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魔道書はアレクサンドリアの夢を見るか

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魔道書はアレクサンドリアの夢を見るか

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第8章 遠くに立つ影


「――『万象の諱』だ」
 固い息を飲んで、パレットが呟いた。
 セレンフィリティとセレアナも、その言葉を聞いて緊張が走った。
 塔の天辺の人影。そこから視線を動かそうともせず、パレットはそれが、捜していた『万象の諱』だと言う。
 人の姿なのは何故か、すでに魔道書化していたのだろうか。
 それは分からないが、彼の半身ともいうべきパレットには、強い確信があるようだった。

「何を……しているのかしら」
 セレアナも、その人影にじっと視線を注いだまま、疑問を口にする。
 見たところ、人影は微動だにしない。
 『虚無の手』が湧いてくる地平線の方に顔を向けているようだが、その表情はここからは窺えない。
 何を見ているのだろう。
 虚無の手が湧いてくる方に顔を向けて……

「『万象の諱』!!」

 声を限りに、パレットは叫んだ。

 だが、それは塔の天辺に届くことなく、空中に吸い込まれるように消える。
「駄目だ……」
 パレットは、肩を落とした。


「この場所と、あの塔の天辺との間には、何か深い……時空の亀裂があるみたいだ」


 セレンフィリティは瞠目した。
 見上げる塔の天辺。この位置からそこまでの間に、何も変わったものは見えない。
 ただ、確かに何か「決定的に、空気が違う」とでもいうような、奇妙だが否定のできない違和感を、彼女もセレアナも感覚的に察知していた。
 つまり、塔の上の人物は、この目に映っていながら時空に隔てられた遠い場所にいる。
「……今までと同じようにはいかない。これは……簡単に越えられる亀裂じゃない」
 灰と肌が斑模様をなす左腕を右腕で引き寄せ、パレットは力なく呟いた。
 声すら届かない、絶望的な亀裂。
 奇跡的にそれを乗り越えられたとして、ここから塔の上まで高さにして十数メートルはあろうか。どうやって、そこに行く。


「彼はあそこに立って、虚無の手をおびき寄せようとしている」
 パレットの声には張りがなかった。
 強い眼差しで必ず『万象の諱』を捜し出すと胸に決め、ここまでやって来た……その姿が嘘だったかのように、失望で萎れている。
「――刺し違える気なのかもしれない」

「諦めちゃダメよ! まだ手段はあるわ、考えましょう!」
 叱咤するようにセレンフィリティが叫ぶ。
 ――ここまで来て最悪の結末など、見たくはない。
 パレットはぼんやりした目で、セレンフィリティを見た。
「考えましょう、きっと何か――」


「パレット――!!」


 突然、声が響いてきた。
 見ると、3人が出てきた庭園の出入り口から、駆け寄ってくる一団が見えた。
 ルカルカとダリル、それに鷹勢と山犬姿の白颯である。
 少し遅れて、北都とソーマもやって来た。

 鷹勢の姿を見てパレットはハッとなったようだが、すぐには口を開かなかった。
「ここまで……危険じゃなかった?」
 セレンフィリティが駆けつけた一同に尋ねると、ルカルカはカードを取り出して見せた。
「えぇ。でも、説明は聞けたから、警戒することができたわ」



