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月下の無人茶寮

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月下の無人茶寮
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リアクション

2つのオムライス


「あぁ……これ、覚えてるよ」
 無人茶寮のテーブルで、佐々木 弥十郎(ささき・やじゅうろう)は、目の前に出てきた皿を見てちょっと驚いたように目を瞠った後、その目を懐かしげに細めた。
 皿の上にはオムライス。
 卵のふわふわ感が絶妙で、黄色が鮮やかにつややかに光っている。
「火の通り方がね。経験を積まないと物に出来ないんだよねぇ、このタイミングが」
 ヴァイシャリーにいる料理の師匠が、作ったまかないのオムライス。手本にという意味で一度だけ、作ってくれたものだった。
 人の記憶や感情から料理を再現するという魔法装置の施設と聞き、どんなものが出てくるのか、自分では特に予想せず楽しみにしてやってきたが、なるほどそうきたか、と思う。確かに、料理人としての自分の根幹に影響している一品の一つだ、と感じた。
「このふわふわを出すために、何個卵を焼いたっけ」
 重ねた努力の日々を、弥十郎は感慨深く追憶した。
 卵料理は料理人の基本だなどとも言う者もいるとか。確かに、焼くだけだと思っていても、火の加減や通す時間で、同じ品でも驚くほど出来栄えが変わってくる。理想とする味に近付くには、傍から見れば単調にも思えるような訓練を、飽きるほど繰り返さねばならなかった。
「一度は眠りながらフライパン振ってたしなぁ」
 その長い繰り返しの果てに、上手くいったと言えるほどの出来をアベレージで出せるようになり、さらにそこからたゆまず鍛錬しなくては、達人と呼ばれるほどの何らかを得ることはできない。寝ながらフライパンを振ったり、夢の中でも卵を焼いたりしていた修業時代。それも今となってはいい思い出、かもしれない。今の自分を満たす、大切な日々だった。
 料理を極めることの深さを思い知らせる、師匠の味。一口食べて、その人を思う。かの人の教え、今よりずっと、手つきも手順も何もかも覚束なかった自分を思い出して。
「……やっぱり、美味しいねぇ。あの時と同じだ」


 ……気が付くと、同じテーブルについた兄の佐々木 八雲(ささき・やくも)は、さっきから何も喋っていない。
 見ると、彼の前にある皿にも“オムライス”が載っている。
 が。

(オムライス……だよねぇ?)
 こう言っては何だが、弥十郎に饗されたものとは、同じオムライスでも雲泥の差があった。
 ご飯を包む卵は端々が焦げているし、包む段階で折れてそのまま皺になってしまっている。そのせいでご飯がはみ出ているが、そのご飯もきちんと型で固めていないらしくばらりと崩れている。
 その不恰好なオムライスを前に、八雲は黙ってそれを見つめているばかりだった。
「……どうしたの兄さん、お腹でも痛いの?」
 弥十郎が声をかけるが、八雲は答えない。
 やや驚きの滲んだ表情を浮かべたまま、ただじっとオムライスを見ている。
 そんな兄の様子と不恰好なオムライスとを、しばらくの間弥十郎は当惑して見比べていたが、やがて、
「これ、ワタシ一口食べてみていいかな……?」
 思い切って申し出てみると、しばしの沈黙の後、あぁ、と八雲は低い声で頷いた。
「……。
 ……え。何コレ。
 卵はすごく甘いし、チキンライスの玉ねぎは所々生だねぇ。
 味も均等に混じってない。
 でも、一生懸命な感じがする。……一生懸命作ったって感じが。
 ――このオムライスは、何なの?」
 弥十郎が尋ねるが、やはり八雲は何も言わない。
 代わりにスプーンを取り、黙々とそのオムライスを口に運び始めた。



