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あなたが綴る物語

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あなたが綴る物語
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●中世ヨーロッパ 7

 かすかに覚えているのは、真っ暗闇のなか、あちこちで上がる混乱の悲鳴。背中に何かがぶつかって、まっさかさまに落ちる自分に向かって伸ばされた手――――

 ごしごしとタワシか何かで腕をこすられるような痛みを感じて、ぱちっとは目を覚ました。
「いったーーーい!!」
 夢中で手に触れていた何かを突き飛ばす。突き飛ばされた相手はよろめいたものの、手をついて、倒れるまではいかなかった。
「気がつかれたんですね、よかった」
 心底からホッとした表情でラデル・アルタヴィスタ(らでる・あるたう゛ぃすた)は喜んだが、光の方はそれどころじゃなかった。
 こすられていたのは手だけでなく足も腹も脇も、とにかくあちこちで、赤くなったそこがズキズキヒリヒリ痛む。手でこすって痛みを緩和しながら、はたと気付いた。
「私……はだか…」
「あっ!」
 彼女の目覚めを喜んでいたのもつかの間、ラデルの顔が笑顔のまま凍りつく。
「え、えーと……それはですね。あの、あなたは船の事故で極寒の海に放り出されて、それで――」
「まあ。ではあなたが助けてくださったんですね」
 叱責と暴力を覚悟していたラデルは、その言葉に「あれ?」と内心首を傾げる。傍若無人の乱暴者、ドレスより男物の服を好み、刺繍より狩りを得意とする男まさりの光らしくない反応だ。そういやさっき「私」とか言ってなかったか?
 あせるラデルをよそに、光は感謝の眼差しで彼を見て、こう言った。
「何をそんなにあわてていらっしゃるの? 私、怒ったりしませんわ。だって私たち、夫婦じゃありませんか」
 ――はあ?



