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リアクション
●現代アメリカ 4
囚われたキスクールが連れ込まれたのは、廃屋と化した農場だった。
目をふさがれていたのでキスクールにはここがどこかも分からない。彼女を乗せた車はかなり長い間走ったから、シカゴは出てしまっているだろう。彼女が放り込まれたのは母屋の一角で、目隠しをほどかれて初めてそこが小さな室内であることが分かった。色あせた花柄の壁紙、骨組みだけのベッド。床には家具が長期間置かれていたらしい跡が残っている。
「どうしてこんなことを、マイアさん」
振り返り、そこにいるマイアを見た。彼女はほどいた目隠しを手に、じっとキスクールを見つめていた。
「マイアさんはお兄ちゃんのパートナーでしょ? いつも一緒で、最高の相棒だって言ってたじゃない。お兄ちゃんがマフィアを憎んでるの、知ってるのに。どうしてマフィアなんかと…」
「あなたたちは両親をマフィアに殺されたんですよね」
「そうよ。教会のミサからの帰り道に銃の乱射に巻き込まれたの。お兄ちゃんだけが運よく助かって……それからずっと、苦労してまだ赤ちゃんだった私を育ててくれたの。
お願い、お兄ちゃんにひどいことしないで。お兄ちゃんのためなら私――」
「何でもする、と」
静かな声でマイアが先を引き取った。
「ボクもです。ボクも幼いころ両親を失い、チェルノボグに救われました。あの極寒の地で、彼らが救いの手を差し伸べてくれなければボクは凍死していたでしょう。彼らには恩義があります。何をもっても返しきれない恩が」
「でも…っ、じゃあお兄ちゃんは!? 私、知ってるよ! マイアさんはお兄ちゃんのこと――」
「決してここから出ないでください。そうすればあなたの命はボクが保証します」
マイアはゆっくりと音をたてずドアを閉め、鍵をかけた。
「よお」
階下へ下りたマイアをカスケードが見上げた。
キッチンテーブルにどっかり長い足を放り出し、椅子に腰かけて身をそらしている。キイキイと椅子が今にも壊れそうなきしみ音をたてていたが、気にしている様子はなかった。
「お姫さんはどうじゃ?」
「おとなしくしています。それよりハワードから定時報告はありましたか?」
「ない。しくじったようじゃな」
サングラスの上から金色の瞳が透けて見えた。作戦がうまくいかなかったことを悔しがっている様子はない。むしろ楽しそうですらある。
「ダラスへ何人か差し向けますか?」
「それはもう手配済みじゃ。ハイエナのことにばかり気をとられて、あのメス猫を逃すわけにもいかん。ブラッドリーは汲々としてわしらの報告を待っておることじゃろうしな」
「では、昌毅の方はどうしますか」
「昌毅か」ぴくっとカスケードの口端が反応する。「もうハイエナとは呼ばんのか。ずい分親しくなったものだな」
「……パートナーでしたから。そうなることを、あなたもお望みだったでしょう」
慎重にマイアは答えた。声にも表情にも感情は出さない。
だがカスケードにはお見通しだった。くつくつと肩を震わせて笑い、片腕を伸ばしてその大きな手でマイアのほおを包む。
「そうおびえずともいい。おぬしが裏切るとは思っておらんよ、かわいいマイア。ああしてやつの一番の弱点を連れて来たではないか。ハイエナはわしらの計画を知ったかもしれん。しかしまだまだやつはわしらのてのひらの上で踊る犬ころじゃ」
そのとき、テーブルの上に放り出してあった携帯がブブブと振動した。
「ハワードか」
『やはりきさまか、カスケード』
「ふむ。ハイエナか。ということは、ハワードは失敗したか」