 初めて作ってみたんだけど……
 そう言ってこのオムライスの皿を差し出した少女の顔を、今でも覚えている。
 本当に、全然料理をしたことがないらしく(育ったのが専業主婦の家庭だったとか)、料理本片手に悪戦苦闘の末の産物だった。弥十郎が指摘した味の難点はその通りだったし、そもそもそれを出してくれた時も、包丁で切ったのか手の指先には絆創膏が貼られていたし、服の裾には刻んだ玉ねぎの欠片が(切った時飛んで付いたのだろう)くっついていたし、その玉ねぎにみじん切りにする時泣かされたのか瞼がまだ赤く腫れていたという有様だった。
 でも、それでもやり遂げたという満足感からか、はにかむような笑顔は輝いていたと記憶している。
 強化人間の研究施設で出会った、彼女に好意を寄せていた。
 何ができたというわけでもなかったけど……
 オムライスはお世辞にも見栄えがいいとは言えなかったけど、一生懸命に作ってくれたものを自分に食べさせてくれたことが嬉しかった。苦心惨憺して作ってくれたものだと分かっていたからこそ、その分有難いものに思えた。
 美味しい。
 やや緊張した顔で彼の感想を待っていた彼女に、そう言ったのは、客観的事実とは多少違ったとしても嘘のつもりはなかった。味覚よりも深いところで「美味しい」と確かに思ったのだ。
 彼女の手を経て作られた糧は、彼女への淡い慕情を秘めた体に心地よく沁みた。

 ――あの寺院の人体実験が、彼女の命を奪った。
 自分もまた、実験によって左目を失った。

 残ったのは、彼女の笑顔と初めて作ったオムライスの味の記憶だけ。

 それから時は流れ、自分を取り巻く状況も進んでいく道も、いろいろと変わっていって――



(おかしいな。……もう、枯れたと思っていたのに)
 このオムライスを一目見て、それが何なのか即座に分かった、その瞬間から、枯れていたことなど嘘だったかのように湧いて出てくるものがあった。
 弥十郎の前で、それを見せるわけにはいかなかった。止まれば溢れ出してしまいそうだったから、せっせと口と手を動かし続けた。甘い卵、玉ねぎの辛みが少し味に残るライス。黙々と嚥下され、八雲の腹の中に落ちていく。
(コレを喰って、全てを飲み込めってことなのかい。先に進めって)
 枯れ果てて、もう消えたと思っていたのに、まだこんなにも鮮明に残っていた。
 思い出さなくなったことで、先に進めたのだとすら思っていた。
 ただ、視線を別のところに向けていただけなのだろうか。
(すべて、飲み込めと)
 一心不乱に、スプーンを口に運ぶ。
 いつしかありありと、八雲の胸の中に彼女のあの笑顔が浮かび上がっていた。
 糧食は生きていく人間の体を作り、その人間の力となる。この味の記憶は、自分の中に生きる、『彼女が生きていた』という証なのかもしれない。
 飲み込むことは、辛い記憶を消し去ることではない。
 これを食べきったら、もう、彼女を思い出してもこんなに溢れるものに胸が痛むことはなくなるだろうか。
 ――胸に残る大切な人ならば、追憶するたびに苦しくなるからと思い出すのを恐れ避けて生きていくのは悲しいから。
 いつの日か、その思い出を胸の奥で小さく輝くささやかな宝物のように、感じられるように。
 飲み込んで進め、とは、恐らく。
(そういうことなのかい)
 誰に当てたともない問いかけの言葉に、胸の中の彼女が、明るく笑ったような気がした。




 何も言わずに最後まで食べきった八雲に、弥十郎は束の間、どういう言葉をかけたものかと逡巡していた。
 だが、思いがけないことに、八雲の方から口を開いた。
「美味かったろ」
 肩をすくめて、その顔には苦笑さえ浮かんでいた。
「兄さん、」
 弥十郎は呼びかけ、……だが続く言葉を探すのをやめるように、言葉を切って、彼に応じるような苦笑を浮かべて小さく頷いた。
 八雲はどこか、先程よりも少しだけ清々しげな表情で、頭を上げて壁の方、大きな窓の外を見た。
 月はやはり、空で煌々と輝いていた。