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あなたもわたしもスパイごっこ

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第5章 おそらくそれは世界最悪臭の指令

 シャンバラは南部、機晶都市と呼ばれるヒラニプラのどこかにて、1組の男女が互いにほくそ笑んでいた。
「……お帰り。首尾は?」
 男の方が何かをして戻ってきたらしい女にそう声をかける。
「……バッチリですわ」
 口の端を吊り上げ、女は右手の親指を立てた。
「そうか、バッチリか……」
「ええ、バッチリ……」
 これから起こるであろう出来事を想像すると、2人は笑いをこらえるのに苦労しなければならなかった……。

 シャンバラ教導団という組織は、現在は「国軍」と呼ばれているように、いわゆる軍隊である。軍隊である以上、軍人が存在し、その軍人たちは厳しい規律の下に行動している。
 だがその軍隊に所属する契約者と呼ばれる人種は、基本的には契約者であるというだけで士官候補生の立場を授けられ、ある程度の自由行動が許されている。もちろん軍事活動においてはその限りではないが、明確な戦争が起きていない、いわば平時の間はどこで何をしていようがその人物の勝手なのだ。無論、犯罪行為・迷惑行為に手を染めようものなら、いくら契約者といえども相応の罰を下されることになるのだが。
 そんな平時において、今では教導団(あるいは国軍)の正式部隊と認定されている【新星(ノイエ・シュテルン)】に属する少尉ゴットリープ・フリンガー(ごっとりーぷ・ふりんがー)は、自室のテーブルの上に置いてあるオープンリールのカセットテープデッキを発見した。どうやらこの少々引っ込み思案なところのあるドイツ人にも、「スパイ小作戦ごっこ」に参加する権利が与えられたらしい。
 ゴットリープは無感動にテープを再生する。
『……おはよう、フォン・フリンガー君。早速だが、君に指令を与える』
 聞こえてくる音声は、彼と同じ【新星】に属する中尉マーゼン・クロッシュナー(まーぜん・くろっしゅなー)のものだった。
『まず、部屋の中を見たまえ。冷蔵庫があるだろう。その中に自分のパートナーである早見 涼子(はやみ・りょうこ)が、ある缶詰を入れておいた。その缶詰は名前を口にするのもはばかられる強烈なもので、下手をすれば手榴弾が爆発する以上の大惨事となるであろう』
「……は?」
 マーゼンの言葉に不審な点を覚えたゴットリープが冷蔵庫に目をやると、そこには冷蔵庫を開けたまま、彼のパートナーレナ・ブランド(れな・ぶらんど)が怯え、硬直する姿があった。
『そこで君の使命だが、冷蔵庫の中に入っているその「名前を呼んではいけない缶詰」を取り出し、今いる建物から出て、北に500メートル直進した所にある交差点に向かい、その場で缶を開け、中身を完食することにある』
「中身を完食するのが指令って……、そんなにヤバいものなんですかね……」
『言うまでもないが、君もしくは君のメンバーがその缶詰から発せられるものに捕らえられあるいは殺されたとしても、当局は一切関知しないからそのつもりで』
「……?」
『なお、このテープは自動的に消去される。健闘を祈る……』
 疑惑の目をテープに投げかけ、ゴットリープはカセットテープを停止させる。
 テープは数秒後、煙を上げて静かにその姿を消した。
「で、冷蔵庫の中にあるその缶詰とやらは一体……?」
 冷蔵庫を閉めるのも忘れたのか、硬直しっぱなしのレナをゆっくりとどかせ、ゴットリープはその中身を確認する。
「ふむ、見慣れない缶詰ですね。っていうか、何かやけに膨張してるような……。えっと……?」
 その表面、ラベルに書かれてある文字を読む。発音からしてどうやらそれはスウェーデンの言語らしい。缶詰それ自体は直径20cm、高さ30cmほどの円筒形をしており、奇妙に膨れ上がっていた。というか、今にも爆発しそうだ。
「ね、ねえゴットリープ……、これって、どう見ても『アレ』よね……?」
 レナが絞り出すような声をあげる。ゴットリープはそれに対し、普段とは違う口調で応えた。
「確かに、こりゃ『名前を呼んではいけない缶詰』ですね……。あの野郎……!」
 実物を見るのは生まれて初めて。その外見からもしかしたら想像できるかもしれない凶悪さと、これまでに耳にしてきた数々の不吉な噂から「地獄の缶詰」の異名を取る「例のもの」が自分のところにやってきた我が身の不幸を呪う言葉を、ここにはいない上官に対して投げつけた。
 今頃その上官はゴットリープの姿を想像して、こう笑っているに違いない。
「ククク、実物を見るのは初めてか、ゴットリープ・フォン・フリンガー? ならば、この機会にたっぷりと味わうんだな……」

