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リアクション
●7
歩いていくらかは温かくなった、はずだ。しかしそんなの気のせいではなかろうか。身を切るような寒さはあいかわらずだし、凍えて顔が突っ張る感覚も消えなかった。吐く息ですら氷となって、地面に落ちて砕けるように思えた。
「うぅー、こんな寒い中、わざわざ行動しなくてもいいのにね」
水心子 緋雨(すいしんし・ひさめ)は自分の両肩を抱くような仕草をして擦った。厚い手袋がざらざらと、肩の霜を落としていく。
「つべこべいうでない」天津 麻羅(あまつ・まら)は騎馬がわりの白虎から降りると、「ほれ、ペンギンでも抱えておけ」と、二人の同行者たるパラミタペンギンを持ちあげて緋雨に押しつけた。故郷なみの寒さが気に入っているらしく、今日のペンギンはずっとご機嫌だ。まあ、たしかに温かいではある。少々魚臭いが。
「さて、そろそろ緋雨よ、次に進むべき方向を決めよ」
「決めよ、って……ほんとにそれでいいの?」
「緋雨のせっかくの才能が活かしてやろうというのじゃ。もっと堂々とせい」
「才能、ねぇ……」
ザナ・ビアンカを見たい、という麻羅の希望を容れ、緋雨はこの地に来たのであった。といっても相手は伝説の獣、普通に探しても見つかるまいとして、麻羅はひとつの奇策を提案した。奇策、題して『緋雨の方向音痴に頼って偶然遭える奇跡を願おう』作戦だ。
「せっかくの天才的な方向音痴、迷子覚悟で舵を取らせれば、通常の道をたどっていては見つけられぬものを見つけられるやもしれん」
などと科学的根拠に乏しいことをいう麻羅だが、さすがにそれには、一言反論しておきたい緋雨である。
「だから、私は方向音痴じゃなくて、ただちょっと地図と見比べて、目指す方向に歩き出すのがほんの少し苦手なだけなの!」
「その性質を短くまとめた言葉が『方向音痴』じゃろうが……と、言っても詮無きことじゃな。まあ自覚がないのが天才のしるしと言えないこともないからの。常識に従っているばかりでは、常識外れの存在には遭えぬよ」
「非常識に頼るしかないって考え方がそもそも、間違ってると思うんだけど!」
二人の(相変わらずの)言い争いは、ここで冷水でもかけられたように中断を余儀なくされた。
麻羅を乗せていた白虎が急変した。白虎は四肢を踏ん張り、牙を剥き出しにして威嚇の唸りを発しているが、怯えているのは一目瞭然だった。その意味はまもなく明らかになった。雪の中巨大な狼が一頭、身を低くして走ってくるのが見えたのだ。
「え……! あれ、なに!? 狼!? にしても大きすぎない!? 二階建ての建物くらいあるよ!」
と騒ぐ緋雨を、じたばたするな、とたしなめて麻羅は満足そうに告げた。
「銀色の毛、長い尾、赤い眼か……たしかに獣じゃが、高雅な雰囲気も感じるのう」
間違いない。あれがザナ・ビアンカじゃろう、と麻羅は言う。
「で、でもこっちに迫ってくるよ」
どうしよう、緋雨は問うた。戦うべきだろうか、しかしあれだけの巨獣を相手にするのは……。一方で麻羅はまるで動ぜず、
「なに、害意がないとわかれば、無闇に襲ってくるものではあるまい」
と、その場にとどまることを選んだ。白虎を撫でつつ、麻羅は緋雨の袖を引いた。
「あれぞヒラニプラの化身じゃ。迎えようぞ」
ザナ・ビアンカは、二人を無視するようにその脇を駆け抜けていった。物凄い風、それに蹴立てられた雪が二人を襲った。しかし不思議なことに、獣の通り抜けた後に足跡はなかった。
「通りで記憶術が効かないはずだわ」と緋雨は舌を巻きつつ、麻羅に続いて獣の後を追った。
ザナ・ビアンカが向かう先には、独りの壮士(そうし)の姿があった。
「しかし昔からの伝説って事は、あるいはいるかもしれねぇんだよな」
伝説を信じて山に入った彼は、誰が呼んだか双つ名は『獣』、勇ましきラルク・クローディス(らるく・くろーでぃす)。
ラルクは来たのだ。強者を求めて。ラルクは欲したのだ。伝説と拳を交えることを。
山に入り、どれだけ惑ったかわからなかった。脅威の大自然は何度もラルクを生死の狭間に追い込んだ。
しかし、今、彼の艱難辛苦の記憶は消し飛んだ。
「伝説は……実在したのか!」
ラルクの顔に会心の笑みが浮かんだ。風を切り駆けてくるあの巨大な狼こそ、ザナ・ビアンカに違いない。なんと美しい姿だろう。その美しさは、その恐ろしさと半々だった。されど彼は動じなかった。
「天に向かって唾するのも、大自然に裸一貫で挑むのも同じ、ってな! 馬鹿なことはやれるうちにやるぜ!」
ラルクは上着を脱ぎ捨てた。防寒着など、戦いには邪魔なだけだ。シャツ一枚になったがこれも、勢い良く破り捨てていた。残酷なまでの寒さが体を突き刺すが、待ち受ける戦闘への昂奮で、寒さなど感じている暇はなかった。
「強いやつと勝負したい、ただそれだけが俺の望みだ。殺す気はねぇ……ま、こっちも死ぬつもりはねぇけどな」
ラルクはブーツの先で雪を蹴り上げた。ばっと白い飛沫が舞う、これを見てやや速度を落とした狼目がけ、渾身の正拳を叩き込んだ。
「すまねぇな。俺のワガママに付き合ってもらうぜ!」
最初の一撃は、狼の鼻面を見事に捕らえた。殴った自分の腕が砕けそうなほど、強烈な感触をラルクは得てニヤリとした。
しかし次の瞬間には、それ以上の打撃を狼の前脚は彼に与えていた。ラルクは宙に舞った。たった一撃で骨が砕けたのが判った。雪に沈むと、口から漏れた血が赤い染みを作っていた。
「雪がクッションになってくれる。これなら……!」
ラルクは再び、全力で巨獣に挑みかかった。
どれだけの時間が過ぎただろうか。ラルクの体感時間なら数時間に匹敵もしようが、実際は数分といったところだろう。
ラルクは敗北し、雪のベッドに背中から倒れ込んでいた。激痛で指先一本すら動かせそうもない。
霞んだ彼の目が、ザナ・ビアンカの目と合った。獣は彼を覗き込んでいたのだ。
「胸を借りるような格好になっちまったな……。これで食われても文句は言わねぇ……」
これだけ言うのが精一杯だった。あらゆる力がいちどきに抜け、ラルクは気を失った。
ザナ・ビアンカは人間にとどめを刺すことをせず、彼が二度と立ち上がらないのを確認すると、鋭い眼を村の方角に向けた。
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