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第9章 ぜんぶ、太陽のせい1

「うっ……うーーーーん…」
 ひんやりとした物が額に乗せられて、周は目を覚ました。
「あ、お気がつかれました?」
「きみは……ここはどこだ…?」
 まだ夢の中にいるような、ぼんやりとした頭で周は考える。
 逆さに覗き込まれた心配そうな女の顔。頭の下のぷにぷにとした感触からして、これはまさか膝枕?
「ひざまくらっ?」
 言わずもがなのことを、思わず声に出して叫んでしまう。まだ頭が目覚めてないらしい。
「ええ。そうですわ」
 くすくすと、周に膝を貸している女性は笑った。
 かわいかった。厳密にいうと、美人ではないのだろう。古典的美女、イギリスの薔薇という感じではなかったが、おとなしい、静かな美があった。
「あ、あの、俺……どうして…?」
 海を見てて、エッツェルがいて、玖朔と美女が…。
「うう……頭が」
「まぁ。頭が痛いんですか? お体は治して差し上げたんですが」
 女がそっと周の濡れた前髪をかきあげ、自分の額をそこにあてる。
「お熱はないようですわね…」
(ちっ……近い。近いぞ、これはっっ)
 こんな距離で普通に女性を感じたのは、一体どれくらいぶりかっ。
 いつも殴られ、はたかれ、吹き飛ばされてきたのに。しかも今回近付いてきたのは女性の方から!
「ああ。俺、天国来ちゃったのかなぁ…」
「まぁ」
 くすくす、くすくす。女は笑って、周の肩に手をあてた。
 ひんやりとした指が、つう…っと周の腕をかすめて滑る。
 ぞくり。周の背筋に、初めて冷たいものが走った。
(おかしいなぁ? 女の子に触られて、なんで寒気がするんだろ?)
「ねぇ。お名前をお伺いしてもよろしいかしら?」
 女の指は腕を這い上がり、鎖骨を通過し、胸で踊った。
 周の腰のあたりで、重い物がたまり始める。
「しゅ、周。鈴木周」
 あの指は果たしてどこまでいく気なんだろう?
 彼の両胸をもて遊び、爪で引っかき、軽くつまむ。
 男として、ビンビンきたが、同時に、うなじのあたりの毛にもビンビンくるものがあって、周はぐるりと目を回した。
(ヤバい。なんかこれ、相当ヤバい気がするぞ)
「あ、あの、俺、もう大丈夫ですからっ」
 女の手を押し戻し、立とうとする。
「まぁ、駄目よっ」
 両肩を押し戻され、周は再び仰向けになった。
「もっと寝ていなくては。頭が痛いんでしょう?」
 やさしげな女の表情は変わらないのに、周の中での、この女はやばすぎる、逃げろ、逃げろという声はどんどんどんどん高まっていく。
「オレっ、もウへーきですカラっ。は、はやくキョたこタイじにイかナクちゃっ」
 カクカクしく、何を口にしたのかも分からない。本能の命じるまま、周は脱兎の如く駆け出していった。
「……ちッ」
「ほぉら逃げられた」
 背後から、フィリス・豊原(ふぃりす・とよはら)が現れる。
「だってネージュが、弱っている男性は治療して、至れり尽くせりしてあげると簡単に落ちるって」
「あなたはちょっとガツガツしすぎなんです。それが表に出すぎているから、男性に気取られてしまうんですよ。それに、完全に体力を回復させてしまっては駄目です。落としたいのであれば、じっくりジワジワと、まずは逃げられないでいる状態から、モーションをかけなくては」
「そ、そうなの…?」
 砂を払って立ち上がる妹尾 静音(せのお・しずね)。敷いていたゴザをフェリスが回収する。
「素肌によるふれあいというのは、無意識下でも多大な影響を及ぼすのです。
 だから最初のあの吸血鬼も失敗したんですよ。せっかく人工呼吸するチャンスでしたのに、あなたったらナーシングで回復させてしまうから、触れる直前に気づかれてしまうんですわ」
「なるほど…」
 真剣に考え込む静音。それでいいのか? 静音!