「そうか! 奥さんは無事目を覚ましたか! よかったよかった」
 翌朝、安否を気にして様子を見に来てくれた村の男はそう言ってラデルの腕をばんばんたたいた。
「……はい。ありがとうございます」
 男は笑顔で両手で持っていた盆を差し出す。そこには2人分の食事が乗っていた。
「けんど無理は禁物じゃ。今の時期、海は相当冷たいからの。凍死しててもおかしゅうなかったんじゃ。たんとうまいもん食べさせて、精ばつけさせんと」
「はあ…。それで、あの、もう1人――」
「おお、そうじゃ」と男は何かに気付いたふうにラデルの言葉をさえぎった。「だれかに使いを出さんといかんのじゃないか? おまえさんらを心配しとる者もおるじゃろーし」
「えっ? いえっ、だれもいません!」
 とっさにラデルはそう答えていた。
「なんでじゃ? 親御さんはおらんのか?」
「……実は、僕たちは……かけおちをしたんです…。僕は……捨てた身分ですので名前は出せませんが、とある貴族の息子で、彼女は屋敷に仕えるメイドでした…」
「なんと! では親御さんの反対を押し切って?」
「は、はい…。きょ、教会で式を挙げたあと、あの船に乗って……それで…」
「なるほどのう。分かった。よーお分かった。任せときなさい。あんたらのことは絶対よそ者には口にせんき」
「お願いします…」
「なんのなんの。もし何かあれば、いつでも力になるきの」
 男はラデルの歯切れの悪さを不思議に思った様子は全くなく、ただ「よかったよかった」を繰り返して立ち去った。
 盆に乗った、ほかほかと湯気をたてる料理を見る。素朴で見かけは悪いがにおいはおいしそうだった。アイルランドの冬は厳しい。それなのに彼らはよそ者のラデルたちのために村の冬用の食料を分けてくれているのだ。そう思うとさらに嘘をついたうしろめたさが倍増した。
 しかしあの切羽詰まった状況では致し方なかっただろう。
 近衛隊長として同行していたラデルは突然パーティーの途中で帰国すると言い出した光やとともに北アイルランド行きの船に乗った。しかし船はなんらかの理由で転覆。傾いた船から投げ出された光を追ってラデルは海へ飛び込み、どうにか近くの島へ流れ着くことができた。
 難破した船に気付いて、早くも島の住民たちがたいまつを手にやって来ていた。毛皮をまとい、ぼさぼさの髪と髭をたくわえたむさくるしい男たち。彼らから光を護ろうにも光を抱いて海を泳ぎ切ったラデルは凍えていて、満足に剣を操ることもできそうになかった。
 彼らに光が伯爵令嬢と知られてはまずい。ラデルは光の身分を表しそうな物をはずして埋めた。そして彼女は自分の妻だと言い、彼らが他人の物には手を出さないことを祈った。
 そのあとで分かったのだが、彼らは数十年前マン島に落ち着いたバイキングだった。親切に2人のために住居を1つ提供し、こうして食事も分けてくれている。そんな親切な彼らに、あんな嘘をつくとは。
「いや、完全に嘘というわけではない……よな。少なくとも光はそう思っているんだし」
 滅入りかけた気持ちを立て直す。
 これにはラデルも驚いた。明け方近く目を覚ました光は、乾布摩擦を行って少しでも体を温めようとしていたラデルを夫と認識していたのだ。
 それとなく聞き出した光の話にラデルはうなずくことしかできなかった。そしていまだそれを訂正せず、漁民のあの男にもその嘘を広めてしまった…。
「ラデルさま? どうかしたのですか?」
 幕を押して、なかから光が少し顔を出した。
「いえ、なんでもありま……ない」
「そうですか。では、いつまでもそうしていないで、お入りください。外は寒いでしょう?」
 そう言って引っ込んだ光を追って、なかへ入る。
「食べ物を、もらった」
「まあ。親切に感謝して、ありがたくいただきましょう」
「ああ…」
 光の服は昨夜脱がすのにやぶいてしまって、もう着れなくなっていた。村の者に言って分けてもらわなければいけないだろうが、今はとりあえずベッドのシーツをはいで、あちこち縛っているだけだ。そこから覗き見える肩や二の腕、素足がどうにも官能的で、ラデルは目のやり場に困ってしまった。しかもこの窓の小さな住居には付き添いもなく2人だけで…。
「と、とにかく。食べたらベッドに戻れ。きみは安静にしないと駄目だ」
「ラデルさまはお食べにならないのですか?」
 また外へ出ようとしているラデルに声をかける。
「僕はきみの服を調達してくる」
「そうですか…。すぐお戻りになってくださいね」
「分かった」
(ああ、どんどん深みにはまっていってる気がする…)
 1人になった瞬間、大きくため息をつき、ラデルは顔をおおった。



 しかしラデルの受難はこんなものではなかった。
 夜、光は床で寝ようとするラデルが理解できないと腹を立てたのだ。
「いや、だが…」
「私たちは夫婦じゃありませんか! それに、いくら布を敷いたからって床で直接寝るなんて、凍えてしまいます」
 そう言われると拒む理由が思いつかない。
「分かった」
 仕方なく光の横に入ったラデルの胸に、手が押しあてられる。片方の足が彼の足の間に入り、その小さな体が隙間なくぴったりくっついてきたときの感覚は、目がくらむようだった。
 ラデルはずっと光のことを異性として愛してきたのだ。
 しかしそれは忍ぶ恋だった。光はまだ女性として未成熟で眠り姫と同じ。彼女にとって自分は幼なじみであり兄、家族、そういう存在だというのも知っていた。何より決定的に身分が違う。彼女は伯爵令嬢で、自分は剣が得意というだけの男。
 ラデルは必死で意識をほかに向けようとした。光が眠りにつくまでの我慢だ。彼女が眠れば、もう少し離れて――
 そのとき、そっと光の手がラデルのほおを包み込む。
「おやすみのキスをしてください、ラデルさま」
 耳元で甘えるようにささやかれ、そっと触れあった唇のあまやかな感触が、ラデルの分別を粉砕した。
「光!」
「ああっ……愛しいあなた…」
 闇のなか、ぼんやりと白く浮かび上がった肌に手を這わせた。あたたかな彼女のかおりを吸い込み、そっと舌で触れる。
 自分が震えているのが分かった。まるで女を相手にするのが初めてのような心もとなさを感じて……今にも爆発してしまいそうだ。
 光は決してきれいではなかった。薄い胸。筋肉のついた体はほどよく締まって弾力がある。肌には遭難のときついた青あざのほか、いくつも消えない刀傷が走っている。
 貴婦人にはあり得ない傷。その傷を、ひとつ残らずラデルは知っていた。何をして、どんな思いでこの傷を負ったか。だからこそこの体は特別で、美しい。
 愛しい女。
「ラデルさま……どうか…」
 傷のひとつひとつに口づけをしていると、背中に回った光の手が彼を鼓舞するように背骨に沿ってなで上げた。だが…………できなかった。
 切羽詰まったギリギリのところでラデルは踏みとどまった。
 彼女の純潔は、いつか彼女の夫になる男のものだ。
 炎のように熱く震える彼女の体を抱き締めて静めながら、ラデルはその男たりえない自分を呪った。


