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あなたが綴る物語

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あなたが綴る物語
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●近世ヨーロッパ 2

 くすくすと、鈴のような声で笑う。
「そんなに笑わないで!」
 終夏は公園で同じベンチに腰掛けた蓮見 朱里(はすみ・しゅり)に向かい抗議したが、朱里の笑い声は止まらない。
「もう!」
「ごめん。ごめんね。でも、なんだかおかしくて」
 腕組みをして、いかにも気を損ねているという姿の終夏に、朱里は殊勝にも両手を合わせて謝った。
「それで終夏は腹を立ててるわけだ」
「当然でしょ! あの不埒者! に、2度もひとの唇を奪って、しかも――」
 そこではた、と言葉を切った。
 キスの間じゅう、体をくまなく探られたことは口にしない方がいいかもしれない。
 口にはしなかったものの、終夏はそのときのことを思い出して――ついでにその手に掻き立てられた自分の情熱までよみがえって――赤面してしまう。
 全然いやじゃなかった。それが問題なのだ。自分が好きなのは社なのに、これじゃあまるで……。
(って、私、社さんのこと好きなの?)
「どうかした? 顔が真っ赤だよ? まだそんなに怒ってるの?」
「お、怒ってるよ! もちろん!」
 と、いうことにしておくことが無難に思えたので、終夏はそれ以上考えるのをやめた。
 でなくても、恥ずかしさのあまり今にも頭が蒸発してなくなってしまいそうだった。
「それで、朱里は? もうこっちに慣れた?」
「え? うん」
 突然話を振られてとまどったものの、朱里はうなずいた。
 朱里はもともと田舎育ちで、都会へ出てきたのは育ての親の老夫婦が亡くなって、働き口を求めてだった。老夫婦がもしものときを考えて用意してくれていた紹介状と、使い古してすり切れた荷物の入った小さなカバンを持って、身ひとつでこの街へ来た。
 終夏と出会ったのもそのころだ。お遣いを頼まれたものの、都会の道の複雑さに迷ってしまった彼女を終夏が助けたのだ。
 それは、ちょうど終夏もこの街で探偵事務所を開いて間もないころだった。そのことを共通の縁として2人は交流を持つようになり、こんなふうに休憩やお遣いを頼まれたときなどちょっとした空き時間を使って会ってはお互いの近況を交換したりしている。
「どうにかってとこかな。勝手が違って、まだちょっととまどうこともあるけど。道もずい分覚えたし」
「そっか。最初ひとの多さにびっくりしてたろ? 田舎と都会じゃ大分違うし、もしかしてこっちになじむのに苦労してるんじゃないかと思ってたんだ」
「そんなの考えてる暇もないよ。毎日先輩たちに言われたことをこなすだけで精一杯。あっという間に夜がきて、ベッドに入ったらもう朝がくるの」
 肩をすくめてのどこかおどけたようなもの言いに、終夏はくすっと笑う。
「朱里はへこたれないな。まあ、当然かな。こっちで絶対見つけたい人がいるって言ってたもんね」
「う、うん…」
 今度は朱里がほおを赤らめる番だった。
 どこか気まずそうに視線をそらしたが、ちょうど前に向き直っていた終夏にそのことに気付いた様子はなかった。
「分かった。
 もし先輩たちにいじめられたり、何かあったりしたら、絶対話してね。私は朱里の味方だから!」
「うん。ありがとう、終夏」
 そして朱里は「そろそろ戻らないと」とことわって、終夏と別れた。