「分かったわ。今度はまず、キスしたり、いろんな所に触れたりしてから目を覚まさせるようにする」
「その意気よ、静音。幸い、ひと夏のアバンチュールのカモはまだまだ泳いでいるわ」
 静音の肩を抱き、内海を指差すフィリス。
「ええ。私、頑張る、フィリス」
 そのとき。
「ドンマイだよ、静音さん!」
 どこから聞いていたのか……というか、全然これっぽっちも聞いてなかったんじゃないかという笑顔で、ヴァルキリーの集落 アリアクルスイド(う゛ぁるきりーのしゅうらく・ありあくるすいど)が飛び出してきた。
「昔っから、男をおとすには胃袋からって言うじゃん? 一緒に料理しよっ。疲れた男性には、やっぱりおいしい食べ物だよ!」
 さあさあ、こっちこっち! とアリアが静音の手を引っ張って走り出す。その先には、シラギから毒袋の取り出し方講習を受けようという面々が揃っている。
 アリアに従いながら、静音は考えていた。
(逃げられない状態に……おとす……料理……タコ…。
 毒……毒で弱らせて介抱するっていうのもありますわね…)
 本当にそれでいいのか? 静音! 何かいろんなところが間違ってないか? 静音!
 はたして静音に毒をもられるのはだれか?
 静音の明日はどっちだ???


「思ったより時間がかかってしまったわ…」
 ざっざっざっ。
 体についた汚れをパッパッと払い、砂を踏み散らかしながら、マリアが白浜に帰還した。
 舟の修理を終えた彼女は、舟を浮かべたりする力仕事は自分には無理だから、と早々にボート小屋をあとにし、佑一たちよりひと足早く戻ってきたのだ。
「シラギさん、どこかしら?」
 スイカ割りや食事の準備でにぎわう浜を、キョロキョロと見回す。
「あのおじいさん、絶対絶対何かあるよ。ボクの代わりに見張っててくれる?」
 と、ミシェルにこっそりお願いされたからでは全然ない。
(シラギさんがただ者ではないのが何だというのっ? 望むところだわ!)
 絶対に私のことを強く印象付けて、これからいろいろと便宜を図ってもらうんだから!
「あっ、いた」
 本郷 涼介(ほんごう・りょうすけ)佐々木 弥十郎(ささき・やじゅうろう)、結和たちに取り巻かれて、何か話している。
 それは、タコの毒袋処理の方法だった。
「――毒を注入する牙は、歯の内側にあっての。ほれ、この小さいやつがそうじゃ。構造はヘビの牙と同じで、中が空洞で毒袋につながっとる。墨袋と間違えやすいから気をつけて、破かんようにな。ま、おまえさんらは料理の達人と聞いとるから、タコ墨で料理するとは思わんがの。もし破いてしもうたら、用心してそのタコはそれ以上調理せん方がええ。まな板も包丁も徹底的に洗ってから、あらためて調理せんといかん。水に溶けやすいからの。けいれん、気絶の元じゃ」
「すみません。皮に寄生虫がいることが多いので塩茹でしようと思うんですが、先に茹でても大丈夫ですかねぇ?」
 弥十郎がメモの手を止めて訊く。
「ああ、それも手じゃの。この毒はタンパク質でできておるから、高熱には弱いんじゃ。作る料理によっては先に茹でてからの方がええじゃろうて」
「分かりました」
「足を酢物や刺身に利用して、頭の方は煮物とか」
「あ、それいいね。おいしそう」
 結和の提案に、アリアが嬉々として頷く。
「涼介兄ぃ、それ作ろうよ」
「そうだね、アリア。
 シラギさん、小さいやつをそのまま油で姿揚げしても食べられますか?」
「完全に火を通せばの。毒は変性して失活するから安全じゃ」
「分かりました。ありがとうございます」
 シラギからひと通り調理法を訊いた彼らは、作る料理が被らないようメニューを話し合いながらその場を離れてそれぞれの調理場に戻って行く。
 人垣が薄れたことで、ようやくシラギはマリアの存在に気づいたようだった。
「おや、嬢ちゃん」
「舟の修理を終えまして、先ほど戻りました。小次郎くんたちが網の修理に向かってますわ」
「ほう。それはありがとうよ。おかげで大助かりじゃ」
 ほほほ。
(いいじゃない、いいじゃない。もっと褒めてちょうだい)
 いい気分でニコニコ笑っていたマリアだったが。
「それで、あの、シラギさん――」
「じゃあ嬢ちゃん。戻ったばかりで悪いんじゃがの、ここの片づけをお願いできるかの?」
「はいっ?」
(ここって……このぶつ切りされたタコとか、汚れたまな板とか、内臓だらけのバケツとか…?)
