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リアクション
埃っぽい復員兵の軍帽を目深にかぶる。闇市で買ったものだ。加えてやはり闇市入手のボロ布のような軍服を羽織ると、あっという間に引き揚げ者の一丁上がりである。この場所ではごくありふれた扮装であった。
しかし服装だけこの場所の一員になっても、この場所の、チリチリと火で炙られるような熱気には圧倒されてしまう。
「面白いねぇ」
迷路状に入り組んだ市場を歩きながら、湊川 亮一(みなとがわ・りょういち)は茹でられたように汗をかいていた。それでも、この感想に偽りは無かった。奥に入れば入るほど熱い。だがその分、活気のほうも倍増しで、どうしても詳しく見てみたくなる。
「亮一さん……」
地味目な衣装を着た高嶋 梓(たかしま・あずさ)は落ち着かないらしく、亮一に腕を絡めて放さない。
「どうかしたか?」
「いえ、特に……」
「怖いのか?」
「そんなことはありません」
亮一さんが一緒だから、と付け足す梓の小声をあえて聞かない振りをして、
「石原校長……いや、今はまだ『愚連隊のリーダー、石原』か。まずはどうにかして、彼と接触を持たないとな」
歴史の書き換えを阻むべくこの時代に飛んだ亮一と梓だったが、正直、徒手空拳というのが実情だ。肥満との接触を図ろうにも、どうやって彼を捜せばいいのかわからない。もちろん当時の石原が亮一を知るはずもないので、仮に会えたとしてどうやって助力を申し出たらいいのかも不明だ。
だがそれほど亮一は不安に思ってはいなかった。
どうにかなるだろ、楽観的にそう考えている。終戦直後の混沌が吹き荒れる渋谷の街は、たしかに貧しく荒廃しているとはいえ、新しい時代への希望と好機に満ちた場所でもあった。そんなこの場所に数時間揉まれたせいか、悩むよりまず、行動してみようという気になるのだ。
それに――これを梓に言っても理解してもらえるかは判らないが――軍人の家系に育った亮一にとっては、闇市はまさに宝の山なのだった。なにしろ、日本軍、連合国軍、それぞれの『お宝』が実に無造作に横流しされ、あるいは払い下げられて売られているのである。レプリカじゃない、正真正銘の本物なのだ。ライターひとつ、腕時計ひとつとっても、亮一のような軍製品ファンには宋朝の陶磁器なみの骨董品だ。とりわけ戦車の計器など、思わず気が遠くなるほど欲しいアイテムもあった。
それにしても悔やまれるのは手持ち資金のなさである。いや、彼もこの状況を勘案して米ドル札を軍資金として仕込んできていた。しかし亮一が使おうとした矢先、
「待って下さい。発行年月日が問題になるのでは……?」
梓が気づいて指摘したのだ。
この時代であれば信頼の失墜しきった『円』よりも、米ドル札のほうが圧倒的に力を持つ。2022年の貨幣価値では子どもの小遣い程度のドルであっても、1946年のしかも敗戦国であればお大尽だ。そう読んでドルを用意してきた。そこまでは良かったものの、確かに梓の言うようにドル札そのものが2022年版では偽札である。基本デザインが変わっていない1ドル札であっても、手触りや受ける印象は異なっているだろう。こればかりはどうしようもない。
手持ちの食料を売るなどして変装用の衣装こそ手に入れたものの、それ以上の品には手が出せなかった。
「お宝を目の前にして……」
指でもくわえたくなる心境を、思わず亮一は吐露していた。
本物の軍装備、本物の機械類、もう太平洋戦争が終わった人々には不用品、その太平洋戦争を知らぬ彼には貴重品、そんな需要と供給のバランスは取れているはずなのに、媒介するものがないというのはなんとも皮肉だ。
なかでもどうしても気になる逸品があった。
零戦の光学照準器。正しくは九八式射爆照準器と呼ばれる器械である。
ガラクタ屋に鍋釜や鉄屑と一緒に陳列されているのが物悲しくあるも、その機能美はいささかも損なわれてはいない。黒く、ずっしりと置かれていた。
これは零戦のごく一部だ。しかし当時最高の技術で作られた至高の芸術品だ。
オレンジ色の遮光フィルタは、ネオファン・ガラスという太陽光を防護する特別のものが用いられており、恐らく実戦には使われなかったのだろう、今すぐでも現役装備できそうなほどぴかぴかだ。光像目盛を映す反射ガラスにしてもそれは同様で、手に触れずともその表面が、実に丁寧に研磨されているのがわかる。丸に十字の予備照門にしたって、ひやりとするほど正確に組まれていた。
