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●第3章 あさぱにっ! 薔薇学の巻(皆川 陽 編)

 皆川 陽(みなかわ・よう)は今起きた事実を受け止めきれないでいた。
 だれもがなかなか受け止めきれるものではないのだが、それでも、陽は受け入れるよう思考を巡らせる。
 でも、はじき出されるのは否定的な言葉ばかりで、そんな自分が…悲しい。
 つうっと、涙が零れた。
 櫛を握り締め、見つめ返す大人しそうな少女を、涙でいっぱいの少女を陽は見つめ返した。
 見慣れた顔はほんの少しだけ丸みを帯び、少し大きなメガネの中の、レンズの効果で小さく見える瞳が動揺を表すかのようにかすかに彷徨う。焦点を結べば、事実を目の当たりにすることになる。でも、背を向ける気力も無い。
 陽の思考は別の方向へと彷徨いだす。
 食堂での出来事。
 そこで会った人に、ちょっとしゃべれる人がいたりすれば、陽は話しかけるようにしていた。何気ないことでもいい。ちょっとでいい。自分なりに進めようと、焦らないように頑張っていた。
 心の中では、「お友達って言って良いのかな……失礼かな……」と思っていたが、それは口にせず、普通に振舞う。
 先日、仲良くなったルシェール・ユキト・リノイエが側に来たら話をし、他の人とも交わって一緒に話そうとした。
 ああ自分はこの学校にいても良いのかな、ここは自分の居場所になるのかな……ってほんのり期待していたというのに。
 一体、この姿は何だろう。
「…っく…ふぇ…テディ〜…」
 陽はこみ上げる涙を手の甲で拭い、必死で涙を止めようとした。でも、できない。
「…ひっ、く…ここに…」

(居たいよぉ…)

 陽はごしごしと目を擦ると、洗面所から飛び出した。
 自分には豪華すぎると思った、部屋、調度品、食事、同級生たち。
 実はこんなにも居心地が良くて、手に入れたら手放せないものになっていたとは思わなかった。
 不似合い。そう思いながら、この学舎に育てられていた事実。独特の雰囲気と、学ぶ生徒の質の高さから、無縁のものと思いがちだったが、時々、上月 凛(こうづき・りん)城 紅月(じょう・こうげつ)のような新入生が触れ合って側にいてくれるのだ。何より、テディがいる。
 テディ・アルタヴィスタ(てでぃ・あるたう゛ぃすた)
 ボクの、パートナー。
 時々、ヨメとか言って変だけど、陽を一番に考えてくれる頼もしい味方だ。
 陽はテディの部屋に駆け込んだ。ついさっき、階下に降りてきた紅月やそれを覗いていた北条のことなど知りもしない。悩める人は自分だけではなかったのだが、それは罪ではないだろう。いたいけな少年にはどうしようもない。
「テディ〜〜! …っ…ふわぁぁ〜〜ん!…」
「陽!? なに!?」
 寝ぼけ眼で見つめるテディはヨメの様子にびっくりしていた。
 よく泣いたり、怯えたり、小さくなったりと、びくびくしていてリスのように可愛いヨメではあったが、今日の様子はいつもと違う。というか、胸が…。
 テディはヨメの胸を見た。
 ぷるんと揺れる胸。
 大きすぎず、小さすぎず、ちょっとだけ手からはみ出す感じの、美乳。しっかりテディの掌サイズ。
「な、なんだ…あれ? 陽はおんなのこ…あれ…おかしい」
 盛大にアホ毛おっ立てて、テディは回らない思考を回そうと頑張った。
「女の子になっちゃったよぅ! ここに居られないよー…」
「あ、えー…僕はべつに…女の子でも…あれぇ…んー…関係ないし。養うし。むしろ、陽だから」
「…ひっく…え? …なあに?…」
「好きだし、うん」
 テディは言った。
 ラブコメなら最高のシチュエーション。告白ターーイム☆ …なのだが、相手は陽だった。
 鈍感――こんなシチュエーションでは、全てを崩壊させる鈍器に等しい。

 さあ、いってみよー☆
 いつものやつを。

「テディ…パートナーだから…」

 陽は言った。

 あぁ、言っちゃった。
 
 鈍感天使は僕のヨメ。
 伝わらなくったって、テディには関係ない。
 南無(ちーん☆)
 今日もラブコメさようなら。


 テディは眠いのを我慢して起き上がり、準備を始めた。
 行く先は、空京。
 陽も涙を拭きながら、財布やらバックを持ってくる。
 胸が見えないようにシャツを着込み、尻尾をパーカーを腰に巻いて隠した。耳は帽子で隠す。騒ぎにまぎれて外に出た。
 食堂を横切る時に聞こえてきた声を聞いて、陽は足早に過ぎ去ろうとする。
 その場を離れると、テディに聞こえるぐらいの声で言った。
「城さん…女の子になっちゃったみたいだね。他にも居るみたいだけど…一番最初に見つかったの、田中さんだって」
「へえ〜。女になるなら、田中じゃなくって、紅月やルシェみたいなののほうがピッタリだと思うぞ」
「ちょっと…見てみたかったな」
「案外、今頃ルシェも女になってたりして」
 テディは笑った。

 テディと一緒に学舎を抜け出し、空京に向かった陽は「ルシェール君とも……もう会えないのかなぁ。」と途方にくれていた。
 行き交う女の子たちは華やかな衣装で街を行く。
 洋服を変えたくても、奥手な陽は店に入って服が買えない。
 時折、獣耳を生やした女の子が過ぎて行くのが見えた。今日は獣人が多いように思える。
 どこかにいるであろう友人が、空京のどこにいるか、それすらもわからない。携帯を眺め、陽は電話をかけてみるべきか、やめるべきか悩んだ。いたずらに相手の心を乱してはいけない。でも、会いたい。
 馴染み深い空京が遠くに思われて、呆然とする陽だった。