リアクション
終章 図書館の平和
「ありがとうございます。これからはよく術と護身の法とを教え込みますじゃ……」
例の老人は、そう言って図書館を立ち去った。彼の弟子が、蟲によって引き込まれた書物から解放されるのを確認して。
「良かったですね」
クラヴァートもそれを見届けて、ホッとした様子だった。
「あの人もお弟子さんも、またこの図書館に来ることがあるかな」
クリストファーが呟くと、クリスティーは「どうだろうね」と肩をすくめた。
虫干しは順調なうちに終了した。
禁帯出書庫の本たちの無事も確認された。
「はい、これ」
ゼンは、小さな木箱をぬっと弥十郎に差し出した。
「? これは?」
「さっきいた、あの蟲。珠ちゃんの」
弥十郎の隣で八雲がぎょっとしている。
「エキス取るんでしょ? おっきいからちょっともったいないけど……あげる」
木箱は軽かった。物音もしない。
「あ、この世界では開かないように、氷の呪(しゅ)をかけたから、戻ってから開けてね。
間違って開けて逃げ出しちゃっても、本に入り込む前なら、氷術系の魔法をかければ凍りつかせられるよ。
本に入りこんじゃったら、その本開けないよう気を付けてね。もっともこっちの世界みたいに、人を引きずりこむことはないけどね。
僕らなら本から引き剥がせるから、会える時まで待ってねー。
あと、エキスが上手くとれたかどうかも、会えたら教えてねー」
一気にそこまで言うと、ゼンは「じゃあ」と手を振って、「コウ! 蟲どのくらい集まったー!?」と、結界の後片付けをしている弟の方へ飛んで行ってしまった。
「……元の世界で逢えることがあるんでしょうかねぇ」
弥十郎は、手の中の木箱を見つめて呟いた。横でその様子を見ていたクラヴァートは、
「あの子たちは現実世界では、パラミタ中を回る古書の行商人と一緒にいるという話ですから。
旅をして、どこにでも行ける気でいるんでしょう」
元気ですよね、と微笑んだ。
「じゃあ、また会うかもしれないですねぇ」
「それ、珠ちゃんにはもう近付けるなよ!!」
八雲はひとりムキになって、木箱を睨みつけていた(本にしか蟲は憑かないことを、あの事件の忌まわしさで忘れてしまっているらしい)。
かつみたちも、書庫での一件の顛末をその後聞いて、収まるべき形に収まったことに安堵した。
「でも……俺、分からないんですよねぇ」
ナオがぽつりと呟く。あの例の「予言書」は、すでに修繕を終えて書庫に戻されている。ナオとともに、書庫に戻す本をカートに積んでいたかつみは「何が?」と尋ねた。
「あの本さんが、どうして最初に『笑わない?』って聞いたか、です。
作者さんが会いに来たらいいなって思うことを、どうして俺が笑うかもって思ったんでしょう?」
「あぁ、それは」
そこまで口にして、かつみは瞬時に、言おうとしていたことを少し変えた。
「……きっと、打ち明け話をするってことに慣れてなかったんだろ。気恥ずかしかったんだよ」
その答えを聞いて、ナオは納得したように笑った。
「そっか、そうですね」
そして、エドゥアルトが目録を作っているテーブルに、そこにある登録し終えた本を取りに小走りに駆けていった。
「……」
――本にとって、その作者は親のようなものだろう。
生まれてから長い年月がたっているというのに「作者に会いたい」と思うのは、いい年して親に会いたい、という甘えた思いのように取られるのではないか。多分予言書が言い澱んだのはそういうことだったのだと、かつみは思う。
そうだと、別に言っても問題はなかったかもしれない。
だが、家族を、親を知らないナオに、そのような話をするのをためらう心が急に湧いて、とっさに言葉を変えたのだった。
気が付くと、積まれた本の影からノーンがかつみを見ている。
「何だよ」
にやりと笑っているノーンは、かつみが言おうとしてやめたことを解っているという風情だった。
「お前も片付けを手伝えよ。いつまでも本読んでないで」
「どうした? 何だか言い方が怖いぞ」
「うるさい、ちゃんと働けよ本の虫! ていうか、本当にお前憑かれてないか?」