『やつがどうなったか知りたいか?』
「いや、特には。役立たずには興味がないのでね」
どうせ明日には始末されるのだろう、それが無能者の末路だ。マイアは視線を下げ、カスケードに背を向ける。
『妹には手を出すな!』
「それはおぬし次第よ」
『俺の命が望みなんだろう! 今すぐそっちへ行ってやる! そのとききさまがその汚い手で妹に指1本でも触れていることが分かったら、八つ裂きにしてやるからな!』
携帯は唐突に切れた。わずか5秒。彼の怒りの激しさを表しているかのような通話だった。
「こっちと言ったが、場所は分かるのか?」
「ボクがロッカーにパンくずを撒いておきましたから。昌毅であれば気付くでしょう」
「それは面白い。では何時間でやつがたどり着けるか、楽しみにしていよう」
それから、カスケードは時が止まったように動くのをやめた。時を刻む腕時計の秒針の音がほんのかすかに空気を震わせるのが聞こえるだけだ。ごくごくたまに、マイアが入れたコーヒーを口に運ぶ。
肌がひりつくような沈黙だった。長引く緊張感はずしりと重く、意味もなく叫び出したいほど耐えがたい。頭痛はとうにしていた。目の奥が痛い。ぎゅうっと力を込めてまばたきをしていると、ようやくカスケードが動き出した。
キッチンに引かれたカーテンの影から暗い外をうかがう。
「来たぞ」
50メートルほど手前でうす汚れた埃まみれのSUVが止まった。運転席から飛び出してきたのは昌毅だ。彼1人。それを確認したカスケードは大股で部屋の入り口まで行き、廊下の先の玄関へ目を向ける。金メッキのはげたドアノブが回ったと思うや勢いよく開き、向かいの壁に激突した。
飛び込んでくることを予測して廊下で待ちかまえ、銃口を向けたカスケードだったが、それはフェイクだった。次の瞬間隣室の窓が突き破られて、昌毅が転がり込んできた。
「くそッ!」
あわてて銃口をそちらへ向けたが昌毅の方が早かった。彼は転がりながら発砲し、銃弾を避けるためカスケードは戸口から引っ込むしかなかった。
キッチンまで戻り、テーブルを蹴倒して盾とする。かがんだカスケードの背中をかすめて銃弾が壁にめり込む。
2階でガチャガチャと狂ったようにドアノブを回す音がした。
「お兄ちゃん!」
「出てくるな! おまえはそこにいろ!」
昌毅の視線は前方に釘づけになっていた。たしかに見た。あれはカスケードだ。
カスケードの隠れたテーブルに向け、連射しながら廊下を進んだ。相手に反撃の暇を与えるつもりはなかった。被弾したテーブルが木端を飛ばす。硬い樫の木の厚いテーブルだが、砕けるのは時間の問題だった。
「カスケード、こちらです!」
マイアが銃を手に、裏口を開いて立っていた。カスケードは慎重に数を数え、相手の弾倉が空になるのを見越してそちらに転がる。彼が裏口から飛び出すのと昌毅がダイニングキッチンへ走り込むのと同時だった。
昌毅とマイア。2人の目が互いを認識する。
裏切り者が彼女であると認識した昌毅の目に苦痛が走り抜けたのをマイアは見た。昌毅もまた、彼に知られてしまった痛みをマイアの目に見る。
もう戻れない絶望に飲み込まれた一瞬。ほんのわずかな隙だったが、カスケードが見逃すはずもない。
「死ね、ハイエナ」
闇にまぎれながら放たれた銃弾を受けたのは、しかしマイアだった。
「マイア!」
自分の盾となって撃たれ、倒れた彼女に駆け寄った。すぐさまキッチンへ引き入れ、ドアを閉める。
「なぜだ!? なぜこんなことを!!」
彼女はマフィアの手先だったんじゃないのか!? 俺を裏切って、殺そうとしたんじゃなかったのか!?