 翌朝、彼は決意した。


「痛っ」
 針が刺さって血が出た人差し指をくわえる光を見て、周囲の女性たちがくすくす笑った。
 光を見ている間も彼女たちの手元ではすいすいと、まるで生き物のようになめらかに針が進んでいく。彼女たちによって次々と仕立てられていく縫製品と、自分の手元を見比べた。シャツを作っているつもりなのだが、まだ全然それらしい形にならない。
「メイドだったというわりに、光は裁縫は得意じゃないようね」
 となりの少女が言う。
「そうね。もしかしたら掃除だったかも」
 だが自分がその掃除の手順すらよく覚えていないことを思い出して、光はとまどった。
「ちょ、ちょっと外の空気を吸ってきます」
 そそくさと住居を出て、乱れた心を静めようとする。
 何かおかしいのは光にもうすうすながら分かっていた。夫は妙によそよそしいし、メイドだったわりに縫い物も料理も自分はヘタだ。
 それに……あれから、ちっとも触れてくれない。一緒のベッドには寝るが、かけおち婚したての夫婦とは思えない淡泊さだった。
 絶対おかしい。
「今夜こそはぐらかされないよう、きちんと彼と話さなくちゃ」
 そう決意した光の耳に、そのとき風に乗って坂の下の方で話している人の声が聞こえてきた。ゆるやかな傾斜に視界をふさがれ、姿は見えない。何を言っているかまでは分からないが、だんだんこちらへ近付いてくる。そのうちの1つがラデルの声だと知って、光は坂の上から覗き込んだ。
「ラデル!」
 手を振った光を見て、ラデルの横について歩いていた男がぱっと表情を輝かせる。
「おお! あれはまさしく光さま!」
「……ラムジー」
 するりと名前がすべり出た。あれは城の衛兵隊長だ。
「でかしたぞ、ラデル。おまえが光さまをお守りしていてくださったのだな」
 そしてラムジーは後ろに控えていた兵士たちともどもその場に片ひざをついた。
「光さま、お迎えにあがりました。領主さまたちがご心配なさっております。ぜひ私どもとともにお戻りください」
 その一瞬に、何かが弾けるような勢いで飛んで広がり、光は何もかもを思い出していた。
 自分はアルスター伯爵令嬢で、ラデルは近衛隊長。愛し合った末のかけおち婚どころか恋人同士でもなく、夫なんかじゃなかったのだ。
 信じられないと、小さく頭を振る。こんな裏切りがあっていいのか。家族同然に信頼していたのに。
 急ぎラデルの方を見たが、ラデルは目をあわせるのを拒むように視線を伏せ、沈黙しているだけだった。