エドゥアルトの言葉ではないが、ノーンの読書欲は本当にずっと本の虫に取り憑かれているようなものだ。ナオの前で言葉を取り替えた時の心を読んだ様子が何となくカチンときたのもあって、かつみは、傍に立てかけてあったナオの虫取り網をノーンに振り下ろした。
「わっ! 何をするかつみ!」
「本の虫を捕まえるんだっ」
「……だいぶ目録作り進んだんですねぇ。クラヴァートさんも喜んでくれますね」
「本にとっても、来館者にとってもいい環境づくりに繋がってくれると嬉しいけどね」
「きっと繋がりますよ!」
などと言いながら、目録や書物を抱えてナオとエドゥアルトがカートのところまで戻ってくると、かつみが虫取り網でノーンを掬い上げて何やら言い合いをしているのが見えた。
「……何でしょうね?」
「さぁ……?」
鏡を覗いてしまって衝撃からほとんど反射的に現実世界に戻ってしまったセレンフィリティだが、セレアナが戻ってみると、部屋のベッドの中でひきつった顔で膝を抱えてがたがた震えていた。
「一体……何を見たの? セレン」
訊いても、震えるばかりで答えない。
セレアナが寄り添い、背を撫でさすったりしながら時間をかけて宥めてやっていると、ようやく気持ちが落ち着いてきて、話ができるようになってきた。
のだが。
「……見た瞬間、凄い衝撃を受けたことだけは覚えてるんだけど……
何を見たのかは、頭の中からすぽっと抜け落ちちゃって……覚えてない」
どれだけ訊いても、思い出せない、記憶が消えた、の一点張りだった。
鏡に映る『一番見たくない己の姿』。
それは、「自我意識が無意識に自覚することを避ける」というくらいの、“禁断の己の深淵”とでもいうべき姿である。
たとえ真正面から突きつけられても、もがくようにその認識を最後まで避けようとするというその姿は、それでも見てしまった場合、無意識によって『記憶する』ことが拒まれる。記憶に留めておけば自我意識が傷つきかねないということで、防衛本能がそうさせるのだ。
だからセレンフィリティが「忘れた」と言っているのは無理からぬことであった。
そうと詳しく分かったわけではないが、どうやら本当に彼女は思い出せないらしいと察したセレアナは、それが一番いいことなのだろうという真理にもまた何となくではあるが突き当たった。何を見たのか知りたい気持ちは消えたわけではなかったが、もう聞き出すことはやめて、ただ彼女に無言で寄り添った。
そうしているうちに、セレンフィリティの中からは衝撃の余韻のぼんやりした驚きも消えていき、最愛の人の温もりに包まれて穏やかな安らぎの表情を取り戻していったのだった。
司書クラヴァートは、契約者たちを前に、しみじみと噛みしめるように言った。
「今回のことでは、いろいろ考えさせられました。
悪意のある利用者だけでなく、その書にゆかりのあった人間たち……
彼らが訪れるということも、当然考えておくべきでしたね。
そして……蔵書たちの思いも……」
「今はこの【非実存の境】の住人である蔵書も、元は現実世界の存在……
現実世界では消失した存在でも、そこにあった繋がりまでは消えていないのですね。
だからこそ、現実世界からこの図書館を訪れてくれる人もいる」
「そのことを忘れずに、この図書館を今以上に発展させていきたいと思います。
これからも、思いもかけない事件や問題は起こるかもしれませんが――
そのたび、一つずつ乗り越えていきます」
「本と人、両方にとってより良い環境を築くために――」
参加してくださいました皆様、お疲れ様でした。
結果的に、虫干しパートと不審者探しパートが微妙にリンクしたりクロスしてたりしますね。(そうでもないかな?)
アレクサンドリア夢幻図書館もだいぶ(問題は抱えつつも)発展してきました。蒼空も終了間近ですが、今後もこんな感じで少しずつこの図書館は整備され、少しずつ発展していくでしょう。皆様のご協力が着実に力となっています。そんな図書館の姿をお伝えできました。本当に感謝いたします。
感謝の称号を皆様にお贈りいたします。ご笑納ください。
次回が私の最後のマスターシナリオとなります。
最後に相応し……いとはあまり思えないちょっとおバカなスラップスティックシナリオになるかと思われます。
そこでまたお会いできれば幸いに存じます。ありがとうございました。