 行き交う人々や馬車でごった返す雑踏のなか、家へと通じる石畳を足速に歩きながら、朱里はもしかして終夏に気付かれたんじゃないかと先の公園でのやりとりを反すうしていた。
(ううん、大丈夫。きっと気付かれてない……終夏にも何か、気をとられることがあったみたいだから)
 何度も何度も繰り返したのちそう結論して、ほっと胸をなで下ろす。
 ここに来て初めてできた、唯一の友達終夏。忌憚なく話せる相手だけれど、その彼女にさえ言えないことがあった。
 彼女を信頼していないわけじゃないけれど…。
「朱里!」
 玄関をくぐった瞬間、突然厳しい声で名を呼ばれて、朱里はびくっと肩を揺らす。聞き覚えのある声。少し身構えつつ振り向くと、案の定、そこには手を腰にあて、肩を怒らせたメイドのマリサがいた。
 朱里はこのマリサが苦手だった。何かにつけてつっかかってくる中にはかなり言いがかりもあって、言い返したくてたまらなくなるのだ。しかし朱里はまだこの家に上がって数カ月の新人メイドで一番の下っ端。だれにも口答えは許されない。
「何でしょうか、マリサさん」
「あなた、上の掃除もせずにどこへ消えてたのよ! もう午後だというのに! 終わってないのはあなたの担当の部屋だけよ! まさかわたしたちにさせようっていうんじゃないでしょうね!」
「すみません。そちらはこれから――」
「午後には午後の割り当てがあるでしょ! 自分はサボって先輩のわたしたちに押しつけようなんて考えてるんじゃないでしょうね」
「そんなこと――」
「あなた、ご主人さまの旧友からの紹介状持ちだからって調子に乗りすぎじゃない? 新人のくせに生意気なのよ! 大体ね――」
「朱里、帰ったのか」
 マリサの言葉をふさいで、そのとき階上から声がかかった。
 この家の次男のアイン・ブラウ(あいん・ぶらう)が手すりに手をかけ、下のホールを覗き込んでいる。
「ちょうどよかった。カフスを探すのを手伝ってくれないか。見当たらないんだ」
「は、はい」
「急いでくれ。すぐに出ないと遅刻してしまう」
「分かりました。
 あの、マリサさん、これで失礼させていただきます。アインさまのご用がすみ次第、掃除にはとりかからせていただきますので」
 頭を下げ、マリサに見えないところでほっと息を吐く。階段へ向かった朱里とすれ違いざま、マリサは言った。
「今にみてなさい。あなたなんか、お嬢さまがきたら追い出してもらうんだから…!」
 その言葉よりも、言葉に含まれた敵意に、朱里は振り返らずにいられなかった。



 探す必要もなく、カフスはすぐに見つかった。銀のくもり取りをしたあと片した場所に、そのまま収まっていたのだ。
 それを見ても朱里は何も言わなかった。ただ箱から取り出して、静かに引き出しを閉めると振り返ってそれらを見せた。
「ありました」
「ありがとう。とめてくれないか」
 持ち上げられた手の下にそっと手を添えて、のりのきいた白いシャツのそでへサファイアのカフスをとめる。
「大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
「気にしなくていい。彼女はだれにでもああなんだ。きみ以外のひともいやな思いをしているようだ。だけどコービット男爵の紹介状があってはそう無碍にあしらうこともできなくてね…」
 その名前に、思うよりも早く指先が反応してしまった。震えを気取られただろうか? ――大丈夫。アインに触れてはいないから…。
 マリサがこちらへ来たのは、男爵の娘のテレーズとアインの婚約が決まったからだった。結婚は半年以上先だが、その前準備としてテレーズのメイドたちが送り込まれた…。
 マリサを見るたび胸にしこりのような重さを感じてしまうのは、それを思い出してしまうからかもしれない。そしてマリサも、あるいはそれを感じ取って…。
「朱里?」
「……いえ、何でもありません、アインさま。すみました」
 笑顔で朱里は一歩後ろに退いた。
 そんな彼女にアインは少し眉をひそめる。
「2人のときは「さま」はいらないと言っただろう? 昔のようにアインと呼んでいいと。きみにかしこまられると、なんだか変な気分になる」
「でも……昔は……子どもだったから…。今は、私はこちらのお屋敷のメイドで……アイン、さまは……領主のご子息で…」
「朱里」
「あっ」
 アインの腕が朱里を抱き込んだ。アインは大柄で、それと対照的に朱里は小柄だ。そのせいで本当の歳よりかなり若く見られることもある。朱里の体はすっぽりとアインの腕のなかに収まった。
「アインだ」
 うながすようにもう片方の手がほおを包み、親指が唇に触れてくる。至近距離から覗き込む瞳は、熱い期待に深みを増していて…。
「――アイン。時間がないんじゃなかったの?」
 胸を押して手をはずし、視線をそらした朱里に、アインは仕方ないというようにため息をついた。
「ああ。きみがいないときに手紙が来たんだ。クラブに呼び出しだ。早くは帰れそうにないな。だが」と、アインはさりげなく離れようとする朱里に、抱く手の力を強めてむしろ密着させる。「何時になってもきみの部屋へ行くからね。遅ければ寝ててもいいよ。眠っているきみを起こすのは、いつでも楽しい」
 そっと耳元でささやかれた言葉に、カッと朱里のほおが赤く染まる。
 そうなるのを見越していたとでも言うようなアインの笑顔を見上げて、朱里は強く思った。
 たとえ相手が終夏であっても、これは決して口にできない秘密。
 子どものころ親切にしてくれた青年が実は領主さまのご子息の1人で、しかも再会してすぐに彼の愛人になってしまっただなんて…。
「ええ、アイン。待ってるから……早く帰ってきてね」
 近付く口元にささやき、あたたかなその唇を受け止め、受け入れた。
 わずかに開いたドアから2人を見つめる冷たい視線には気づかないままに―――。



