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器に夏を見る


 世間は相変わらず騒がしく、お嬢様学校である百合園女学院もまた例にないことがあって、普段の落ち着きが失われていた。
 その喧騒から遠く噂話も聞こえてこないはずの百合園女学院の茶室にあっても、それは変わらない。
「静かに。このような時こそ、心を乱さず、美味しいお茶を召し上がって頂く気持ちを忘れ、わすれれずに……」
「先輩、噛んでますよ」
「……こほん。忘れずにね」
 部屋に微かに笑いが広がる。茶道部の先輩方も後輩も不安の中で落ち着こうとしているのだと、伝わってくる。
「あの……」
 姫宮 みこと(ひめみや・みこと)は遠慮がちに手を挙げた。
「どうしたの、姫宮さん?」
「ボク今度、ひさしぶりに時間が取れそうなんです。だから茶席を開きたいと思って」
「それは素敵ね。どうぞ、何時がいいかしら?」
 先輩は茶室の利用状況を記したノートを取って来ると、みことと一緒に、茶席の予定を立てていった。


 七月の、次第に暑さが増して本格的な夏の訪れ感じるその日、みことを亭主とした茶席が百合園女学院の茶室で開かれた。
 みこと以外の部員は、水屋でお菓子を作ったり洗い物を手伝ってくれたり、お菓子を運んでくれたりしている。
 着物姿のお嬢様方がとても丁寧にお菓子を出してくれるので、早乙女 蘭丸(さおとめ・らんまる)の礼はどこか角ばってしまった。
(正直言って、こういう堅苦しい席は苦手なのよね〜)
 正座している足の指が、そわそわと動いている。痺れないうちに終るといいのだが……。
 みことは慣れたものだろうなと顔を上げると、普段と違うみことの真剣な顔がある。
 パートナーのことはそれなりに知っているつもりだが――もっともっと隅々まで知りたいと思っているが――気軽に助けを求められるような雰囲気ではない。
(それにこういう時のみことって、凛としててちょっと近づきにくい感じなのよね。普段の弱気な雰囲気と違って)
 既にちょっと注意力散漫気味になっている蘭丸だが、それも仕方ない。
 一応、事前に初心者向けの席で、堅苦しい作法は不要と聞いてはいたものの、茶席というのは持ち物を外したり(金属とか)、服装に気を遣ったり(これも制服で良かった)、待合室があってやっとここに通されたり。座る順番であったり……。簡単に省略してる、ということとその説明自体が、既にややこしかった。
「順番は気にせず、ご自由に召し上がってください」
 みことが、客たちの目の前に置かれた菓子を示して言うその姿も堂々としているな、と蘭丸には見えた。
 黒い瞳と白い肌が、やはり日本人で、着物が良く似合っている。絽の翡翠の色無地と、波の刺繍が入った白い帯が涼しげだ。
 菓子器に盛ってある菓子も夏の川を象っており、淡い水色の中に赤い金魚が気持ちよさそうに泳いでいた。
 金魚が川から飛び出ないように、落っことさないように、足がしびれてこけないように、蘭丸は慎重に菓子を自分の懐紙に取った。
 お菓子を頂くと、遂にみことの出番だ。
「夏もいよいよ本番ということで、今回の趣向は冷茶にしました」
 みことの前には良くテレビで見かけるような大きな炉はなかった。家庭にあるような急須とガラスのお茶碗が布の上にきれいに並んでいる。
 みことはお茶っ葉を多めにはかって、常温のお水を急須に半分入れ、ふたをして5、6分待つ。
 頃合いになったら、急須に氷を目いっぱい入れる。水を半分にしたのはこのためだ。
 そうして、急須のお茶が氷となじむまでの間、氷できんきんに冷やした茶碗を拭いて待つ。
 その間に、客の緊張をほぐすために、言葉をかける。
「そんなに気を使わなくていいですよ、今日は初心者の方ばかりですから」
 蘭丸も薄々感じてはいたのだが、今日の客は皆そわそわしたり、緊張したりしていたのは蘭丸と同じだった。百合園の制服を着て、それでいて茶道部ではない生徒たちらしい。
 茶道部とはどんなものだろう、とやってきた客が多い。蘭丸と同じように茶道部に友人がいるのかもしれない。
「足がしびれるようでしたら崩してください。お隣の方とお話をしても大丈夫ですよ」
 みことの凛とした中に普段の柔らかいところが見えて、蘭丸はいの一番に声を上げた。
「も〜、早く言ってよみこと〜」
 すってん、と蘭丸は転がった――かと思うと何もなかったように一瞬にして元の姿勢に戻ると、みことがいれたお茶に早速手を伸ばした。
「ああおいしい。きんと冷えてるのに水っぽくなくって。お茶の味がすっと全身に染みわたるわ〜」
「それは良かったです」
 堅苦しい席は苦手と思い、普段は別のパートナーを呼んでいたが、喜ばれるなら嬉しいものだ。
「……では、茶席について少々お話させていただきますね。皆さんに先ほどお待ち頂いた寄付(よりつき)にありましたのは……」
 みことは、掛け軸に書かれていた詩や床の間の花、器、そういったものひとつひとつを軽く解説していく。
 それぞれに由来と意味があることは蘭丸には分かったが、正直なところどれもが難しくて一回聞いただけでは頭に入ってきそうになかった。それでもみことが、あるテーマに則って……つまり、みことの客に伝えたい気持ちが選んだと言うことは解った。
 緑の葉や夏の花、竹かご、どれも季節感があったが、暑さを忘れさせるような清々しさがあった。和菓子もそうだ。
 蘭丸の手にした器も指先に伝わる冷たさが気持ちよい。
 ガラスの器の中に、涼やかで爽やかな翠。
「暑さも吹き飛んじゃうわね」
 蘭丸は言って、最期の一口を飲み干した。
 他の客も小声で話し合い、微笑みあって、夏の暑さを凌ぎつつ、この凌ぐ風流を楽しんでいた。
 他の客が茶室を出て最後に蘭丸が出ようとすると、みことは待って、と引き留めた。
「もう一杯如何ですか」
「……いいわよ」
 蘭丸が座ると、みことはまた心を静かに落ち着けて、迷いのない所作でお茶をいれていく。
 無心にあるいはもてなしの心だけでお茶をいれる時間を過ごせているのは、果たしてどれくらい久しぶりだったろうか……。
 みことはこの程よい緊張感にすうっと心が軽くなるのを感じていた。
 蘭丸は黙って手の中の器に、水に映る夏の樹々の葉を見た。
 茶室は、しばらくの間、静かな落ち着いた時間で満たされていた。