「とりあえず対処その1として、あの缶詰は冷凍庫の方に入れておきましたが、問題はここからですね」
「例の缶詰」が膨張していたのは、その中に酪酸、アンモニア、硫化水素等の混ざったガスが溜まっているからである。そのガス圧を下げるため、まずは缶詰を冷やす必要がある。それも冷蔵庫に入れる程度では意味が無く、冷凍しなければならないほどだ。ちなみにこの対処法はレナがインターネットの検索エンジンを使って探してくれたものである。
「名前を呼んではいけない缶詰」は世界的に有名なものであり、その最大の特徴は中に含まれる「悪臭」にこそある。缶詰の中に入れられた食材は塩漬けのニシンだが、とある特殊な発酵技術を用いるために、カビの生えたチーズや銀杏の実など到底及ばない臭気を発するようになり「世界で最も臭い食べ物」と呼ばれている。「腐敗」ではなく「発酵」であるため食物としては問題は無いが、好き好んで食べたがる人間はそうそういない。産地であるスウェーデンの者でさえ、賛否両論あるほどなのだ。
 確かに「例の缶詰」は食品であって毒物ではない。食べることそれ自体は問題無いことから考えて、一応「実行可能な指令」と呼べなくはないし、犯罪性も無い。「食品」である以上、警察も、
「『例の缶詰』を食べた罪で逮捕!」
 などと叫ぶわけにもいかないだろうが、それでも1歩間違えば犯罪以上の犯罪になってしまう。シリアルキラー(猟奇的殺人鬼)並の連続殺人にも発展しかねない、というのはさすがに言いすぎだが……。
「ほんとクロッシュナー中尉も無茶苦茶な指令を送りつけてくれたものですね……」
 どちらかといえば今すぐにでもヘルプコールを入れて放棄したいところだが、腐っても自分はシャンバラ国軍の軍人であり、栄えある【ノイエ・シュテルン】のメンバーである。任務は果たそうとゴットリープは決意した。
「いや、実際これは放棄していいレベルよ。ここを出て500メートル離れた交差点で開けて食べろだなんて、さすがに迷惑防止条例法に引っかかるわよ」
「とはいえ、やるしかありません」
「……まったく。それで、この後の作戦は?」
「冷凍庫で冷やすだけ冷やしたら、できるだけ早く現地に運びましょう。ヘリファルテを使いたいところですが、飛んでる最中に衝撃を与えてしまっては意味がありません」
「徒歩、ね」
「現地に着いたら、通行人がいないことを確認した上で開けます。そして逃げます」
「しばらくしてから近づいて食べるわけね」
「食べるのは僕1人でやります。レナには倒れた僕を運んでいただきますので」
「……それまでは通行人をできるだけ遠ざけるようにするわね」
「お願いします。では作戦が決まったところで行動開始といきましょう」
 互いに、自ら決めた行動に移る。ゴットリープは「例の缶詰」を冷凍庫から取り出し、衝撃を与えないようにその場からゆっくりと運び出す。一方でレナは、缶詰の中身を食べるための食パンを買いに行く――現地ではパンに挟んで食べるのが一般的とされているのだ。
 こうして平時の軍人による「ミッション・ポッシブルゲーム」が始まった。