彼女の服を引き破って銃の射入口を探った。痛みにマイアがひるんでも、強引に力で押さえ込む。
「……あった。ここだ。鎖骨は折れてる。射出口は……くそッ! ない! どこだ!」
両側から指で探る。腕が折れているのが分かった。鎖骨に当たった弾が上腕に入り、骨に食い込んでいるに違いない。
「……昌、毅…」
ぜいぜいと乱れた呼吸でマイアが彼を呼んだ。光を失い、どんよりとした目が彼を探すように動いている。昌毅の鼓動がはね上がった。
「ああ、くそっ、ちくしょう! 俺は今度の件にけりがついたら、おまえに言うことがあったっていうのに…!」
かつてないほど混乱し、おびえていた。真っ白になった頭で自分でも何を口走っているか分からないまま、昌毅は周囲を見渡した。手近なカーテンを引き千切り、とにかく止血を始める。
「俺はここだ、マイア。俺を見ろ。しっかり目を開けて、何かしゃべるんだ」
「……ごめん、なさ…。どう、しても……でき……かった…」
命を救って育ててくれた男と、愛する男と。どちらも選べず、どちらも捨てられなかった。
結局できたのは、恩人の願うとおりに動き、愛する男の盾となることだけ…。
「マイア、しゃべり続けろ。何でもいいから!」
彼女が何を言っているのか昌毅には分からなかった。だがあの一瞬――激怒して現れた彼を見たマイアの目にあったのは、むきだしの愛だった。次の瞬間にはそれは絶望へと変わったが。
「お兄ちゃん…」
部屋のドアをどうにか破壊してきたのだろう、キスクールがおそるおそる後ろから現れた。
「ここに来て、これを押さえていろ」
「う、うん…」
血まみれで仰向けになったマイアに気圧されながらも、圧迫止血の役を昌毅と代わる。
「お兄ちゃん、マイアさん…」
「彼女は死なない。ただ、意識を失わせないように声をかけ続けてくれ」
「うん、分かった」
立ち上がり、キスクールが指示どおりしているのを確認してからドアを開ける。もうかなりの時間をロスしていたが、車が走り去る音は聞こえなかった。まだ近くにいるはずだ。そう思っていると、あかりの届かない暗がりに人の気配があった。金色の瞳。カスケードだ。
「撃たないのか」
「マイアは? 死んだのか」
「死ぬものか!」
「そうか」
声に、わずかに安堵がにじんでいた。
やつにも人の心があるのか。そう思った瞬間、殺気がふくれ上がった。反応し、飛びずさった昌毅と入れ替わるように、カスケードの鋼のような体が一歩前に踏み出る。
「おぬしのことだ、応援を呼んでいるのじゃろう。しかしわしとの対決に邪魔が入るのはおぬしも本意ではあるまい。
そろそろわれらも決着をつけようぞ」
互いに銃を握る手に力をこめる。
男たちの対決を止めるすべはもはやどこにもなかった。
* * *
ザザザ、ザザザとザルか何かのなかで砂が左右に振られるような音がしていた。その音に導かれるように、ゆっくりと意識を浮上させていたとき。
突然何かが飛び込んできてベッドがたわみ、頭が大きく沈んだ。
「ねえ、見てよこれ。一面に載ってるわよ」
「……んもう。うるさいなぁ…」
クッションから引きはがすようにして顔を起こす。セレアナが付き出しているのは新聞で、彼女の言うとおりそこには大きく昨日出た裁判判決の記事が載っていた。写真は車に乗る寸前の苦虫を噛み潰したようなブラッドリー議員の横顔だ。
残念ながら向こうの弁護士団の方が上手で、プレスリー議員が死んでいる以上証拠はほとんど機能せず、劇的な結果とはならなかったが、人目を集める裁判にはなった。ソリダット社は数千万ドルの賠償金を支払うことになり政府のリストからはずされることになったが、ブラッドリー議員は嫌疑不十分で無罪とされた。ソリダット社が紹介したというロシアンマフィアと議員との関係も、解明までにはいたらなかった。セレンフィリティによると、マフィアの構成員が数人捕まったがどれも下っ端だけで、幹部クラスまでは届かなかったらしい。ボスのカスケードも結局捕り逃したということだった。
だがブラッドリーに黒い疑惑は残った。たとえ大統領を目指すとしても10年以上遠回りすることを余儀なくされるだろう。
「これで本当に終わったのね」
「……そうね…」
そこでセレアナはセレンフィリティの様子に気がついた。
「あら? まだ起きてなかったの? もう8時近いわよ。あなたってほんと不精者ね」
「あたし、クールガールって言われてたのに。あなたにあっては形無しね」
クッションに片ほおつけたまま、セレンフィリティは苦笑した。あれから2カ月。行動をともにする間、それこそ星の数ほど彼女に罵られてきた。
「クール?」ちら、と裸で転がるセレンフィリティの背中を見る。「私はクールなあなたなんか見たことないわね。昨夜もずい分ホットだったじゃない」
昨夜の営みを思い出して、とたんセレンフィリティのほおにカーッと赤みがさす。
「ふふっ。いくらでも熱くなっていいのよ。常夏の海がほてった体を冷ましてくれるから」
笑って、セレアナは窓の外に目を向ける。
そこには、ハワイの美しい青々とした海が広がっていた。