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リアクション
涙雨の降らぬ夜に
糊をきかせた紺の絣縞の浴衣に雪駄、帯には扇を手挟んで本郷 涼介(ほんごう・りょうすけ)はホテルの日本庭園をそぞろ歩く。
その隣をクレア・ワイズマン(くれあ・わいずまん)は涼介に見立ててもらった、黒地に朝顔を幾つも咲かせた浴衣を着て歩いた。
浴衣を着て涼介と七夕デートだなんて初めての経験だから、クレアは緊張していた。慣れない所為もあって、下駄をかつんとぶつけてしまったり、その音にどぎまぎしたり。
それでも、大好きなおにいちゃんである涼介とこうして一緒にいられるのは、とても嬉しい。
「今年の七夕は晴れてよかったよ。日本でもこちらでも、七夕の時期は梅雨の終わりのころになるから、催涙雨に降られて綺麗に星が見えないんだよな」
晴れた夜空を見上げている涼介が言う耳慣れない言葉を、クレアは尋ねる。
「さいるいう?」
「ん、催涙雨というのは七夕に降る雨のことだよ。天界で雨が降ると天の川が溢れてしまい、織姫と彦星の逢瀬が出来なくなってしまう。そのため、天の川のほとりでは会えない2人が悲しみにくれ、その涙が地上に降ってくる、と言われているんだ。だから涙を催す雨って書いて催涙雨」
1年を待ち続けて、雨にそれを阻まれては涙も止まらない。しとしとと、しとしとと、哀しい雨になる。
「だけど今日の星空なら、今頃2人は1年ぶりの再会を喜んでいると思うよ」
「良かった。ほんと綺麗な星空だよね……」
見上げる夜空は、尚更綺麗に見える。その上で織姫彦星がひとときの幸せな時間を過ごしていると涼介に教えてもらったから、なのだろう。
「さあ、私たちも短冊に願いをしたためようか」
「うんっ」
涼介に促されて、クレアは夜空から地上へと目を戻した。
短冊を結び終わってからも、クレアは何度も星を見上げた。
「さっきは催涙雨の話をしたけど、七夕の前日に降る雨にも名前がついてるんだよ。それだけこの時期に雨が多いってことかも知れないな」
「前日に降る雨だと、早く会いたくて待ちきれなくて泣いちゃうとか?」
「名前を聞くと、何の雨だか予想できるかな。『洗車雨』というんだ」
「お星様もデートの前には車を洗……きゃ、っ」
ガツン、と木が石に当たる音。
つんのめったクレアを涼介が抱き支えた。
「大丈夫か?」
「鼻緒、切れちゃった……」
後ろにぽつんと残った下駄を、クレアは情けない気分で振り返る。折角浴衣を着てきたのに……。
涼介はクレアを立たせておいて、下駄を拾ってきた。
「はい、これ持って」
「うん……」
クレアはしゅんとして下駄を受け取った。楽しかった気分も台無し。
「それから……乗って」
「え?」
背中を向けてかがんだ涼介にクレアは驚いた。
「おんぶしてくれるの? そんな、いくらなんでも悪いよ」
「たまには兄貴らしいこともさせてくれ。今日くらいは甘えておいてもいいだろう?」
どうしようかとクレアは、向けられた涼介の背中を眺めた。
うん。今日はそうさせてもらっちゃおう。
身体を背に預け両腕を涼介の首に回すと、クレアは耳元で囁いた。
「おにいちゃん、大好きだよ」
――と。
花も団子も
見上げる頭上には、日本でのものと変わらぬように見える夜空。
空を流れる天の川を、菅野 葉月(すがの・はづき)は感慨深く眺めた。
「パラミタに来て1年経つんですね……」
この1年は、短くも長くも感じられる。短く感じられるほどに次から次へと様々なことがあり、長く感じられるほどの思い出を紡いできた。
「え、何?」
流しそうめんの方に少し気をとられていたミーナ・コーミア(みーな・こーみあ)は、葉月の小さな呟きをとらえ損ねて聞き返す。葉月がもう一度、こちらに来てから1年が経つのだと繰り返すと、
「1年かー。いろんなことがあったよね」
ミーナもしみじみと肯いた。
胡粉色に朝顔の柄が入った浴衣に青緑色の無地の帯が映えている。お揃いにしようと2人で選んだ浴衣だけれど、葉月が着れば凛とした風情が漂い、ミーナが着れば可愛い雰囲気になるのが不思議だ。浴衣の丈と帯とのバランスがそう見せるのだろうか。
ホテルの日本庭園をゆっくりとした足取りで歩きながら、2人はこの1年の思い出を語り合った。
共に印象に残っていることもあれば、相手に言われて、そうそうそんなことがあった、と改めて思い出すこともある。口に出して思い出を数え上げてみれば、本当に多くのことがあったのだとつくづく感じられた。
「そういえば、あれは憶えていますか?」
吸い込まれるような星空を見上げながら葉月がそう言った時。
きゅうぅぅぅ……。
ミーナの方から小さな音が聞こえた。
あ、とミーナがあげた声も含めて、葉月は何も聞こえなかったふりで話を続けた。ここはやはり、知らないふりをしてあげるのが礼儀というものだろうから。
