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第4章 ボートの中の嵐

(はずれクジ引いちゃったよ…)
 沖へ向かうボートの上で、ミルディアは数分前の自分の決断を激しく後悔していた。
 指名されたとき、なんとな〜く嫌な予感はしていたのだ。だけど沖へ出る手段はたしかに必要だった。崖を降りれば内海を通ることなく珊瑚礁へ出ることはできたが、あんなほぼ垂直な崖を素足で降りるなんて嫌だったし。
 しかし、その嫌な予感が的中している今、これよりはまだ崖をくだった方がなんぼかマシだったんじゃないかと思わずにいられなかった。
 このボート、なんと氷でできている。
 海の水を氷術で凍らせつつ、凍る過程でサイコキネシスを用いて2人乗りのボートの形に整えたのが、彼女の目の前にいる鼎である。
 そのすばらしいアイデア、そして同じように作り出した2つのボートと計3舟を維持し続けている胆力は、評価に値する。がしかし。
 このボート、中に乗る人間の快適さはこれっぽっちも考えられていない、こまったちゃんな乗り物だった。
(さ、寒いっ、冷たいっ。何これ? 新手の拷問? 頭はジリジリあっついのに、足の下は氷って……イジメでしょ? これはっ!)
 冷たさが気持ちいい、と感じたのは触れた一瞬で、すぐにこれは拷問器具の一種だと悟った。
 ご丁寧にもオールまで氷製。しかも鼎曰く「私はこれを維持するので手いっぱいだからね。漕ぐのはキミに任せるよ」ということで、ミルディアがえっちらおっちらずっと漕ぎ続けている。
 視線の先には、もうかなり小さくなったゴムボートがあった。男4人のゴムボートはあっという間に氷のボートを抜き去って、多分今ごろ集合地点に到着するくらいだろう。
 横を通りすぎるときの、壮太の勝ち誇った顔!――に、今不幸なミルディアには見えた。実際は氷のボートがものめずらしかっただけで、深く考えてはいなかったのだが――間違いなく、あっちが当たりクジだったのだ。
(なに1人だけ涼しい顔してんのよ、あんたッ!)
 腕組みをし、目を閉じている鼎にわめき散らしてやりたかったが、他の4人が何もしないのにミルディアだけしたら、まるで自分だけ我慢のきかないわがままっ子みたいに見えるかもしれない。いや、絶対見える。それだけは嫌!
 チラ、とほかのボートを伺ってみる。
 クレーメックと朔のボートでは、クレーメックが漕いでいる。クレーメックは最初から泳ぐ気はなかったようで、磯釣り用ルックだ。当然、手には軍手をしているし、防水用のズボンと靴を履いている。少々の冷たさはものともしないだろう。
 膝に強化光条兵器・グリントフンガムンガを置いて座っている朔は飾りけのない競泳用水着だが、裾が三分丈ほどのスパッツタイプ、その下にも白布が膝上まで巻かれていて、氷には直接触れていない。腕にも布を巻いているから側面が触れても少しくらいなら大丈夫だ。
 たいした違いはないかもしれないが、光条兵器を持ち込んでいることからも分かるように、彼女が来たのも遊ぶためでなく、心身を鍛える一環としての海修行が目的だ。この氷ボートに耐えることもまた修行と思っているのかもしれない。
 いや、多分きっとそう! なぜなら乗るときに
「心頭滅却すれば氷もまた涼し…」
とかなんとかぶつぶつ呟いていたからだ。
(イシュタンと真奈は…………あーっっっ真奈ってばズルイ、ちょっと浮いてるっ)
 百合園スク水姿の守護天使・真奈は、ぱっと見には分からないように気を配りながら、こっそり氷ボートに触れないように体を浮かせていた。
 それくらいなら飛んできゃいいじゃん、と思ったが、心細やかな彼女なりの気遣いなのだろう。
「私が漕ぐ! それで、真奈を運んであげるねっ」
 と言ってきかなかったイシュタンへの負担を減らす意味もあったのかもしれないが。
 年下のイシュタンが頑張っているのに、やっぱりミルディアが不平をこぼすわけにはいかない。
(……大体ねぇ、女の子は下半身冷やしちゃ駄目なんだからっ。毛糸のパンツ履いてでも守らなきゃなんない大切なものを、どうして長時間氷にくっつけてガマンしなきゃなんないのよ? おかしくないっ? ねぇあんたっ! あんただって女――)
 パタリ、そこでミルディアの思考がいったん停止した。
(女……よね? この人)
 あらためて前でくつろぐ鼎を見る。
(パンツに長袖の白の綿シャツ。日焼け対策よね、これって。きれいな肌してるもん。下に水着着てんのかしら? うーん、透けて見えないっ。透けたら分かるのにっ。せめて胸元だけでもっ)
 じーーーーっ。
 鼎の胸元をガン見するが、白シャツは太陽の光を反射して、見えそうで見えない微妙な透け感を保っている。
(やばっ、目がチカチカしてきた…)
 こしこし。二の腕で目をこすったミルディアの頭を、ぴきーんと妙案の光が走り抜ける。
(そうよ! 服濡らせば分かるんじゃん! 周り海だし、これ氷ボートだし!)