*            *            *




 マン島はアイリッシュ海に浮かんだ小さな島で、常に四方を囲む海からの風にさらされている。
「お姉ちゃーーん」
 きょろきょろと周囲をうかがって、人探しをしているふうに歩いていたティエン・シア(てぃえん・しあ)は、やがて丘の上の白い石作りの家屋の横でシーツを干しているマン島領主の一人娘ユピリア・クォーレ(ゆぴりあ・くぉーれ)を見つけて走り寄った。
 最初のうち、ばたばたと音をたてて風になびくシーツたちのせいで聞こえなかったユピリアだったが、何度目かの呼び声で気づいて振り返る。
「あらティエン。どうかしたの?」
「あの人を捜してるんだ。お姉ちゃん、居場所知らない?」
「あの人? ああ、陣ね」
 名を口にしたユピリアの眉が、途端ひそまった。
「知らないわ。城にいないの?」
「うん。いつの間にかいなくなってて、城のみんなも知らないって」
 それでどうして朝城を出た私が知ってると思うのかしら? ユピリアはちょっぴり思ったが、口には出さなかった。
「それよりあなた、今日の分の勉強は?」
「終わったよ! だから捜してるんだよ!」
「そう。……じゃあ、西の崖に行ってみたらどうかしら。ときどきあそこへ行ってるみたいだから」
「西の崖だね。うん、分かった! ありがとう、お姉ちゃんっ」
 言い終わるが早いか、ティエンは西の崖に向かって駆け出していた。わき目もふらずまっすぐ西の崖に向かって走っていくティエンを見て、よくこの短期間であれだけ懐けたものだと不思議に思う。まるで本当の家族か何かのようだ。
 だが実際は違う。ぼさぼさ髪の赤毛の男、陣は数日前、海岸に漂着した謎の男だ。前夜、沖で北アイルランド行きの船が沈没したそうだからおそらくその乗客だったのだろうと思う。彼が発見された場所は沈没した場所から大分離れていたが、流されたのだろう。
 どちらも「だろう」とあいまいなのは、名前以外の記憶を失っていたからだ。陣という名前からして本名か疑わしい。意識を取り戻させようとユピリアがほおを叩いて声がけをした際「陣」と答えたから、それが彼の名前と推測しているにすぎない。
 正直、ユピリアは彼の記憶喪失も疑っていた。なんだかご都合のように感じられたからだ。
 起きられるようになった陣は、自分が発見された場所付近の漂着物だらけの海岸――そのほとんどは破損し、潮にやられていて使い物にならない物ばかりだった。使い物になる物はとっくに島の住民たちに略奪されている――をよく歩いていたが、その様子に必死さはなかった。
(普通、記憶をなくした人ってもっと余裕ないものじゃない? 取り戻そうと躍起になったりして……もちろん記憶喪失になんかなったことも、なった人も知らないけど)
 彼を不審に思っている彼女の内心が伝わったのだろう、陣の方もまたユピリアに警戒心を持ったようだった。懐いたティエンにはやさしくふるまうくせに、ユピリアにはよそよそしい。ものすごくあからさまに。
「…………は!
 ち、違うのよ! わた、私はべべべべつに、あんなやつにやさしくしてもらいたいわけじゃ…っ!」
 パンパン。シーツをはたいてしわを伸ばすことに集中しようとする。
「大体横柄なのよ、あの男は。助けてもらった身のくせにひとの言うこと一切聞かないし。今だって安静にしていなきゃいけないのに外を歩き回ったりしてっ。……どうせ、また上着とか着てないに決まってるわよね…」
 じーーーっと動きの止まった手元を見つめる。
「んもうっ!!」
 カラになったかごを脇に抱え、ユピリアは歩き出した。



