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リアクション
●12
ピンを突き刺された昆虫標本のよう。長い時間とどめられずとも、この瞬間、クシーの動きは完全に拘束された。
「止まった!?」
気づいてオミクロンも足を止めた。
その眼前、まるで空から降ってきたように、朝斗が姿を見せ着地した。
「どけ、朝斗!」
「駄目だ。できないよ」
「どかないか! 今ならクシーを討てるというのに!」
「それが駄目だと言っているんだ!」朝斗の大喝は瞬時、かのオミクロンすら黙らせるほどの迫力があった。
オミクロンは言葉を選ぶようにして言った。
「なぜ邪魔をする。やつは貴様らにとっても敵だぞ!」
「理由なんてない。ただ……大切な者を目の前で失っていくのはあの時の僕で十分だ!」クロネコ通りで見た過去の記憶は、朝斗の心にとりついて離れなかった。あたかも、錆びかけた刃物で得た古傷のように。「これ以上僕の……『僕たち』の思いをさせたくない!」
「お願い、聞いて下さい」ルシェンはオミクロンの手を取った。「朝斗は昔戦災で家族を失ってるんです。だからこそでしょうね……学校や国の為ではなく、誰かの為に動くのは……」
私も朝斗に救われた一人ですけどね、と小声で述べるとルシェンは改めて声を強めた。
「オミクロン、これだけは言っておきます。彼女を救いたいという気持ちは、ここにいる皆、同じなんですよ」
「そうか、お前たちは、知らないのだな」このときオミクロンが見せた哀しげな表情を、きっと朝斗は忘れられないだろう。「手遅れなんだよ、もう」
「どういうことか教えて。澪」
ローザマリアがオミクロンの背後を取っていた。まさしく影のように静かに、それでいて着実に。
「言った通りの意味さ。ローザマリア、それに朝斗、まさかお前たち、あの蜘蛛の胴の中にクシーの本体が埋められているなんて思っているのではないだろうな……?」
朝露のようにすっと一条、オミクロンの頬を涙が伝った。
「止まった! クシーの動きが止まったよ!」
リーズ・ディライドは身を起こし、雪と血と泥に汚れた顔をごしごしと擦って視界だけでも確保すると、クシーの脚を駆け上っていった。李ナタが切断した蜘蛛脚の痕跡に手をかけ、よじ登る。「陣も早く!」
「急げ! 小僧、躊躇するな」
仲瀬磁楠が先に蜘蛛への登頂を終えた。彼は振り返り手を差し出した。掴まれ、というのだろう。いくらクシー本体が停止しているとはいえ他の蜘蛛機械は健在、しかも絶え間なく爆発も起こっている状況では非常に危険な行為だった。無防備の背中をさらすことになるのだから。
七枷陣は迷わず彼の手を取った。
同一人物だからだろうか、磁楠はその瞬間、魂が震えるというような、共鳴し合うものを感じた。彼は唐突に悟ったのだ。
(「そうか……私は自分が、この小僧の未来だということばかり気にしていた。しかし、こいつは……若い頃の『七枷陣』は、私にとっての理想でもあるのだな……」)
鼓膜を突き破るような破裂音が彼らの背後で鳴った。局地的だが激しい爆発が起こったのだ。熱風が激しく足場を揺らした。
「急げと言ったろ小僧、左手も使え!」
「言われなくてもわかっとるわっ!」
憎まれ口を叩きながらも、陣は不敵な笑みを浮かべて蜘蛛の背中に上がった。すでに彼もボロボロだ。コートはほうぼうが裂け、すりむいた膝、蜘蛛の爪が掠った腕から出血していた。これだけ寒いのに、たえまなく汗も流していた。
「私は他の蜘蛛を遠ざける。陣はクシーが埋まってる地点へ行け」
白い息とともに磁楠に頷くと陣は駆け出した。途上リーズを拾い、やはり登ってきた真奈と合流した。そして彼は、ついに磁楠が『陣』と呼びかけたことに気づかなかった。
(「私の力が欲しければくれてやる」)矢をつがえながら磁楠は思った。(「届かぬ想いを送ったあの日の慟哭を乗り越え、今度こそ救ってみせろ、小僧……!」)