けれど、その音で葉月自身もお腹が空いてきていることに気がついた。昼ごはんを食べた後、何も口にしていないのだからそろそろ空腹を感じても不思議はない。
「ミーナ、向こうで流しそうめんをしているみたいだから、行ってみませんか?」
「うん」
ミーナはちょっと赤面したけれど、葉月と連れ立って流しそうめんをしているところに向かった。
積もる話はあるけれど、ちょっと中断してそうめんタイム。話す時間はこれからもたくさんあるはずだから。
お腹が空いていた為か、そうめんを捕まえるのが楽しい所為か、流しそうめんは一際美味しく感じられた。
そうめんをすすりながら葉月と目を合わせ、ミーナは思う。
花より団子と言うけれど、花も団子も両方楽しめたらそれが一番。欲張りかもしれないけれど、どちらかを選ぶことなんて出来ない。
花も団子も何もかも。これからもずっと葉月と共に楽しんでいけるように。
流しそうめんの中に入っていた薄焼き玉子のお星様に、ミーナは願いをかけるのだった。
夏の三角を描いて
「歩はまだかしら?」
宇都宮 祥子(うつのみや・さちこ)が呟いたのが聞こえたかのように、カラコロと下駄を鳴らして七瀬 歩(ななせ・あゆむ)が走ってきた。水色に花鳥風月をあしらった浴衣に赤に黄のラインが入った帯、とおめかししてきたから、はだけてはいけない、と懸命な小走りだ。
待ち合わせ時間ぎりぎりに、カン、と下駄の音を立てて止まると歩はポーズを決めた。
「せ、セーフ! ……ですよね?」
「うーん、1、2秒過ぎてるんじゃない?」
その必死さがおかしくて祥子がからかうと、歩は飛び上がる。
「ええっ! ちょうどぴったりじゃないかなぁ。ね、小夜子ちゃん」
「さあ、どうだったでしょうね」
そんな2人のやりとりが楽しくて、冬山 小夜子(ふゆやま・さよこ)はくすりと笑った。
ひとしきりセーフだアウトだと騒いだ後、3人は七夕会場を歩き始めた。
「2人とも、すごく浴衣に合ってますねー。良いなぁ、何か夏って感じ」
祥子の浴衣は藍を基調に蘭と蝶を華やかにあしらったもの。普段からも感じているお姉さんっぽさがより一層感じられて、歩は憧れてしまう。
小夜子の浴衣は黒地に白と紺色の花模様。色白な小夜子によく栄えている。
「ハーフだからなのかなぁ。小夜子ちゃんは年下のはずなのにすごく大人っぽいー」
「歩さんも浴衣よく似合ってますよ。可愛いです」
「むー、でも大人っぽくはないよねぇ……」
自分の着ている浴衣を眺めてうなる歩に、祥子は声を立てて笑う。
「大丈夫よ。女の子はちょっとしたきっかけで、ぐんと大人っぽくなるものなんだから。たとえば恋をする、とかね。歩には決まったお相手はいるのかしら?」
「決まった人なんていないですよー。祥子さんにはいるんですか?」
歩は顔の前で大きく手を振ると、逆に祥子に尋ねた。
「私はー……いるにはいるけどなかなか逢えないのよね」
ふ、と祥子は息をついた。
「どういうきっかけで付き合い始めたんですかー? もしかして祥子さんの理想とぴったりの人だったから、とか?」
「理由? そうねえ……理想のタイプとかそんなのよりも、傍にいて支えてくれるっていう、ね。それだけになかなか逢えないのは辛いわねー……」
拗ねたりすると可愛いのよと言う祥子に、小夜子も何かを思い出す顔つきになった。
「私は最近、可愛い寝顔にときめきました」
「いいないいなー。あたしもいつか、カッコ良くて優しい王子様みたいな人に出会えるかなぁ」
羨ましすぎる会話に、歩は空を見上げた。きらきら輝く星のような王子様が白馬に乗って現れて、どうぞと手を差し出してくれる日が来るのを夢見ながら。
「歩さんの理想はやっぱり夢がありますね。私だったら理想は……頼り甲斐のある優しくて芯の強い人、でしょうか」
「あら、それは好きになった人が理想、ってこと?」
「それは……」
照れて茶化して笑ってつつき合って。
女同士の恋話は、どうしてこんなにも楽しいのだろう。
七夕らしくしつらえられた庭をゆっくりと巡ってお喋りしたけれど、それでもまだまだ話し足りない気がするのは、この時間が楽しくてたまらないからだ。
散歩も終わり、という頃になると祥子は言った。
「夏の大三角は知ってる? 彦星はアルタイル、織姫はベガ。あとは白鳥座のデネブ。たまにはアルタイル放ったらかしにして、ベガとデネブ、女だけの七夕もあってもいいと思わない?」
巾着から取り出したホテルのキーを2人の前で振ってみせ。
「このホテルに部屋を取っておいたの。そこでゆっくりお食事なんていかが?」
そう誘う祥子に、歩は感心する。
「わー、さすが祥子さん、チョイスが大人ー!」
「お食事ですか。良いですね」
「2人とも賛成? なら行きましょうか」
今日は七夕、織姫彦星の日。けれど地上に描く女だけの夏の三角もおつなもの。
ガールズトークの続きに花を咲かせながら、3人はホテル『荷葉』へと入っていった。
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