 陣はユピリアの想像どおり、西の崖の上にいた。
「あ、お兄ちゃん、見て。お姉ちゃんが来るよ」
 脇についてにこにこ笑顔で話していたティエンが真っ先に気付いてこっちこっちと手を振る。つられてそちらを向いた陣の視界に、大股で草を蹴るようにして斜面を登ってくるユピリアの姿が入った。見るからに怒っている様子の彼女に、そっとため息をつく。
 彼女はいつも何かで陣に怒っている。
 女というのはこう、いつもヘラヘラ笑ってる生き物じゃないのか?
 少なくとも陣の知っている女たちはそうだ。何がそんなに笑えるのか、甘ったるい香水をプンプンさせてたいした用もないのに寄ってきては扇で口元を隠しながら上目づかいに意味ありげな秋波を送ってくる。あなたになら何をされてもいいのよ、という期待を含ませたそれらは紅を刷いた口元に浮かぶ笑みともども見るたびに辟易させられた。違ったのは姉の加夜と妹の光だけだ。
(光…)
 妹のことを思い出して、陣は視線を海へと戻した。
 この島へ流れついて3日。光の行方はようとして知れなかった。今日は一番漂流物が多く流れ着いた海岸まで行ってみたが、どの漁民に聞いても彼女を知らないと答えた。
(ま、ラデルがあとを追って飛び込むのが見えたから大丈夫だとは思うが)
 当面の問題は、心配しているに違いない家人の者とどう連絡をとるかだった。アルスター伯爵家は北アイルランドにかなりの領地を持つ大富豪。その継承者として誘拐や身代金要求を懸念してとっさに記憶喪失を装ってしまった手前、本土に手紙を出したいとは言いにくい。
 そんなこんなを考えていた陣の胸に、突然バンッと何かがたたきつけられた。
「なんだ?」
「服! あなたのよ! まだ回復しきってないのにそんな薄着で冷たい風に当たっていいわけないでしょ!」
「お、お姉ちゃん、そんなに怒らなくても…」
「いや、ティエン。俺がうかつだった」
 とりなそうと2人の間であたふたするティエンの頭に手を乗せて言う。
「そうよ! 忙しいんだから、手間かけさせないでよね!」
 腰に手をあててにらみ上げてくるユピリアの姿は、どう見てもポーズでなく本気で怒っていた。
「……おまえ、笑わないんだな」
 するりと言葉が口をついた。
「はあ?」
「いや、おまえの笑った顔見たことねーなと」
 その言葉にとたんユピリアはうさんくさげな表情に変わり、あらためてまじまじと陣を見た。
「私だって楽しければ笑うわよ。でも今そんな気分じゃないのになんでヘラヘラ笑わなくちゃなんないの?」
「そりゃそーだ」
 ユピリアの実にシンプルで当を得た返答に満足すると同時に笑気がこみ上げてきたが、さすがにそれは自重する。この状況で笑ったら、彼女は本気で殴りかかってきそうだ。
 そして何かいい口実があればと思ったものの結局思いつかなかったので、直球で訊くことにした。
「この島、本土とはどうやって連絡をとっているんだ?」
「10日に1度定期便が往復するんだよ」答えたのはティエンだった。「昨日出たばっかり。あ、一応お兄ちゃんが流れついてることも捜索隊に伝えてってお願いしてあるよ」
「そうか」
 そうすると事故のことを聞きつけた屋敷の者がここへ駆けつけるまでに最低ひと月はかかる計算になる。
 陣はユピリアへ目を戻した。
「さっき忙しいと言ったな?」
「――ええ。この島の者はみんな、助け合って生活しているの。手が空く暇なんかないわ」
 マン島領主で伯爵家とはいえ、決して生活は豊かではない。ユピリアも母や父に習い、小さなころから村人とともに汗を流し、素朴な生活を送ってきている。
「じゃあ俺にも何か手伝わせてくれ。ただで世話してもらうのも気がひける」
「あ! それいいね!」
 ユピリアは何か裏があるのではないかと訝しそうに目を細めたが、ティエンは素直に喜んだ。
「でもあなた、まだ――」
「行こ行こ、お兄ちゃん! 僕ね、今ヤギたちの飼料を集めた塔の壁を直してるの。僕が教えるから、一緒にやろっ」
「ああ」
 しがみつくように腕をとって、ぐいぐい引っ張って行く。
「……もうっ」
 斜面をくだっていく2人を見て、ユピリアは憤懣やるかたないつぶやきをもらした。