脚と動きを封じられながらも、まだクシーの首は動いた。彼女は口をカッと開けて大笑した。
「アハハハハ、もっと近寄ってキナよボーイ、目玉食いちぎってヤル! R U OK?」
陣は躊躇しなかった。大股に駆け寄ると、がっ、とクシーの頭を掴み自分の顔を見せたのだった。
「……てめぇが知るわけもねぇけどな、オレはファイスに約束したんや! 目の届く範囲にいるクランジたちを助けて、人並みの幸せを持たせるって! お前らにしたらええ迷惑やろうな!」
「くっ、ク、Crazy……!」
「クレイジー上等や! 知るかボケ!」
一瞬、陣の脳裏に、死へ向かって走り出したファイス(クランジΦ)の背が浮かんだ。それが彼の見た、最後の彼女の姿だった。
陣が握った指の間から、洗っていないクシーの髪が雑草のように顔を出していた。陣は力任せにその首を左右にガタガタと揺らした。
「お前らの意見なんて聞かんし聞く必要ないし聞く気すらない! 黙って! オレらに助けられてろ! D U(Do You) Understand!?」
クシーは完全に気を呑まれ、「グ……ギ……」と二三言つぶやくにとどまった。
すぐそばでリーズが剣を振るっている。
「ボクはまだ、納得しきれてない部分がある……」
上部の装甲を剥がし、クシーの体を取り出そうとしているのだ。
「ボクは、クシーのことは……まだキライだよ。でも、ボクだって乗り越えたいから、もうこれ以上嫌な思いはしたくないから、だから!」
継ぎ目を発見し、そこに剣を叩きつけた。
「キライだけど、それでも君を助けたいって思って……何が悪いんだよ!」
湾曲した装甲の穴に、真奈がハウンドドックRの尖端を押し込み、サバイバルナイフ部分で多少こじ開け銃弾を立て続けに撃ち込んだ。そしてついに装甲板は、強固なかさぶたのように剥がれたのだった。
「さあ諦めてそっから出ろ、クシー。おしおきは出てからや。おしおきの内容はそうだな、一般常識を叩き込むとか……」
「一般常識を学ぶべきなのは陣くんのほうだと思うけど」リーズがすかさずつっこむ。
「なにー」
二人のやりとりが明るくなったのは、クシーを取り出せる可能性が出てきたからだ。
しかしそれもわずかなことだった。手早く調査して真奈は首を振った。
「駄目です。……彼女は、『彼女』と言えるのは首だけしかありません……」
人間としての姿をとどめているのは、クシーの首のみにすぎなかった。クシーは蜘蛛に連結されていたのではなかった。今や『蜘蛛』こそが彼女の『体』だったのだ。
途端、クランジの首は火がついたように笑い出した。
破裂音が鳴り渡る。クシーを縛っていたものが限界に達しはじめたのだ。
蜘蛛の脚はふたたび動き出そうとしていた。
冷たい風がクレア・シュミットの頬を、噛むようにして撫でていた。黒目がちの瞳を何度かしばたき、眼についた雪をクレアは落とした。
「ハンス、私を冷酷だと思うか」
握った矢を手渡し、彼女は問うた。
「いいえ」受け取ってハンス・ティーレマンは応えた。「国軍の軍人として、クシーの生命より村の安全を考えるのはけだし当然かと」
「『制服組』だからな」村人による教導団の呼称を、クレアは冷笑気味に口にした。「我々は優先順位をつけねばならない。そして、その順位に従わなければならない」
もう言い訳はするまい。これで汚名が発生するのなら、甘んじてそれを受けよう。
「まともにぶつかれば面倒な相手だろうが……今ならば」クレア・シュミット大尉は命令を下した。「ハンス・ティーレマン、クシーの首を射落とせ」
「はっ」
ハンスは対イコン用爆弾弓を引いた。一呼吸後にこれを放った。
矢は真っ直ぐに飛んで、高笑いするクシーの首を、七枷陣の前で射落とした。
空を舞う首はまだ笑っていたが、やや遅れて矢の尖端が爆発すると、真っ赤な炎に呑み込まれた。