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第1章 奪われた輝き
「……クッ……ッ……」
薄暗い寮の部屋に、神無月勇(かんなづき・いさみ)の押し殺した喘ぎが響く。彼の長い手足がより所を求めるように、白いシーツの上をさまよった。
「もっと声、出せよ。ミヒャエルの前では散々鳴いてるんだろう?」
吸血鬼ヘル・ラージャが勇の白い肌に朱を散らしながら言った。
パートナーの吸血鬼ミヒャエル・ホルシュタイン(みひゃえる・ほるしゅたいん)の名を出され、勇は思わず体を強張らせる。そこを見計らってヘルが乱暴に動いた。
勇が苦痛に身を反らせ、悲鳴をあげるのを、ヘルは満足そうな嗜虐の笑みを浮かべてながめる。
勇はなかば混濁した意識で(これも私に科せられた罰なのか……)と考える。
突然、乱暴に髪をつかまれた。
ヘルは勇の黒髪をわしづかんで引きずり起こすと、彼の瞳を覗きこむ。勇の揺れる金の瞳を、ヘルの妖しい紫の瞳が射た。
「自分ばかり気持ちよくなってないでさ。君も僕に奉仕してよ」
魔性のぎらつく瞳に射抜かれ、勇は脳髄の奥がしびれていくのを感じた。
それよりしばらく前、勇はヘルに会うため、美術展示室を訪れていた。
ヘルは、二ヶ月程前にパートナーの黒田 智彦(くろだ・ともひこ)と共に、ここ薔薇の学舎に入学して以来、展示室に置かれた天使像に異常な執着を示していた。
勇の予想通り、その時もヘルは美術展示室で天使像に寄り添っていた。
今にも動き出しそうな精巧な作りの天使像は等身大で、全体が白い石でできている。ただ一点、胸元にはめ込まれた大粒のルビーエンジェル・ブラッドだけが血の様に赤く輝いていた。
「やはり今日も、ここにいたか……」
そう言う勇の声に、像の肩を抱いて熱心に何事かささやいていたヘルが振り返る。
「やあ、勇。僕の顔でも見たくなった?」
天使像の白に、ヘルの褐色の肌が対照的だ。
勇は像とヘルに、ゆっくりと歩み寄りながら言う。
「移り気なキミは、今度は研修の引率で訪れる教師まで狙っているんだって? シモンがその事で、ずいぶんと騒いでいるよ」
薔薇の学舎にはこの度、交流事業の一環としてシャンバラ地域にある各学校の男子生徒が一ヶ月間訪れて研修を受けることになっていた。
それを引率する蒼空学園の教師砕音アントゥルース(さいおん・‐)が、パートナーが女性である事や、女子高生に手を出しているという噂がある事に、薔薇の学舎生徒の一人シモン・サラディーは反発を深めている。
砕音は、罠の設置や解除について授業を行なう予定だ。
しかしシモンは生徒たちに、皆で協力して砕音に嫌がらせをして追い出そう、とまで呼びかけていた。
勇の言葉に、ヘルはおかしそうに笑って言う。
「そうみたいだね。まあ、予想通りだよ」
勇はヘルの態度に反感を持つが、表面には出さないよう努めた。
シモンがヘルと仲が良く、そういう関係にまでなっている事は勇にも予想がついた。
ヘルは他にも、薔薇の学舎生徒やタシガンに住む美少年、美青年の何人にも手を出している。
勇はヘルに横に立ち、天使像のなめらかな表面をなでた。
