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魔道書はアレクサンドリアの夢を見るか

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魔道書はアレクサンドリアの夢を見るか

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第10章 空間修復


 荒涼とした大地に、静けさが訪れていた。
 地平の果てに、黒い靄の影はもう見えない。

 数多の『虚無の手』が同士討ちを始めてから、二十数分ほどたった頃だったろうか。
 突然、すべての手が消えた。
 それまで激しくぶつかり合っていたもの、同士討ちの罠に嵌らず周囲の混乱を越えて図書館に向かおうとしていたもの、同士討ちに誘導するために挑発する契約者を追っていたもの……すべてが消えたのだ。同士討ちが始まってから、このまま悠久のカオスに突入するかと思われた乱戦の大地の上から。戦って一時的に形を解除するのとは違い、時間がたっても再び空中に靄が再出現することはなかった。
 空気そのものから、何か「憑き物が落ちた」ような、それまでになかった清浄感が感じられ、静寂はもはや不気味な予兆を感じさせることはなかった。
 今までのことが夢だったかのように、出し抜けにすべてパッと消えたのだ。


「『歴史』が手を引いた……のでしょうか」
 その変化を感じ取ったリピカが呟くと、頭上から返答があった。
――恐らくな。……さっき、接近していると思ったものも……消滅したようだ……
 その声は苦しげに掠れていて、リピカはハッとなる。
「書龍!? 大丈夫ですか!?」
 図書館内部に増殖した平行世界で館の空間が崩壊するのを抑えるため、相当な力を消耗してしまっているのだ。そうと察して慌てるリピカの方を向いて、書龍は低い声で告げた。
――大丈夫だ……だが、我の限界は近い……
――もはや猶予はない。すぐにも、空間を修復しなくてはならぬ……

「どうやって!?」
――案ずるな、我の姿は今より消えるが、すべての蔵書が力を合わせれば速やかに修復は行われる……

――しかし、内部の空間が一気に変動する……中にいる契約者たちは速やかに退避させられよ、危険だ……

「どうすれば……! この館には館内アナウンスの設備はないと聞いています……!」
――一部の書物が警告を発するであろう。せめて、地上階の扉をすべて開放し、そこから呼びかけて誘導されよ。司書と共に……



 やがて、図書館全体が震動し始めた。
 何か他の力に揺さぶられるのではなく、自発的に震えだしたようであった。
 最初は小さく、徐々に大きく。
 まるで、その身についた何かを振るい落とそうとするかのように。




 塔の上では白颯が吠えていた。首に付けられた包帯が引かれるのを感じたのだ。
 程なく、震動は塔の上まで伝わって響いてきた。
「……とにかく行こう、俺と一緒に」
 パレットは、『万象の諱』の手を取ろうとした。
 だが、ばちっと何か、電気が走ったかのように弾かれた。
「……『万象』……?」

 パレットは目を見開く。
 ――図書館の、空間修復作業はもうすでに始まっている。
 今や、パレットと『万象の諱』との間には、目に見えない壁が立ち塞がっていた。

「今、君が見ている俺は幻だ、『還無』。
 ここが、君が来たのとは別の次元だということは分かっているだろう?
 今ここにいる俺は、その時空に属する存在。
 そして……君のいる時間にもう、『万象の諱』は存在しない」

 その『万象の諱』の言葉に、パレットは絶句した。
 だが、すぐに、その言葉の裏の何か含みに気付いた。
「……では……?」
「……もうずいぶん昔。ここにいた時俺は、ある悪魔に召喚された」
「悪魔!?」
「殺気立たなくていい。……頭の良い、しかし変わり者の御仁だった。
 破壊にも、世界の破滅にも興味を持たず、ただ自分の生業のためだけに俺の知識を求めた」
「生業?」
「魂で鎧を作る悪魔だ。
 ――俺は、その悪魔によって鎧になった」
 パレットは再び言葉を失った。
「嘘だと思うか? ……俺も、そんなことができると思わなかった。
 だがその悪魔は、『霊的存在』なら魂と同じだと言って……本当にやり遂げてしまった」

「そうして俺はずっと前に、パラミタに渡ったんだ。霊的存在ではなく、実存する『魔鎧』として」

「だが、ずっと記憶の欠落が心に引っかかったままで……そのせいかずっと存在が不安定で」

「気が付くと再びこの【非実存の境】に舞い戻ったり、またパラミタに戻ったり、その繰り返しだった」

 青年の姿の『万象の諱』は、淡い笑みを浮かべていた。

「でも、君を思い出せた。
 君の記憶を取り戻し、空白を埋める欠けていたピースを取り戻して、俺の存在もまた安定を取り戻せた」


「そしてこれだけは君に伝えておかなければいけない。
 もう、『万象の諱』は存在しない、ゆえに『万象の諱』の知識を使いこなすことの出来る者が出現することもないんだ。
 ……もうこれから、君は、俺のために命の危険を覚悟する必要はないんだ!」