 ――館内の捜索を続けているうちに、ルカルカたちは、包帯を結び付けられた柱を見つけた。
「……これは、パレットのものだな」
 サイコメトリでダリルがそう判断した。
「何かの目印としてここに結びつけたようだ」
「じゃあ、パレットはここに来たのね」
 そこへ、蔵書たちからの情報を収集して辿り着いた北都たちもやって来た。正直なところ、『万象の諱』に関する情報は少ない上に書によってまちまちで、最初に聞いた『保護の魔方陣』なるものがある部屋は、リピカに忠告された危険な異空の向こう側にあって到達できなかった。「そこに『万象の諱』が確実にあるとは限らない」と話す書物もあったので、2人は取り敢えず位置だけを覚えて「『万象の諱』を捜しているはずのパレット」を捜す方にシフトチェンジしたのだった。こちらは、蔵書の情報もそこそこあり、足跡をたどるのは難しくなかった。
 ルカルカらに出会った北都たちは、リピカから聞いたことを説明して、彼女らにカードを渡した。
 一方、包帯は部屋の向こうへと続いていた。
「この先に行ったようだな。しかし……」
 ダリルは言葉を切って、足元で歯を剥いて唸る白颯を見た。白颯の目は、包帯が続く先に向かっている。
 この先が危険であるということを、体で皆に伝えているのだった。
「鷹勢……」
 ルカルカが声をかけると、鷹勢はじっと、パレットの包帯を見つめていた。
 危険なことは分かっているが、この先にパレットがいる。退くことは考えていないという眼だった。
「……包帯という、目に見える道標が残っている。後は、特に危険な個所をいかに上手く迂回するかだ」
 やはり諦めることを考えていないダリルがそう言い、指に挟んだカードを閃かせた。
 後はその言葉通り、慎重に包帯を目で追いながら、進むだけだった。書物がある場所では、カードも役に立ったが、何といっても危険場所を先回りで察知する白颯の獣の感覚が皆を助けた。
 白颯についていきながらその行動を見ているうちに、超感覚のスキルを使う北都も彼が反応する空気を理解し、それがますます危険個所の回避を効率的にした。
 そして最終的に一行は、空中庭園の出入り口に辿りついた。包帯は、終着を示すように、この扉の取っ手に結ばれていた。



「じゃあ、あの場所には行けない……と」
 空中庭園に集う全員が、西の塔の天辺を見つめている。
「構造上、建物の内側からあそこに至る手段はなさそうだ。あの下にある窓……あそこが建物としての『最上階』だろう」
 ダリルは、塔の全体像を見ながら言う。
 つまり、そこに至るには塔の外部から、梯子などといった物理的手段か飛翔などのスキルを準備して挑まなくてはならないということだ。
 普通なら、この空中庭園からなら、飛翔の手段さえあれば一っ跳びだろう。しかし今は、底知れない時空の断層が横たわっている。
(ということは彼は……? 時空の断裂が起こる前に渡ったのか、それとも……)
 沈思するダリルをよそに、ルカルカたち他の面子はそれぞれに声を張り上げ、塔の上の人影に呼びかける。だが、無駄だった。
「まるで見えない壁があるみたいだ……音の響きが途中で遮断されてるのが分かるよ」
 空中を見つめて、北都が呟く。

「……皆、ここを離れた方がいい」
 一人、暗い顔で佇んでいたパレットが、おもむろに口を開いた。
「パレット……?」
「『万象の諱』を止める手段はない……もし彼の真の破壊力が解き放たれたら、この場所が無事だという保証はない。
 そしてもしかしたら、それを阻止する力が働き連動的に俺の力もまた作動するかもしれない。
 その時何が起こるか……俺にも分からない」

「ここまで来て、諦めるのか!?」
 ひときわ大声を出したのは鷹勢だった。
 今まで、大人しめのイメージの少年だっただけに、周りは不意を突かれた格好で少なからず驚いた。
「……仕方ないんだ。ここまで来て……ここまで来たのに……手段がない」
 パレットは伏し目がちに答える。
「まだ早いよ! 君はここまで、彼との絆に引かれてきた。同じ絆を、『万象の諱』だって感じているはずだ」
 援護するように、ルカルカが言葉を添える。
「鷹勢はね、危険を承知で、パレットのことが放っておけなくてここまで来たんだよ」
 パレットは顔を上げ、鷹勢とルカルカを交互に見やった。
「だから、『万象の諱』のためにここまで来たパレットの気持ち、よく分かってるはずだよ。
 分かっていて、簡単に諦めちゃダメって、言ってる」
 ルカルカの言葉に、パレットは何か感じるものがあったような表情を浮かべたが、言葉はない。
「……パレット、僕は」
 口を開いた鷹勢の声は、静かで、しかし何か据わった強さが底にあった。