「その研修だけど……波羅蜜多実業高等学校からも生徒が来るらしい……。盗みや破壊も辞さない者が多いという話だ。彼らには気を付けた方が良いんじゃないか?」
そう言って、勇は像に埋めこまれた血のように紅いエンジェル・ブラッドに触れた。ルビーの中でもビジョン・ブラッドと呼ばれる種類の貴重な石で、値段は二億円は下らないという噂だ。
「そうだねえ。パラ実生って悪逆非道で有名だもんねえ。ルビー目当てに手を出されちゃ大変だ」
ヘルはもっともらしい顔でそんな事を言いながら、ルビーを触っていた勇の手に当然のように自分の手を重ねる。勇は振り向き、二人の視線がからむ。勇は言った。
「……そうかい? キミは、砕音が手に入るなら他に何もいらない。この天使像もどうだってよいのかと思ったのだけど?」
「なに? もしかして妬いてんの?」
ヘルは艶然と微笑み、勇の腰に腕を回す。勇は逃げなかった。連れられるまま、ヘルの部屋に二人で向かう。
そうして勇が体を使って時間を稼いでいる間に、無人となった美術展示室に一人の美少年が現れる。赤い瞳を持つ彼もまた吸血鬼だ。勇のパートナー、ミヒャエル・ホルシュタインである。
ミヒャエルはしなやかな動作で天使像に近づき、用意してきた美術用工具でエンジェル・ブラッドを取り外した。
(これが吸血鬼ヘルが惹かれるエンジェル・ブラッドか……)
ミヒャエルは大粒のルビーをかかげ、どこか妖しく見える輝きに目を細める。
そして手早く宝石を布にくるんでしまい込むと、代わりに用意してきた偽物のルビーを天使像にはめ込んだ。
ミヒャエルは首尾よく作業を終えると、美術展示室を後にする。
道具類を隠すと、寮の自室に戻った。だが勇はなかなか戻ってこない。
ミヒャエルは奪ったエンジェル・ブラッドを指の中でもてあそびながら考える。
(ヘルの奴、ずいぶんと僕のおもちゃで楽しんでるようじゃないか。勇……戻ってきたら、誰が主人なのか、もう一度、よく教えこんであげるよ)
天使像のエンジェル・ブラッドが偽物とすり入れ替えられたと気づいた者は、ヘルを含めていないようだった。
その翌日、他校からの研修生たちと彼らを引率する教師、砕音アントゥルースが薔薇の学舎に到着した。
薔薇の学舎校長のジェイダス観世院(じぇいだす・かんぜいん)が美しい薔薇の植え込みに囲まれた前庭で一行を出迎え、挨拶する。
「やあ、ようこそ、薔薇の学舎へ。学舎生徒及び教職員一同、君たちを歓迎するよ。これから一月の間、我が校の校風を楽しみつつ、勉学に励み、盛んに交流してくれたまえ」
ジェイダスはそんな風に歓迎の言葉、いわゆる「校長先生のお話」を長々と話す。
しかし研修生たちは話の内容など、ほとんど頭に入っていない。ジェイダスの、よく言えば絢爛豪華な服装に目を奪われて、あっけに取られていたからだ。
蒼空学園の十倉朱華(とくら・はねず)は視界一杯に広がるジェイダス観世院の衣装をまじまじと見ながら思う。
(うっわ〜。歌合戦の舞台セットみたいな服だな。校長先生で後ろの風景がまったく見えないや)
隣に立つ朱華のパートナー、守護天使ウィスタリア・メドウ(うぃすたりあ・めどう)はもっと危機感を覚えている。
(こ、こんな人物が校長を務める学校に、一月とはいえ朱華が通うなんて……。なんとしても私が朱華を守らなければなりません!)