「それが伝えられて、こんなに嬉しいことはない」


「……行ってくれ、『還無』。きっと、パラミタで再び会える」

 

 白颯がパレットのジーンズの裾を咥えて引く。
 パレットの目の前で、『万象の諱』の姿は薄れていき……消えた。 







 図書館は、半刻ほども震動を続けただろうか。
 その間、時空分断で空間を隔てられた蔵書たちは、まるで手を伸ばし合って繋ぐように、それぞれの力を仲間たちに向かって伸ばし、時空の境を越えて繋がり合っていった。
 その結びつきの間で、段差を埋めるように、時空の分断は静かに、しかし絶え間ない力で修復されていった。

 そうして、完全に元の姿を取り戻したのだった。





 震動とともに急を告げて叫び出した、一部の蔵書の声を聞いて事情を悟った契約者たちは、震動の次第に大きくなる図書館から、しかし誰一人異空の変動に巻き込まれることなく脱出した。
 その中にはパレットの姿もあったが、『万象の諱』の姿はなかった。
 脱出後、どこかぼんやりした表情で図書館の前に座り込んだパレットから、事の次第を聞いたクラヴァートもまた、複雑な表情を浮かべた。

「私はまだ着任して間がなく……蔵書の正式な目録もまだない、その中に『万象の諱』がここにあるかどうか、きちんと確かめてもいなかった。
 言い訳に過ぎないが、まさか、そのような経緯を辿っていたとは全く知らず」
「いえ……どのみち、ここに来なければ俺は『万象』に会えなかった。呼んでくれて感謝しています」
 パレットはそう言った。
 だが、どこか上の空の口調だった。

 慕わしくも恐れていた、我が半身。

 長い年月を越えた邂逅を果たし、様々なことが明らかになって。
 自分がずっと恐れていた事態が、もうすでに起こりえないものになっていたのだと知って。

 解放されたという感覚以上に、なんだか、何もない場所に放り出されたような気分だった。

 『万象の諱』が存在するからこそ、自分という書には役割が、アイゼンティティがあった、だが今は……





 そのパレットに、鷹勢が歩み寄った。
「パレット、これを……」
 差し出されたのは2本の包帯。
 1本は白颯の首に巻いたもの、もう1本は空中庭園に向かう時に異空に迷い込まぬ道標代わりに柱に巻いたものだった。
(あの緊急脱出のさなかに、回収してくれてたのか)
 パレットは黙って、それを受け取った。
「それで、あの、パレット……」

 ――少し前に、ダリルが、包帯を握りしめた鷹勢に『禁書閲覧許可証』を渡して囁いたのだった。
(「あの時、それまで危険が身に及ばぬよう退避することを勧めていたパレットが、その包帯を君に握らせた。
 君が白颯の主人だからということももちろんあるだろうが、自分の所有物で命綱ともなりうるものを託したんだ。
 それだけ……信頼していた、ということだとは考えられないのか?」)

「パレット、僕と契約してほしい」
 禁書閲覧許可証を握った手を自分の胸に押し当て、鷹勢は言った。
 パレットは大きな丸い目で、鷹勢を見る。

「契約して……そして一緒に、イルミンスールに戻ろう。
 そこには、君を慕うたくさんの仲間が待っている。
 それだけじゃない、君に会えたことを喜んでいる『万象の諱』……だった魔鎧も、また君と再会する日を待っているだろう。
 君はそういう書なんだ。そういう風にいろんな人から望まれる“ひと”なんだ。
 僕も君と一緒にいろんな書に、いろんな人に会いたい。君のように、いろんな人に望まれる人になれるように」


「……受けてもいいんじゃないかな、パレット」
 少し唇を綻ばせて、クラヴァートが横から口を添える。
「私が君をここに呼んだのは、もちろん『万象の諱』のことがあったからだったが、実は心の隅では少しだけ、私自身が君に会いたいという思いがあった。
 ……私が心を失くした異形であった時、ずっと傍で心を砕いてくれた君とね。

 彼の言う通り、君はそういう、そんな風に思われる“ひと”なんだろうな」


 それこそが、君のアイゼンティティ。


 パレットの視界の片隅で、リピカが、穏やかな表情を浮かべて頷く。


「俺と……」
 パレットは、右手で受け取った包帯を左手に持ち替えた。
 そして、灰と肌色が斑になった右腕を恐る恐る、伸ばした。

 差し伸べられたその手を、鷹勢は強く握った。





 それが、契約成立の瞬間であった。