「はぁ……、はぁ……! や、やっと、ここまで来た……!」
 それからというもの、ゴットリープは気が気ではなかった。
 確かに「例の缶詰」は冷凍してガス圧を下げた。だが7月下旬の炎天下の中を500メートル分も歩くのである。人間の歩行速度はおよそ時速4キロとされており、通常なら500メートルの距離を歩くのには7〜8分あればいい。だが缶詰に衝撃を与えないように慎重に歩くとなれば、その倍の時間はゆうにかかる。結果的にゴットリープは、目的地に到着するまでの約15分の間「例の缶詰」を持ったまま、太陽熱に晒し続けたこととなり、下がったはずのガス圧は再び上昇傾向にあった。
 1斤の食パンを持ったレナは、そんなゴットリープの後ろから小型飛空挺で静かについていった。いくらパートナーのためとはいえ、やはり「名前を呼んではいけない缶詰」には近づきたくない。いざとなればパートナーを見捨てて逃げるつもりでいるのだ。普段はパートナーを実の弟のように可愛がるレナだが、さすがに「例の缶詰」には勝てないようだ……。
 膨張気味にある缶詰をゴットリープは、交差点の中心に置く。時間帯がよかったのか、幸いにして人通りはほとんど無く、これなら缶詰を開けたところで被害が出ることはほぼ無いだろう。
「では、そろそろいきましょうか……」
 ゴットリープがその手に缶切りを握り締める。レナはすでに退避完了だ。
「僕はまあいいとしても、せめて通行人の方々をヴァルハラに送るような真似はしないでくださいね……」
 どこにいるともしれない神に祈りながら、ゴットリープはその缶詰を「起爆」した。
 穴が開いた瞬間「例の缶詰」はその体から悪魔を具現化したかのような臭気を吐き出した。ガスが飛び出してからコンマ数秒後にはゴットリープもその場から離れた。膨らんだ身を少しずつへこませ、「例の缶詰」は次第に大人しくなるが、飛び散ったガスはしばらくその場にとどまっていた。
「……どうやら、抜けはしたようですね……」
 指令内容は「缶詰を開ける」ではない。その中身を完食することである。動きが無くなった缶詰に近づき、ゴットリープは痛む目と鼻を労わりながらその蓋を完全に開けた。
「ぐうっ……、なんでこんなのが食品として売られているのやら……!」
 レナから数枚に切られた食パンを渡され、ゴットリープは缶詰の中身をそれに挟み、意を決してそれを口に運ぶ。
「〜〜〜〜〜!!?」
 よく言えば珍味、悪く言えば毒物相当のそれを咀嚼し、飲み込む。臭い。いくらなんでも臭すぎる。こんなものを食えとは、マーゼン・クロッシュナー中尉は一体何を考えているのか!
 ゴットリープが生き地獄を味わっている最中、レナも周囲を奔走していた。
「こほっ、こほっ……、な、何なのよこの臭いは〜!?」
「あ〜、そこの百合園の制服持った人! 今はこっちに来ちゃダメ! すぐに離れて〜!」
 なぜか百合園女学院の新制服を持ってうろついていた、葦原明倫館の生徒らしき女性を遠ざける。
「えっと、次はこっち方面……。うわあっ!? ちょ、何よ、この臭さは!?」
「だあ〜、そこのヘリファルテ! 早く逃げて〜!」
 唐突にやってきた小型飛空挺ヘリファルテの操縦者らしき女が、「例の缶詰」の臭気にハンドル操作を誤りそうになる。もちろんそれもレナは遠ざけた。
「あうううう……、マジに呪いますよ、中尉〜……」
 缶詰の中身をパンに挟み、口に放り込む。臭気が涙腺を刺激する中、ゴットリープは我が身の不幸を謳歌していた……。

「ははははは! 見ましたか涼子! あのゴットリープの姿!」
「た、確かに面白いですけど、大丈夫なんですか、あれ……?」
 必死の形相で「名前を呼んではいけない缶詰」の中身を食すその姿を、遠くの建物の屋上からマーゼンと涼子はじっくりと観察していた。ゴットリープたちがきちんと指令を遂行しているかどうかを確認に来たのだろう。遠くに離れていたのは、もちろん缶詰の臭気を味わいたくないからだ。
「まあ彼も新星の一員なのだし、これくらいは問題無いでしょう。それに契約者なのだから、たかが缶詰1つで死ぬようなことはありませんしな」
 だがマーゼンとしては1つ不満があった。せっかく「例の缶詰」を用意したというのに、その臭気を浴びる予定の一般市民がほとんど通りがからなかったことである。「1歩間違えば大惨事」というのを期待していただけに、この部分に関しては落胆の色を隠せなかった。
 ちなみに、交差点の真ん中で「例の缶詰」の臭気を漂わせるというのは、いわゆるテロに分類されるのではないのかという指摘は絶対にしてはいけない……。
「まあ、あのゴットリープの姿を見られただけでも、今回は良しとしますかな」
 いくら契約者が頑丈にできていたとしても、あの缶詰の中身全てを腹に詰め込めば、しばらくの休養が言い渡されるであろう。いっそのことそれを「ご褒美」にしてやろうかと、マーゼンは喉の奥で笑った。