ウィスタリアは朱華の保護者として、決意を固める。半歩前に踏み出し、ジェイダス校長と朱華の間に割りこんだ。
「?」
朱華は(なんだろう?)と思って、近づいてきたパートナーの方を見る。整った顔立ちになぜか決意の表情を浮かべたウィスタリアに、朱華は不思議そうだ。
朱華はさらに、その向こうで砕音が自分たちの方を見ているのに気づく。彼は研修生を見守る立ち位置なので、それ自体はおかしくない。ただ懐かしむような、それでいて悲しげな表情の理由は分からない。
「??」
朱華の不思議そうな視線に、砕音も気づいた。表情を改め、ジェイダスの方を指してジェスチャーで朱華に「前を見なさい」と伝える。
やがてジェイダス校長が話を終える。
砕音は引率教師として校長の前に出た。
「それでは、これから生徒一同お世話になります。……はいぃっ?!」
ジェイダスと握手したとたん、砕音はいきなり腕を引かれ、腰に手を回されて引き寄せられる。
「な、な、なんでスか?!」
「ほほう……」
驚いて声が裏返る砕音にかまわず、ジェイダスはなめまわすように彼を見た。砕音の黒髪と琥珀色の瞳には特に熱い視線を注ぐ。
砕音もきりっとしていれば端整で色気があったのだろうが、今は「うーひーいー」という焦り顔で台無しである。
研修生たちも、さすがに受入先の校長相手に止めに入ったものか戸惑う。
だが大方の予想を裏切り、ジェイダスはそれ以上は何もせずに砕音を離した。何事も無かったように校長は言う。
「では、寮に荷物を置いたら学舎内を生徒たちに案内してもらうといい。私はこれで失礼させてもらうよ」
ジェイダス校長が艶やかに笑いながら去っていくと、砕音はその場に座り込んだ。
「く……食われるかと思った……」
校長室に戻りながら、ジェイダスは妙に機嫌が良かった。その理由が分からず、周囲の生徒が不思議そうにしていると彼は言った。
「いや、すまないね。もともと交流研修など、それを提言した蒼空学園に恩を売るための協力で、特に期待はしていなかったのだが……。研修を名目に、仔猫のフリをした人食い虎を送りこんでくるとは、御神楽校長もたいそう面白い事をしてくれる。そう思ったら笑いが止まらなくなってしまったよ」
なお、この交流研修には蒼空学園の女生徒東重城亜矢子(ひがしじゅうじょう・あやこ)も、どういう訳か参加を申し込んでいた。
どうやら彼女は「薔薇の学舎は女人禁制であるため、女子の参加は不可」と書いた参加要綱を、よく読んでいなかったようだ。残念な事に、女性である亜矢子は研修に参加できなかった。
「しかたありませんわね。トラップについての質問は、先生が蒼空学園に戻られた時に、お聞きするとしましょう」
亜矢子はそう一人ごちた。
朱華が荷物を置き、寮の部屋を出てくる。
「学舎の中を見て回ろうよ。蒼空とは、かなり雰囲気違ってて面白そうだ」
「前を見て歩かないと危ないですよ」
周囲を珍しそうに見回す朱華に、ウィスタリアが心配げに言う。
朱華だって小さな子供ではないのだから、そこまで心配しなくてもいいのだが。その様子ははたから見ると、心配性の親のようだ。朱華はそれで、ふと思い出す。
「薔薇学の校長先生のインパクトが強すぎて忘れてたけど、さっき砕音先生、僕たちのことを、なんか悲しそうに見てなかったか?」
「そうでしたか? 気づきませんでした」
ウィスタリアは朱華しか見ていなかったようだ。
そこへ脇の廊下から、数人の薔薇の学舎生徒が現れた。
「砕音だって? そこの赤毛、さては研修生か」
現れた生徒の一人、シモン・サラディーは燃えるような赤髪の朱華を見て言った。
「そうだよ。蒼空学園の十倉朱華って言うんだ。よろしく」
だが朱華の屈託ない挨拶に、シモンは眉を寄せる。
シモンは、茶髪のボーイッシュな女の子と言っても通る綺麗な顔立ちで線も細いが、朱華に向ける態度はどうにも敵対的だ。
「フン、砕音アントゥルースの学校の生徒か。あんなのに引率されるなんて、運の悪い奴だ。これから楽しみにしておけって、あいつに言っておけよ」
朱華はなぜ彼がそんな事を言うのか分からず、バカ正直に返す。
「よく分からないけど、先生に何か言いたい事や思う事があるのなら、直接でも、手紙でも、電話でも、手段はなんでもいいから、とにかく本人同士がコンタクトを取るべきだろ?」
シモンはムッとした様子になる。
ウィスタリアは朱華と彼らの間に入り、言う。
「歓迎の言葉は後で先生に伝えておくとして、学内案内をしてくれるという訳でもないのなら、もう行ってもいいですか?」
言葉使いは丁寧だが有無を言わせない調子だ。ウィスタリアは朱華の背を押すように、その場を立ち去ってしまう。
朱華はシモンたちの様子にいぶかしみつつ言った。
「なんだか不穏な空気を感じるな。砕音先生、目を付けられてるみたいだから、側にいて守ってあげた方がいいんでなーい?」
ウィスタリアは、ふうと息をついた。
「あまり揉め事に関わって欲しくはないのですが……。仕方がないですね。朱華がそういうのでしたら」
シモンは砕音イジメに同調した者たちと手分けして、校内の砕音が寄りそうな場所に色々と罠をしかけていた。
彼らはもし、それで誰かに怒られても「罠実習の先生に、実際のトラップを提出して確認してほしかった」と言い逃れするつもりだった。
(これは……ここを切ればいいのかな?)