 これで何もできない不器用者だったら思い切り笑ってやろう、とユピリアは内心思ったりもしたのだが、意外と陣は手先が器用で教わったことはすぐコツをつかんでこなせるようになっていた。
 もともと男手は少ない。特に冬の間は本土へ出稼ぎに行く者も多く、村に残っているのはほとんどが子どもか年寄りだ。陣は力仕事や汚れ仕事も厭わないのでいろいろ重宝がられて村人たちから声がかかるようになり、一緒に食事をしたり酒をくみかわしたりするうちに、すっかり村に溶け込んでしまっている。島の女の子たちも、警戒が抜けた今、村で数少ない若い男性な上記憶喪失というミステリアス要素も加わって、大っぴらに陣に興味を示し始めた。取り巻きになったなかには積極的に自分の住居へ連れ込もうとする者まで出てきている。
 今もまた、補修用資材を担いで運ぶ彼の周りに女の子の輪ができているのを見て、なんだかユピリアは面白くなかった。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん」
 ひょこ、と干したばかりの洗濯物の間からティエンが頭を出す。
「お兄ちゃん、絶対彼女たちと1対1にはならないから。愛想よくしてるけど、おばあちゃんやおじいちゃんと一緒で、特別な女の子は作ってないよ」
「べ、べつに私は…。そんなこと、どうでもいいわよ」
「そう? 僕は気にしてほしいなぁ。だってお兄ちゃんのこともお姉ちゃんのことも大好きだから、2人には仲良くしてほしいもん」
「…………」
 そう言われると、意識して彼を避けている自分が大人げない気もしてくる。
 ティエンのためにも仲良くしなくちゃ。それに、彼は実際村の役に立っているんだから。それを平等に評価しないなんてそっちがいけないことよ、と自分に言い聞かせつつ陣を捜して歩く。陣は数日前から粉引き用の風車の修理をしていて、ちょうど羽根車を止めていたロープをほどいているところだった。
「よお、ユピリア」
 ロープが引き抜かれたとたん、羽根車はゆっくりと回転を始める。
「直ったみたいね」
「また止まらないか様子見しないといけねーが、ま、大丈夫だろ」
「器用なのね。助かるわ……これでみんなも粉がひけるようになるし――って、何よ? その目は!」
「……いや、おまえが俺のこと褒めるなんてあるんだな、と」
 瞬間、カッとユピリアのほおに熱が走る。
「私は感情で不当な判断なんかしないわよ!」
「あー、まあそうだな。この前修繕の順番について陳情聞いてるときもそうだったし。きちんと優先度で公平に判断してる、そういうのはおまえのいいとこだと思うぜ」
「えっ?」
「だから、まあ、おまえの評価は公平で信用がおけるってことで。褒めてくれてありがとう」
 初めて自分1人に向けられた笑顔に、ユピリアの胸が強く打った。不規則に早まる鼓動に驚き、とまどって、とっさに返事が返せない。視線が合うのを避けるように目を伏せた。
「そ、それで……今度はどこを補修する予定なの?」
「それなんだが」
 と陣は渋面を作った。その目はユピリアの肩向こうを見ている。視線を追って振り返ったユピリアは、坂を下ってこちらへ歩いてくる数人の男たちに気付いた。あきらかに村の者ではない、剣を帯びた騎士たち。
「陣さま、お迎えに上がりました」
 彼らがひざまずくのを見てユピリアは目を瞠ったが、陣に驚いた様子はなかった。あたりまえとそれを受け止めている顔に、ようやくユピリアも気付く。
「あなた……やっぱり記憶喪失なんかじゃなかったのね! 私たちを騙していたんだわ!」
 その言葉に、陣はこうなると分かっていたというように、ただ残念そうな笑顔でユピリアを見ただけだった。