 さりげなくやればいいのよ、さりげなくっ!
「――ちょっと流されているみたいですよ」
 腰をひねって目測している鼎の姿が、ミルディアには自分に協力しているようにさえ見えた。
「おおっとお! 横波があっ」
 側面を掴み、グラグラ揺する。
「! な、なにっ?」
 突然の横揺れに驚いた鼎は、体勢を崩しながらも舳先にしがみつく。
「いやーんっ、揺れちゃうっ」
 言葉とは裏腹に、両足を側面に踏ん張って、全身を使って揺すった。氷ボートは大揺れに揺れたが、鼎はしがみついた指にますます力を入れて、バランスを取るだけだ。
 氷ボートに触れているのは背中や脇で、胸ではない。
「何をするんです? ミルディ」
(ちッ)
 負けるもんかッ
 ミルディアは作戦を変えた。オールを握っていた両手は溶けた氷でビチャビチャだ。胸に抱きつき、これをシャツにこすりつければ、確実に濡れる!
 触れたら胸のある・なしは確実に分かるだろ、というツッコミが入りそうな作戦だったが、固執したミルディアにはこれが最良の作戦としか思えなかった。
「ミ、ミルディ…?」
 オールから離した両掌をこちらに向けて、ニギニギしているミルディアを見て、鼎はようやくただ事ではないと悟る。
「おおっとぉ、足がすべったぁーっ」
「……くっ」
 叫びながら飛びついてくるミルディアを避けたまではよかったが。
 重心が完全に偏った氷ボートは、ミルディアの勢いそのまにあっという間にひっくり返った。
「危ないミルディ!」
 真奈の呼びかけもむなしく、海に投げ出された2人に、ナイスタイミングで後続の氷ボートがぶつかる。
 ゴンゴン! と不吉な音がして、真奈たちの氷ボートが通りすぎた後ろには、気絶した2人がぷっかりと仰向けに浮かんでいた。
「ミルディ! 大丈夫っ?」
 流されていくミルディアに、真奈が慌てて飛んで行く。
「わーっ、真奈っ大変っ」
 イシュタンの声に含まれた恐怖を感じとって、真奈は振り返った。イシュタンの持っていたオールが、ものすごい勢いで溶け出している。
「――あいつは、何と言ってたっけ…?」
 同じく溶け始めたオールに気づいたクレーメックが漕ぐのをやめ、恐ろしげに呟く。
『これらは私の精神力で維持されています。それが無くなれば、オールは1分ボートは5分で溶けます』
 今の鼎は完全に意識を失っている…。
 となれば、彼らに取れる手段はただ1つ。
 クレーメックと朔は、ほぼ同時にその結論に達した。お互いオールを1本ずつ持って、5分以内に珊瑚礁へたどり着くべく、フルスピードでボートを漕ぎ始める。
「あっ、待ってっ」
 真奈はわが目を疑った。彼らはともかく、イシュタンまでボートを漕ぎ始めたのだ。
「イシュタン、どうして…」
「真奈、ごめんねっ。でも最初に話し合ったよね、絶対巨タコを倒して困っているおじいさんを助けようって。私……私たち、そうするべきだと思う。ここで3人とも挫折しちゃったら、それこそミルディは怒るし、悲しむと思うの。きっとミルディだったら、私たちが先へ進むことを望むんじゃないかな。私ならそう思う。たとえ私が斃れたって、そのことで立ち止まったりしないで、2人が先に進むことを望むよ」
「でも…」
「だーいじょーぶ。あの様子なら、網に引っかかるか浜に打ち上げられるからっ」
 そんなことを口にする、イシュタンの様子は十分おかしかったが
「イシュタン……大人になったのね…」
 感動する真奈のおかしさも相当なものだ。
「えっ? えへっ。そうかな?」
「分かりました。わたくしもご一緒しますわ、イシュタン。
 ミルディ、あなたの意志はわたくしとイシュタンが継ぎます。必ず巨タコを倒してみせますから、どうか安らかになさってください」
 ボートを追って飛びながら誓う真奈の視界で、流される鼎とミルディアの姿はどんどん小さくなり、やがて見えなくなっていった。