鬼院尋人(きいん・ひろと)は一人、特別教室の扉に設置されたトラップの解除に当たっていた。もっとも、ダンジョンにある侵入者撃退用のトラップとは違い、砕音に嫌がらせするためにシモンたち生徒が設置した簡単なものだ。
だがナイトの尋人には、罠の知識も解除経験も無い。ハサミで糸を切ったとたん、網が勢いよく彼の上に落ちてくる。
からみついてくる網の中で尋人がもがいていると、音を聞きつけて吸血鬼アイザック・スコット(あいざっく・すこっと)が教室に入ってくる。あやうく尋人を踏みかけて、アイザックは足を引っ込める。
「なんだ? って、尋人じゃないか。何やってんだ、貴様? おーい、響! ちょっと来てくれ!」
尋人は「かまわないでくれ」と止めるが、アイザックは聞く耳持たずにパートナーを呼ぶ。その声でアイザックのパートナー、薔薇の学舎生徒の瑞江響(みずえ・ひびき)が走ってくる。
「どうした? ……おや、鬼院? 大丈夫か?」
「オレのことはいいからさ」
尋人はそう言いながら、手足にからみつく網を外そうとする。響は制止に構わず、それを手伝おうとし、罠解除の道具が床に散らばっているのに気づいた。
「この道具、罠を外そうとしたのか。鬼院も先生へのイジメをひそかに止めようとしてるんだな」
尋人は答えなかったが、響は状況からそれを肯定だと受け取った。網を外すのを手伝いながら、自分の考えを述べる。
「イジメだの、ヘルが狙ってるだの、あまり大っぴらにしたい事ではないからな。そのような事、薔薇の学舎の名誉をおとしめるだけだ」
尋人はようやく網を脱出すると、罠解除用の道具を拾い集めると、無言のままに、そこを立ち去ろうとする。
響はさすがに彼が何も言わないので、いぶかしんだ。
「鬼院? どうかしたのか?」
「いや……いいんだ」
尋人は足早に教室を後にした。響は不思議顔でアイザックに聞いた。
「彼はどうかしたんだろうか?」
「さあな。罠にひっかかって、テンション激落ちなんだろ。もともと、あいつ、そんなにしゃべる方じゃなし」
実際には、母校のために密かに砕音を守ろうとする響のまっすぐさに、尋人はいたたまれなくなって、そこを去ったのだ。あまり話さないのは、自身を表現するのが苦手なためである。
「とりあえず、この網は処分しておこうか」
「だな。まったく、こんなモンを校舎のあっちこっちに設置するなんて、ヒマな奴らだぜ。とっとと飽きてくれれば、俺様もこんな事しなくてすむのによ」
アイザックはだらだらと網を巻き取って、ゴミ箱に入れる。響が、罠を支えていた紐や金具を取り外しつつ、たしためた。
「文句を言わない。俺としても、彼らに薔薇の学舎生徒として恥ずかしい行為は謹んでもらいたいのは同感だよ」
彼らの話し声を聞いて、廊下を歩いてきた剣の花嫁カノン・コート(かのん・こーと)は
(この人たちなら、大丈夫そうかな……)
と不安な面持ちで考える。恐る恐るドアをノックして開ける。
「あのう、砕音先生を探してるんだけど、どこにいるか知らないか?」
「先生なら、さっき職員室に行ったと思う」
「そうか。ありがとう」
響が教えると、カノンは礼を言って、そこを去った。カノンはほっと息をつく。
(貞操の危機にならなくて、本当に良かった……)
カノンはパートナーの水神樹(みなかみ・いつき)に「アントゥルース先生を守って」と頼まれ、薔薇の学舎にやってきたのだ。
とは言え、学舎の校風に身の危険を感じて、そういう事態になったら任務放棄してでも逃げようと思っていた。
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