任務さえなければ、いつまでも眺めていたいくらいだ……とため息ついた亮一に、
「そいつが欲しいのか」
低い声が投げかけられた。
「欲しいのか、と訊いた」
もう一度繰り返したのは、この時代の日本人としては随分と彫りの深い顔立ちの男だった。髪は闇夜のように黒く、もじゃもじゃとした剛毛だが、骨格のいいその顔立ちによく似合っている。腕も首も太く、鍛え上げたであろう肉体は、山から切り出した巌のようだ。開襟シャツの下からも厚い胸板がうかがえる。二十歳はとうに超えているようだが、まだ三十歳ではないだろう。
一瞬、自分と同じ2022年の契約者かと亮一は思ったが、見覚えのない人物であるということもあって問いかけを控えた。
その沈黙を質問と読んだか、男は言った。
「この露店を手伝ってる者だ。その標準器、それなりに値は張るが、あんたの提供してくれるものによっては、ぐっと勉強した値段で提供できなくもない」
このとき本能的に、梓は亮一の背に身を隠した。亮一も腕で梓をかばうような仕草を取る。
黒髪の男は即座に言った。
「……いま、あんたが危惧したような提案をする下衆野郎がいたら迷わず殴り倒している」
吐き捨てるような口調だが彼の目には、誤解を与えたことを詫びる気持ちと、言葉に嘘がない証左である高潔な色があった。下衆は殴り倒す、という言葉も真実で恐らく何度もそういうことはあったと思われた。
信じていい。直感的に亮一は悟った。信じられる男の目だ。
「悪かった。俺は湊川亮一、兵隊だったこともある。最近渋谷に流れてきた」
この時代の人間にしては血色が良すぎるかもしれないが……と思いながらも、嘘は言っていないと自分に言いきかせる。梓も口を開いた。
「高嶋梓、看護師……看護婦だった者です。この技術を活かせる仕事を探しています」
「独逸系か?」
梓の顔立ちと瞳の色を見て男は言うも、なに、俺も異国の血は流れている、と簡単に言った。
「天地・R・蔵人(あまじあーる・くらひと)だ。俺が欲しいのは情報、それも、ある人についての消息だ」
そのとき、蔵人と亮一の間に、一人の老人が割り込んできた。
小柄で背の曲がった老人で、まっ白な髪を仙人のように長く伸ばしている。そしてブツブツと、ずっと独り言を呟いていた。といってもその独り言は言葉と言うよりは数式で、何かの計算式のようだ。
亮一も梓も無視して、仙人のような老人はガラクタの山に目を凝らしている。
「ああ、ちょっと待ってくれ。狩々(カリガリ)博士だ」
なんとも不躾な老人だが、蔵人はそう亮一に断ったのである。
「カリガリ……?」
「そう、昔の映画から取ったあだ名だな。本名は狩屋だとかなんとか……うちのお得意さんさ」
蔵人は狩々博士の近くに行くと、あれこれ説明してなにか古びた機械を手渡した。
老人は代金を払うと、満足そうに機械を抱きかかえて帰って行く。
「あの老人、機械を集める趣味でもあるのか?」
「いや、自分で作っているんだ。本人いわく、軍の研究らしい」
それはともかく、と、蔵人は話を戻した。
「この人物に見覚えはないか」
蔵人は懐から一枚の白黒写真を撮りだしたのである。
剽悍そうな日本人が映っている。どことなく、蔵人に似ていた。
「俺の親父だ。生き別れになり、探している。満州にいたというところまでは追えた。満州時代の親父を知る男からも話を聞くことができた。だが日本に戻ってからの行方が掴めない。湊川さん、あんた各地を流れてきたようだが、親父を見たことがないか?」
「残念だが……」
そうか、と言う蔵人の表情は沈んでいた。亮一なら知っているかもしれない、という漠然とした期待があったのだろうか。
「悪いがそろそろ店仕舞いだ」
まだ陽も高いというのにテーブルの上のガラクタをまとめると、照準器も含めてそっくり、風呂敷で蔵人はこれをくるんでしまった。
「こうして知り合ったのも何かの縁だ。石原さん、何か困ったことがあったら中目黒のボクシングジムに来なよ。『石原拳闘倶楽部』って名前さ。ここいらの喧嘩屋なら大抵知ってる」
「石原!?」
亮一は思わず問い返した。
「ああ、石原肥満の名は聞いたことがあるのか。あいつがやってんだよ。風聞はどうあれ、名目は不良少年の更生のための施設さ。俺もそこを手伝っているもんでね」
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