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そんな、一日。~夏の日の場合~

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そんな、一日。~夏の日の場合~
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2


 まだ午前中の、それもかなり早い時間帯だったから、工房にはリンスとクロエ以外誰もいなかった。
「お邪魔しまーす」
 という、スレヴィ・ユシライネン(すれう゛ぃ・ゆしらいねん)の声もよく響く。なんせ、作業中だったリンスが顔を上げたほどだ。邪魔をしてしまっただろうかと、一瞬罪悪感に見舞われる。
「ちわ」
「どうも」
「これ、お土産。氷飴。氷と水と混ぜてどうぞ」
 軽く挨拶を交わし、手土産を渡す。と、珍しかったのかリンスは氷飴をしげしげと見つめた。リンスがこの反応なら、きっとクロエも食べたことがないだろう。惜しいことをした。実際自分でお冷を入れて、騙してみても良かったかもしれない。
 なんて不届きなことを考えていると、背後から「あっ」という声。クロエのものだった。やあ、と片手を上げて挨拶すると、なんとまあ可愛らしく彼女はスカートの両裾をつまんでお辞儀した。
「どうしたの。淑女ごっこ?」
「ごっこじゃないわ、しゅくじょだもの」
「十年早いよ」
 笑ってみせるとクロエは頬を膨らませた。ほら、そういう動作がお子様なんだ。
「でも十年後にはきちんとレディかもね」
「え? なにかいった?」
「何も言ってないよ。ところでクロエ、夏休みの宿題は終わったか? まだだったら手伝ってあげよう」
 にこりと笑うと、にこりと笑い返された。
「おあいにくさま! わたし、しゅくだいなんてないの」
「ええ? なんだよそれ、羨ましいな」
「というか、がっこうにいってないのだもの。しゅくだいなんて、でるはずないわ」
「ああ、そういう」
 だけどそれはもったいないなあ、と思う。だって彼女は賢いだろうから。学校に行けば、もっともっと素敵になるだろうに。
 けれどそうすることで色々な知識をつけてきて、簡単には騙されてくれなくなるかもしれないけれど。
「難攻不落も面白い……か」
「なぁに?」
「なんでもないよ」
「さっきからそればっかりね! ねぇ、わたしのことよりスレヴィおにぃちゃんは? しゅくだい、おわったの? まだなら、てつだってあげるわよ?」
 胸を張って、クロエが言う。本人としては意趣返しのつもりなのだろう。なんのお返しにもなっていないのだけれど。
「そう? じゃあ手伝ってもらおうかな。美術の課題がまだなんだ」
「えっ。てつだわせるの? おにぃちゃんなのに? わたしに?」
「クロエが手伝うって言ってくれたんだよ?」
「そうだけど」
「それとも嘘だったのかな。俺、クロエの優しさに感動したんだけどなー……」
「むぅ……」
 わざとらしく言うと、クロエは唸って両手を握った。唸るだけで何も言えないのがまた愉快だ。ぐうの音も出ないとは、きっとこういう状態のことを言うのだろう。
「……しかたないわね。おんなににごんはないのよ」
「男前だね、随分と」
「わたし、しっかりしてなきゃならないし」
 言って、クロエはちらりとリンスを見る。なんだか納得した。
「クロエも大変だな」
「そうよ。だからからかうのもたいがいにしてほしいわ」
「あ、それは無理」
「なんでよー!」
「面白いから」
「ひどい! きらい!」
 とかなんとか言いながら、『課題』のためのスケッチブックを受け取ってくれるくせに。


 静物画か風景画を描くか、既存の絵についての考察を書くか。
「っていう課題でさ。クロエ画伯に花束の絵を描いてほしくて」
 説明しながら、これがそのモデル、と夏色の花束を渡した。花束を見て、女の子らしく目を輝かせているのが可愛いと思う。
「でも、わたしがかいてどうするの?」
「その絵に対してレポートして出すよ?」
「わたしのえで?」
「『既存の絵』としか指定はないから大丈夫」
「それってただのとんちだわ……」
 呆れたようにクロエが言った。気にせず、スレヴィは両手を合わせる。
「よろしく頼みます、画伯!」
「うー。きたいしないでね?」
「もちろん、してないよ」
「それはそれでしつれいよ!」
「なんだよどっちさ、我侭だなぁ」
「もうだまってて」
「はいはい」
 言われたとおり口を噤んで、真剣な様子のクロエを見る。
 鉛筆が動く音をじっと聞いているうちに、段々と眠くなってきた。
 うつらうつらと船を漕ぐ。するとクロエがねてもいいのよ、と言った。絵に集中しなよ、と軽口を飛ばす。
「それに、寝たら落書きされそうだ」
「スレヴィおにぃちゃんじゃないんだから」
「俺が寝てるクロエに落書きすると?」
「しそう」
「するね」
「ほらぁ」
「ははは」
 笑いながら、瞼を閉じる。
 黒い世界に、きみの声だけ。
 落書きされてもいいか、なんて酔狂なことを思ったのは、暑さと睡魔のせいだろう、きっと。


 しばらくして目を覚ますと、絵は完成されていた。
「おお……さすがだクロエ。俺が見込んだだけあるな! 大胆かつ繊細な筆遣い、色の強弱。優しさ……描き手の心が表れているようだ!」
「そんなにおうぎょうにほめられると、ぎゃくにけなされているみたいね!」
「いやいや本当に。上手いと思うよ」
 実際、クロエの言うとおり大げさなまでに褒めたけれど、嘘ではなかった。花弁を描く曲線は少女が描いたとは思えぬほど滑らかで、色遣いは斬新で大胆で、でもどこか暖かい。なんとも不思議な絵だった。
「いや本当に。クロエそのままだな」
「そう?」
「うん。いい絵だ」
 課題をでっちあげて良かったと思う程度には。
 そう。美術の課題なんて、本当はない。いつもの嘘だった。工房に来るまでに考えた、架空のもの。
 嘘だったと知ったら、クロエは怒るだろうか。
 だってこうでもしないと、花束を渡す理由もなかったし。
 それに、クロエの絵を見てみたかったことは本当だし。
 まさかこうも期待を上回られるとは思っていなかったけれど。
「宝物にしよう、これは」
「またぁ。じょうだんばっかり!」
 あながち冗談でもないのだけれど、とは言わず、モデルに使った花束を取った。
「花瓶あったよね。貸して、活けてあげる」
「え。おはな、くれるの?」
「俺が持ってても枯らしちゃうだけだしね。画伯への報酬ということで」
 ありがとう、と笑うクロエの頭を撫でて、スレヴィはふっと微笑んだ。