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第4章 夜の帳が下りる頃 5

 寝静まったシャムスの部屋の前に――神父はいた。扉の向こうで穏やかに眠っているであろう彼女を、まるで見通しているかのような瞳。
 左手には昼間……シャムスから借り受けた腕環があった。なんでも母と父が互いに身に着けていたものらしい。若かりし頃に町で買ったものだと自慢げに父が話していた。そんなことを、シャムスは言っていた。
 そっと、彼女は扉に右手をかざした。
 右手から、ぼんやりとした魔力が発せられる。そして同時に、来栖の双眸は紅く色を染めた。
 そして――

 部屋の中にいるシャムス。それに、隣の部屋にいるエンヘドゥ。二人の夢に出てきたのは、愛すべき両親だった。光の世界の中心にいる彼女に、父は……そして母は言う。
「シャムス。これからは、貴女が南カナンそのものになるのです。……使命を担うということは、責任もともに背負うということ。それを、心に留めておくのですよ」
 母は――シュメル・ニヌアは告げる。だがその表情が、穏やかに変わった。
「しかし、貴女は根を詰めすぎるところがありますからね。程々に……がんばりなさい。そして、ともにいる仲間を、友人を、信じるのですよ」
「母上……」
 シャムスは母に手を伸ばそうとしたが、近くとも、なぜかその手が届くことはなかった。
 父が、告げる。
「エンヘドゥ。自分の子供を愛さない親なんているものか。私はお前のことを、誰よりも愛していたよ」
「お父さま……」
 エンヘドゥの目に涙が浮かんだ。初めて聞いた父の正面からの愛の言葉は、彼女が最も欲していたものに他ならない。
 父は、最後にくすっと悪戯な笑みをこしらえた。
「しかし……可愛い服もいいが、言葉遣いを男前に育てすぎたな、姉さんは」
「ふふ、ですわね」
 互いに笑い合う両親を見て、双子の姉妹は幸せな気分だった。
「おっと、そろそろ私たちは行かなくてはな」
「もう、行かれるのですか……?」
「ええ。ほんの少し、戻って来ただけですからね」
 久しぶりに会った家族だ。別れは惜しい。だが、これはこの時限りの奇跡だと、どこかでシャムスもエンヘドゥも理解していた。両親が背を向ける。
「おっと、そうだ」
 ふと、父が振り返った。
「ロベルダにも伝えておいてくれ。お前は、最高の執事だとな」
 そして二人は……光の向こう側に消えていってしまった。

 扉から手を離して、魔力の残照を散らす。
 まったく、それにしてもドブネズミの近くにいたおかげで思いついた技だというのが、なんとも言い難い気分だった。
 と――部屋から離れようとしたところで、来栖は廊下の向こう側に天貴 彩羽(あまむち・あやは)が立っていることに気づいた。
「…………」
 予感めいたものでもあったのかもしれない。
 来栖は、彩羽が自分とともにいたことをどこかで知っていた。気配、それにその誰とも知らぬ遠きものを見た瞳が、ある女の視線を思い出させたからだ。だが、来栖はなにも言わなかった。そのまま、彼女の通り過ぎてゆく。彩羽もまた、声をかけるようなことはなかった。
 来栖が過ぎ去って、しばらく彩羽はその場に立ち尽くしていた。その視線は、シャムスの部屋を見ている。足が踏み出し始め、彼女の部屋の前に辿りつこうとしたとき――彼女は廊下の向こう側で自分を見ている女に目をやった。
「こんばんは」
「……ああ」
 彩羽がほほ笑みかけると、女――狩生 乱世(かりゅう・らんぜ)は憮然とした顔で答えた。彼女の隣には、パートナーであるグレアム・ギャラガー(ぐれあむ・ぎゃらがー)が立っていた。それだけではない。背後のほうでは、まるで自分を挟むようにアイン・ブラウ(あいん・ぶらう)が立っていることを彩羽は知っていた。
 乱世とアインは自分の正体を知っている。彩羽はそんな気がした。
「良い夜ね」
「そうだな。で……あんたは散歩かい?」
「……まあ、そんなところね」
 実際のところ、彩羽もはっきりとした目的があったわけではない。ただ、色々と思いにふけっただけに過ぎなかった。そして、かつて同じ“闇”のもとにいた神父のことが、多少気がかりだっただけだ。
 ある意味で――それこそがアインたちにとっては見えぬ部分であり、だからこそ警戒という形でこうして相まみえたのだろう。
 グレアムは感情を見せない。じっと彼女を見つめたまま、しかしわずかな挙動すらも見逃さない一糸の視線をしている。対照的に乱世のそれを見て、彩羽は彼女が自分に敵意を持っていることをすぐに理解できた。
 この旅の最中も、彼女の視線はずっと自分を見ていた。警戒、そして確実な敵意というものを孕んで。
 不思議な時間だった。彩羽が動かぬならば、彼女と相まみえてしまった乱世たちもまた動かぬ。佇むその時間。それが余計に不気味さと疑念を駆り立てたのか、しびれを切らして乱世が牙をむいた。
「てめぇ……何を考えてやがる」
「……何って?」
「決まってんだろうがッ! てめぇが今までやってきたことを、思い出してみやがれ!」
 我慢が効かなくなる。いっそ、彩羽に掴みかからんと言わんばかりの勢いだ。いや、もしかしたら、このまま彩羽の返答によっては、掴みかかろうと思っていたのかもしれない。
 だが、彩羽の瞳に映った色が、それをわずかに逡巡させた。
「そうね……思い出さないと、いけないわね」
 グレアムの眉が少しだけ動く。肯定と受け取ることもできるが、はっきりとしたことを言っているわけでもない。果たして……?
 互いに距離をとった奇妙な空間で、彩羽はふと廊下の窓から空を見上げ、その星の瞬きに――昼間の、お腹の中の子どもを愛おしく撫でる朱里の瞳を見た気がした。
「ねえ、アインさん」
「なんだ?」
 目を合わせることもないまま声をかけてきた彩羽に、アインはわずかな訝しさを見せた。
「子どもって、やっぱり、出来て嬉しいもの?」
「それは、な……もちろん」
「そっか。朱里さんも、幸せそうだったもんね」
 彩羽は彼女の笑顔を思い出した。
 自分がやってきたことは、正しかったのか? 自分がやってきたことは、本当に未来あることなのか? 様々な思いが、頭の中を巡る。ただ一つ、ただ一つ確実なことは――朱里の笑顔が見ていられないほど眩しくて、その向こう側にあるものを、自分が奪っていたのかもしれないという現実。
「それじゃあ、私はそろそろ寝るわね。おやすみなさい」
 彩羽はそう言い残して、その場を去った。
 アインは、最後に見た彼女の瞳の向こうに、哀しげな光を見た。それが真実か偽りかは分からず、隠されたものもまた、彼女たちはそれぞれが互いに計り知ることは出来なかった。