 だがその夜遅くアインが戻ったとき、部屋に朱里の姿はなかった。
「朱里?」
 こんな時刻に彼女が自室にいないなんておかしい。一体彼女に何があった!? そう思ったが、夜中にメイドが部屋にいないと騒ぎ立てるわけにもいかない。混乱し、じりじりと焦げる胸で朝が来るのを待ったアインが母から聞かされたのは、朱里を解雇したという話だった。
「カーコネル夫人からご紹介いただいた子だったけれど、お客さまの荷物から盗みを働くような手癖の悪い子ではねえ」
 ブラウ夫人は朝食をついばむ手を止め、残念そうに首を振った。



 朱里はそのころ、乗合馬車で故郷の村へ向かっていた。
 昨夜は無理を言って終夏の部屋に泊めてもらった。解雇された話をすると、終夏は怒った。
「そんなの! 朱里が盗みなんてするわけないじゃないか! ちゃんと言ってやったんだろ? 荷物になんか手も触れてないって!」
 朱里は首を振った。その客が突然アインを訪ねてやってきたテレーズで、荷物のなかからルビーのネックレスが消えていると騒ぎだしたのがマリサだと知った瞬間にからくりは読めていたのだが、朱里はひと言も言葉を返さなかった。
「きっと朱里ですわ! 部屋に入っていくのを見たんです! 実は昼間にも、アインさまのカフスがなくなるという事があったんですよ、奥さま。それをアインさまが問いただすと、朱里がたちまちカフスを持って現れたんです!」
「まあ。本当なの? 朱里」
「……はい」
 あれも見られていたのか。朱里は目を伏せ、口を閉ざし。解雇の宣言を黙って受け入れた。
 ころあいだと、自分でも分かっていたのだ。このままあのお屋敷にいてもつらくなるばかりだと。それならいっそ、幸せな思い出だけでいっぱいの今、終わらせるべきだ。
 幾度か馬車を乗り継いで、故郷の村の入り口で下りたのは日暮れが近かった。
 もうくたくたで、めまいも起きた。
「ここを出たときはそうでもなかったんだけどな…。やっぱり最近、ちょっと疲れやすくなってるみたい」
 それでもなつかしいわが家へ続く道を歩いていると、元気が吹き返した。
「おじいちゃん……おばあちゃん……ただいま」
 ドアにほおを押しつける。昔何度も嗅いだ木のにおいは彼らとすごした日々を思い起こさせる。すべてが単純で、笑ってすごせていた日々。つらいことなんかひとつもなかった。
「ごめんね、せっかく紹介してくれたのに、こんなことになって」
 なかへ入って、ちょっと休むだけだとベッドに座ってぼんやりしているうちに日が暮れた。
「あかり、つけなきゃ…」
 そうは思うものの、気力が沸かない。昨日まではアインがいたのに、これからはたった1人。そう思うだけで、じんわりと涙がにじんできた。
 昔に返りたかった。子どもだった自分。一緒に遊んでくれたやさしい王子さまに憧れて、いつかもう一度会いたいと無邪気に考えていた。彼のことを考えるだけで楽しくて、胸がいっぱいになって。ここへ来れば、またそうして幸せに生きていけると思ったのに。
「やっぱり……だめだよ、アイン。あなたがいないと、私、どうしていいか分からない…」
 やがて朱里はふらつきながら立ち上がった。