「ワシはちょっと頼まれ物を取ってこにゃならんでな。いやぁ嬢ちゃんがおって良かった良かった」
 ほっほっほ。
「良かったですねぇ。望みがかなったようじゃないですか」
 笑いながら力強く斜面を登っていくシラギを呆然と見るマリアに追い討ちをかけたのは、ナーシングを受けて復活していたノインだった。
「私を置いて行ったりしたから、罰が当たったんですよ。あれから私がどんな目にあったか…」
 タコの海に突き落としたことは構わないらしい。
 普段であればこんな恨みがましいことは絶対言わない男だったが、どうやらその後、よほどの目にあったようである。
 思い出して身震いするノイン。彼は、静かに憤慨しているマリアに気づいていなかった。
「――ノイン?」
「はい」
 次の瞬間、マリアの投げた冷たい物が彼の顔面にビチャッとヒットする。それは、先ほどの講習で使用されたまな板のタコだった。その滴が1滴口に入っただけで、ノインはあっけなくその場に倒れてしまう。
 痺れているノインをゴロゴロ転がして内海の中に突き込んだマリアは、以後すっぱり彼のことは記憶から消して、場の清掃にとりかかった。
「負けるもんですか。早く終わらせて、シラギさんの元に戻るのよ」


 マリアが新たに決意を燃やしていたのと同時刻。
 左の岩崖の上ではひっそりと、御凪 真人(みなぎ・まこと)が持参した500ミリペットボトル飲料11本一気飲みを敢行していた。
 もちろん、何も好き好んでやっていたわけではない。Mじゃないんだから。持参したペットボトルで蛸壺を作成することを思いついたためだ。
 捨てるのはもったいないと、ガッフガッフ中身を飲んでいたためちょっと時間がかかってしまったが、うだるような暑さも幸いして、見事11本全部を飲み干すことに成功した。
「あ、あとはこれで蛸壺を作るだけだ…」
 たっぷんたっぷんになった腹に手をあてながら呟く。
 先から嫌な汗が吹き出している気がしないでもなかったが、どうしようもないのでそれは気のせいと無視することに決めた。
「セルファ、手伝って…」
 真人に声をかけられ、セルファ・オルドリン(せるふぁ・おるどりん)が麦わら帽子に添え手をしつつ下の岩場から上がってくる。
「あー、やっと終わったんだぁ。もう待ちくたびれちゃったわよ」
 ぷんすか怒りながら、自分の割当て分の1本を他の11本のボトルの横に並べた。
 これは真人が立てた計画なんだからと、セルファはペットボトル飲み干しには一切協力しない宣言をしていた。今の真人の状態になるのは目に見えていたからだ。
 イカ腹になるなんて、せっかくのビキニがだいなしじゃないの。
 宣言後、自分の分の1本だけを持って岩場でカニ取りをしていたセルファ。12匹のカニと海水が入ったクーラーボックスを肩から下ろして座る。
「それで、どうするの?」
「ええと。まず海水が抜ける穴を作るんだ。タコが抜けない程度の小さな穴を、適当に複数個」
 ぐったり横になった真人の指示に従って、髪留めピンでぷすぷすボトルに穴をあけていく。
「次は?」
「穴の1つに短く切ったテグスを通して、通した内側のテグスにエサのカニをくくりつけて中に入れる。ボトルの口の部分に長めに切ったテグスをくくりつけて、沈む程度の海水を入れたら終わり」
「分かった」
 セルファは真人の指示通り、次々と即席の蛸壺を作り上げていった。
「でーきたっ。これを放り込めばいいのよねっ?」
「うん。なるべく遠くへ投げて…………あ、ちょっと待ってっ!」
 ハッとあることに気づいて身を起こした真人だったが、時遅し。ペットボトル蛸壺は全部、思いっきり遠投されてしまっていた。
「どうかしたの? 真人」
 突然の大声にびっくりして、セルファが真人の方を見る。その先には、ガックリ肩を落とす真人の姿があった。
「……テグスのもう片側を持ってないと、引っ張り上げられないよ…」
 その言葉に、ようやく自分の失態に気づいたセルファの顔が、一瞬で真っ赤に染まる。
「あ、あたし悪くないんだから! 真人が遠くに投げてって言ったんじゃないっ」
「それはそうだけど」
 でも普通気づくよね、引っ張り上げなくちゃいけないんだから。
(もしかして、11本ボトル飲んだ努力が全部パァ?)
 ふう、と重いため息をつく真人の姿が決定打だった。
「なっ何よ! じゃあ真人、取ってきてよ!」
 ドンッ。
「うわっ!」
 突然セルファに背中を突かれてバランスを崩した真人は、腕をグルグル振り回しながら下に落ちて行き、爆撃されたような水しぶきを上げる。海面の衝撃が、彼のふくれ上がったイカ腹にとどめをさした。
「まったくもぉ………………真人なんて、だいきらい。いじわる。ばかっ」
 何か得体の知れない色をした航跡を残しながら海岸へ流されていく真人に背を向け、膝を抱えたセルファがひとりごちる。すると突然、岩陰から変な動きをする影が現れた。ひょこっ、ひょこっと左右に揺れながら、だんだんセルファに近付いてくる。
「ええっ? 何これっっ」
 それっきり、セルファは絶句してしまった。