「僕は、君と『万象の諱』の間に起こりうるかもしれない悲劇について、何も出来る事はないかもしれない。
 ……けれど、もし、君の心を休めることができるなら、僕は……
 君と『万象の諱』、両方と契約したいと思っている」

 パレットは瞠目した。
 その口が否定的な言葉を出すより早く、鷹勢は自分の言葉を継ぐ。

「解ってる、君に忠告されたこと、危険な書と関われば自分にも危険が及ぶって。
 でも、あの書は君の大事な半身で、あの書の安全が君の安らぎにも繋がるのなら……
 危険も、苦悩も僕はともにしたいと思っているんだ。
 失われ、霊的存在だけになってしまった書と契約できるのかどうか、それは分からないけど……」




「――それならますます、『万象の諱』に会いに行かなくてはならないな」
 ダリルがおもむろにそう言った。
 鷹勢とパレットの視線を受け、ダリルは塔の天辺に向かって指をさす。


「この時空の亀裂を突破する術はあるかもしれない。

 ……特に亀裂が浅い部分を狙い、体が異変を来すより早く、ごくごく短時間で通過する方法だ。
 その浅い部分だが、さっき、全員が声を上げた時、途中で響きが遮断されるように消えただろう。
 その中でも“一番最後まで音が消え残る部分”をめがけて飛んでいけば、そこが最も亀裂の浅い箇所のはずだ」


「つまり、もう一度みんなで声を出すのね。亀裂の浅い部分の場所を探すために」
 ルカルカの言葉に、ダリルは頷いた。
「飛ぶのは【空飛ぶ魔法↑↑】でサポートする。けど、音が消える最後の場所を聴き当てるためには、出来るだけ鋭い聴覚が必要……
 それに、『万象の諱』の前に立つのは誰でもいいわけじゃない。となると、だ」
 ダリルはルカルカから視線をパレットに移し、それから白颯を見た。
「……どうかしら、鷹勢。白颯、出来そう?」
 ルカルカの問いに、鷹勢は足元に座る白颯の背を撫でながら、
「……やってくれる?」
 そう訊くと、承服の印というように白颯は首を低くして尾を振った。
「そうすると、白颯がパレットを咥えて飛ぶのがいいだろう。人型になるより原型の方が、力も敏捷性もより発揮できる。
 パレット、本型に戻れるな?」
「僕も行きます」
「いや、」
 パレットが口を挟んだ。
「あの場所、本来は人が立ち入るようにできていないところだから、一人立つのがやっとだ。
 何人もぞろぞろ行ったんじゃ、虚無の手とか『万象の諱』の力の開放以前に足場の狭さで危険だと思う」
「けどっ」
 鷹勢が反駁する前に、パレットは、自分の右腕の包帯を外した。やはり、その下から、灰と地肌がまばらになった腕が現れる。
 その包帯を、パレットは白颯の首にゆるく結びつけた。そして、もう片方の端を鷹勢に差し出した。

「これは俺の力を宿した包帯で、必要に応じてかなり長く伸びる。少なくともここから塔の上までは余裕だ。
 貴方の良き相棒を拝借して面倒をかけてしまうけど、いざという時のためにこれを預けるから、ここで待っていてほしい。
 きっと、白颯と一緒に……『万象の諱』を連れて、戻ってくるから」

 鷹勢が包帯を受け取ると、パレットは頷き、本来の書物に姿を変えた。
 石畳の上にパタン、と落ちたそれを、白颯が咥えて拾い上げる。
 包帯……異なる空間に突入することになる彼らの万が一の場合を支える「命綱」を、鷹勢は一度見て、ぎゅっと手に握った。

「どこまで通じるか分からないけど、異空に突入する瞬間には【ロイヤルドラゴン】で援護するわ」
 ルカルカが言う。
「じゃあ、あたしたちはさっきみたいに、あの塔の天辺に向かって発声すればいいってことね?」
 セレンフィリティが確認するように尋ね、ダリルは頷いた。
「頼む」
「分かった」
「僕らも頑張るよ」
 北都も請け負う。

 そして全員の目が、〈西の塔〉の天辺に向かう。
 まだそこに人影はある。