「朱里!」
 彼女はあそこに違いないと、馬をとばしてアインが駆けつけたとき。朱里は2人が出会った湖に踏み込んでいた。
「朱里! だめだ!」
 血相を変え、バシャバシャと水を蹴立てて近寄るアインの姿に、朱里の半ばぼんやりとしていた表情が一瞬で正気づく。朱里はあわててさらに湖の奥へと踏み込んだが、あっという間に追いつかれ腕をとられてしまった。
「放してアイン! 私、駄目なの! ここでなら1人でも生きていけると思った! でも、ここでもだめだった!」
「だからといって死ぬことはない!」
「お願いだから放して! もうどこにも私の居場所なんてないの!」
「死ぬくらいなら、僕と結婚してくれ!」
 アインの叫びを聞いた瞬間、朱里の体がアインの腕のなかでびくりと跳ねた。
「そんな……だめだよ……アインは…」
 そう言いながらも朱里の手はまるで命綱であるかのようにアインの服を固く握り締めている。
 驚きに大きく見開かれた目を覗き込む。そこにかすかな希望と喜び、そしてそれを感じることへのおびえを見出した瞬間、アインの心は決まった。
 さっき口から飛び出した言葉はアイン自身、驚愕に揺さぶられる思いだった。しかし真実だ。
「朱里。僕と結婚してください」
 もう一度、今度は自身への決意の意味も込めて、口にする。
 そっと手をとり、まるで貴婦人への誓いのように口づけるアインを見て、朱里のほおを涙が伝い落ちた。



「ごめんね。全て僕のせいだ。僕が決断できずにいたから」
 小屋へ戻り、ひとつ毛布で暖炉の前でくるまって暖をとりながら、アインは語った。
「仕方ないよ、アインは貴族さまだもの…」
「僕よりきみの方がつらい思いをするんだ。ひとがどううわさするか想像がつくだろう? きみは悪者にされ、この国にもいられなくなる。友人からも引き離されて…。それに比べて僕が与えられるものはあまりに少ない」
「そんなこと!」
「朱里、よく聞いて。ここから先、もう後戻りはできなくなる。だからその前に考えてほしい。僕たちが一緒になってもだれも絶対祝福してくれない。二度とここにも帰れない。もちろん僕には財産があるから、きみに生活面で不自由させることはないと思う。でもそれでは補えないものがあることを僕たちは知っているよね。それでも、僕と結婚してくれるかい?」
 アインの言いたいことは分かった。きっとさびしい思いをするだろう。つらい思いも。でも、それでも。
「あなたがずっとそばにいてくれるなら」
「一緒だよ」
 そっと口づける。触れるだけのたわむれのキスは、応え合ううちにだんだんと深みを増し、2人のなかの情熱の火種をたやすく掻き起こしていく…。
「それなら……どこへだって、ついてく。……でも、どこへ?」
「……アメリカへ」
 感触を楽しむかのように、顔に触れ、のどから胸、そしてその先へと伝い下りていく朱里の指先に頭の芯がしびれるほど熱くなったアインは、そう答えるのがやっとだった。



