道化師に扮した少女、張り切って騎士に変装した小さな男の子たち。真っ白な仮面を付けた男性、黒い蝶の仮面を被った女性。生花を体中に纏った人、全身白と銀糸のドレス、騎士、魔法使い、機晶姫、商人、町娘、司祭、海賊……猫の着ぐるみ、もといゆる族の仮装まで。あとで一人ずつ、衣装の由来や話を聞いてみるとしよう。
カトリーンたちが赤のラインが引かれた船に乗る。船がいっぱいになると、一艘ずつ岸と繋いでいた紐が解かれていった。
気持ちのいい風に吹かれて、船が滑り出す。
「今日のヴャイシャリーはいつにも増して輝いて見えるわ。町並みや運河が綺麗なのは勿論だけど、今日はいつも以上に人々の笑顔が溢れてるからかしらね」
「左様でございますね」
「卒業後の進路はまだ決まってないけれど、この街のために働けたらいいかもしれないわね」
それからカトリーンは珠と一緒に、大運河の見物人に向けて手を振った。
目が見えなくても、オペラは耳で分かる。
「この声、聴いたことがありますぅ」
冬蔦 日奈々(ふゆつた・ひなな)が耳を澄ませて冬蔦 千百合(ふゆつた・ちゆり)に言った。
ディーノというテノール歌手だ。彼が歌うと、おば様方を中心とした黄色い歓声があがる。
「人気あるんですねぇ」
「この前聴いた時は、聴衆が限られた人たちだったからね」
事件を解決したから、ディーノはまだ歌える。あれから偽物のパトロンを失った彼は再び、バルトリ家の援助を受けられることになったのだろう。
その後二人はパレードを見て、知っている顔に手を振ったり、千百合が光景を解説した。そのパレードも見終わると、二人はパンフレットを広げた。
「日奈々、次はどこ行く?」
「日本とか、ヴァイシャリーだけじゃなくて……エリュシオンとか、百合園の外国出身の人たちも……出店を、出してるって……話だから……、そういう、お店を……いろいろ、見て回ろうと……思ってますぅ〜」
「エリュシオンや外国、ね。えーっと、この辺りかな……」
日奈々に代わり、千百合が確認すると、二人は再び手を繋いで歩く。仲のいい友達同士に見えるが、れっきとした夫婦だ。
「いい匂いがしますねぇ。あれはなんでしょう?」
「あ、これ美味しそう。きのこのピロシキだって。買って半分こしようか?」
「はい」
二人は屋台まで行くと、揚げたてのあつあつを一つ買った。
「じゃあ、手が汚れそうだから食べさせてあげるね。はい、あーん」
日奈々の小さな口に、千百合がふーふー息をかけて冷まし、入れてあげる。
「美味しいです」
にっこり日奈々が笑う──と、再び彼女は耳を澄ませた。
「あ、この曲綺麗ですねぇ」
どこからか喧騒の間を流れてくる音楽に気付き、千百合は今度は日奈々に連れられて、音の在処を探しに行った。
そこは、エリュシオン出身の生徒達が出している店で、可愛らしい細工物が並んでいた。日奈々が音の主──手を触れるてその質感を確かめる。すべすべしたひんやりとした肌触り。
それは銀製のクラシックな宝石箱で、それぞれに控えめな大きさの色石がはめ込んであり、開くとイメージに応じた曲が流れるものだった。
「それは宝石箱だね。買ってあげようか?」
「え、いいですよぅ」
ふるふると日奈々は首を振った。結婚してお嫁さんになって、今もずっと手をつないで。十分に大事にされている実感がある。
「あんまりお金をムダ使いしちゃダメですよぅ」
「いいよ、ほら今日はせっかくのお祭りなんだし。ねぇどれがいい? ピンクと、青と、紫とねー」
千百合はもう買った気になって、石の色を次々と説明していった。日奈々はその勢いに負けて。でも嬉しく思いながら微笑む。
「じゃあ。ピンクにします」
「あたしも銀にしよう。髪の色でお揃いだね!」
その後もなんだかんだと色々と細々と買い物をして、二人はお祭りを楽しんでいたが……、
「それにしても……やっぱり、人多いなぁ……」
突然。日奈々が空いた手を目の上にかざして、辛そうな顔をする。
「大丈夫、日奈々!?」
「ちょっと、つらい、かも……」
「じゃあ救護センターに行こうか?」
「千百合ちゃんごめんね」
申し訳なさそうな日奈々に、千百合は努めて明るく返す。
「言いっこなしだよ。あたしも丁度喉乾いたなって思ってたんだ。白百合団のお手製クッキーも食べたいしね!」
日奈々の顔色からすると、ちょっと休めば回復しそうだ。
そうしたら、あんまり混んでいない場所をのんびり歩けばいい。
日奈々の小さな手を握りしめながら、喧騒から離れた水路沿いの小道をゆっくりと歩きながら、千百合は次はどこに行こうかな、と考え始めた。
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