*            *            *



 朱里がアインと故郷の村で愛を確かめあっていたころ。ブラウ家ではちょっとした騒ぎが起きていた。
 盗まれたはずのテレーズのルビーのネックレスが荷物の底から出てきたとの知らせが入ったのだ。
「どういうことですか? マリサ。あなたの勘違いだったというの?」
「は、はい……それが……あの、テレーズさまからの手紙によると…」
 盗まれたと騒いだマリサはしどろもどろに釈明に追われる。その様子を窓ガラスに映った影で見ながら、終夏はニヤニヤが止まらなかった。
 彼女は今、闇にまぎれるようにして、ブラウ家の壁の上に腰かけている。
「ほんとはあのマリサの部屋から見つかってもよかったんだけど。多分、朱里はそんなこと望まないよね」
「ほー。あの指示はそういうわけだったのか」
 となりには怪盗キルフェが立っていた。
「いきなり盗まれたネックレス探してこいと言ったり、シンクレア家に置いてこいと言ったり。何のことかと思ったら」
「きっときみのことだから、この街で盗品の流れ着く先を知ってると思ってね。
 捕まって、警察に突き出されるよりいいでしょ」
「そりゃあまあ…」
 たしかに終夏が盗みに入った屋敷で待ち伏せしていたのには驚いたが、それはさすがにないとキルフェは思う。終夏を煙に巻いて姿を消す方法はいくらもあった。彼がそれをしなかったのは、ひとえに終夏の出した交換条件が面白そうだったからだ。そしてそれをキルフェがきちんと果たすと信じている――そう言ったら終夏は赤面して絶対に認めないだろうが――純粋さが。
 今、終夏は上機嫌だった。そんな彼女を見下ろして、まあいいか、と息を吐く。
 そしてそうなればむくむくと沸き上がってくるのが遊び心というわけで。
「にしても、終夏くん。前回といい、今回といい、私の姿を見ることができたのはキミだけだ。キミはなかなか腕が立つとみた。どうだい? 私のパートナーにならないか?」
「はあ!?」
 ちらとも考えたことのなかったキルフェの申し出に終夏はあっけにとられ、あいた口がふさがらない。
 キルフェは格好をつけるようにばさっとマントを手で払った。
「この街で探偵をしているキミならば、うすうすは勘づいているはずだ。この街にはびこる悪の多さを。たとえばあのアフロディーテクォーツ! あの屋敷の貴族があれを手に入れるために、どれだけの犠牲者が闇に消えたと思う? そんな悪の存在を、キミは許しておけるのか?
 キミに正義を求める心があるというのなら、さあこの手をとり、私とともに来たまえ!」
 差し出された手を、終夏はまじまじと見た。
「で、できるわけないだろ、そんなの」
「そうかな? キミには十分その素質があるように見えるが」
 キルフェは自信満々だ。彼にそう言われると、そんな気がしてくるのが不思議だった。きっとその手をとれば、彼は終夏を終夏の知らない世界へ連れて行ってくれる。そしてそこは多分、彼の言うとおりすばらしいに違いなかった。覗いてみたくて、手がうずうずする。
 でも。
「だめだよ、キルフェ。一緒には行けない」
 終夏の胸に社が浮かんだ。太陽のような笑顔を持つ、おおらかな青年。彼がそこにいる限り、夜の闇ではなく光の世界にいたかった。彼の笑顔を正面から見られるように。
 キルフェは手を引き戻し、腰についた。
「ふむ。それは残念。では別れる前に、今回の謝礼をいただこうか」
「え? だって警察に突き出さないって――」
「それで1つ。こっちはネックレスの捜索とシンクレア家に忍び込むことで2つだ。帳尻が合ってない」
「って――」
 言い終わるが早いか、キルフェは終夏を引き寄せ、またもその唇を奪った。
 差し込まれた舌が、応えろという。もうそのやり方をきみは知っているはずだと。
「…………っ!」
 長いキスのあと、終夏は口元を手でおおった。そうなると思っていたというようにキルフェは笑って真っ赤に染まった終夏を見る。
「キルフェ! きさま…っ!」
「いやー、ほんま、かわえーなあ終夏くんは。キスひとつでその反応っ」
「ひ、ひとがせっかく見直していたというのにっ!」
「ははっ。終夏くん、早くキスに慣れたまえ。そうしたらその先も、手とり足とり私が教えてあげよう」
 マントをひるがえし、ウインクを飛ばしてキルフェは身軽に壁から飛び降りた。着地の音も、走り去る足音も聞こえない。
 ひとの家の壁の上で、まさか大声をあげるわけにもいかず。終夏はギリギリ奥歯を噛み締めるしかなかった。
「……くそ。キルフェのやつめ! 絶対、絶対絶対絶対、この手で捕まえてみせる!!」
 帰宅後、終夏は壁をたたきながらあらためて決意を燃やしたという――――。