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【三 鮮血の魔影】

 続く第二班が、突入を開始した。
 先頭を行くのは、正子を中心として肉弾戦に長けた面子で構成された楯部隊である。ところが突入した直後、正子の左右を歩いていたルカルカ・ルー(るかるか・るー)ザカコ・グーメル(ざかこ・ぐーめる)が、いきなり妙な表情を浮かべ、互いの顔を見合わせた。
「ねぇザカコさん……何か、おかしいよね」
「おかしい……どころでは済まないかも知れません」
 ルカルカの問いかけに、ザカコはルカルカ以上の警戒感を滲ませて、むっつりと頷いた。
 というのも、このヴァダンチェラ要塞遺跡に突入した直後から、彼らの視界の隅に、オブジェクティブ・オポウネントの認証コードが、常時出現したままなのである。
 これはつまり、オブジェクティブが近くに居ることを示しているのであるが、しかし見たところ、それらしい気配はまるで感じられない。
 だが、ルカルカとザカコが異様に感じているのは、それだけでは無かった。
「何っていうか……全体的に、変な違和感みたいなのを、感じる、よね」
「……ですね。こう、口で説明するのは中々難しいのですが、確かに、何もかも偽りの感覚、というような気がしてなりません」
 ルカルカに答えてから、ザカコはふと、正子に視線を転じた。
 相変わらずの強面ではあるが、その瞳の奥には疑念の色が見え隠れしている。矢張り正子も、ふたりと同じ感覚を抱いているのであろう。
「正子さんも、おかしいと思いますか」
「うむ……だが今は、頭の片隅に置いておく程度に留めておけ。まずは集中だ」
 低い声音で釘を刺されたルカルカとザカコは、確かにその通りだと互いに頷き合い、ひとまず警戒と探索に神経を研ぎ澄ませることにした。
 そんな三人の後方では、ラムラダ・フェンザードを本陣として、何人ものコントラクター達が堅い守備隊列を展開しながら、慎重に歩を進めている。
 ラムラダは、双子の妹ラーミラ・フェンザードとは本当に瓜二つで、一見すれば美少女と見間違う程の端整な顔立ちが特徴的な人物であった。
 彼はコントラクターではない為、あらゆる面で周囲の同行者達とは格段に劣る。
 正直なところ、ダリル・ガイザック(だりる・がいざっく)などはラムラダをスイートルーム内に連れ込むことに、反対の意を示していた。危険性と効率性を考えれば、ラムラダを連れて行くのは愚の骨頂であるとすら考えていたダリルだったが、家族の絆、そして愛する者の為に自分の力で何とかしてやりたいという想い、といったところをルカルカに切々と訴えられ、仕方なく、ラムラダのヴァダンチェラ突入に同意したという経緯がある。
 それだけに、どうしようもない危険が迫った場合には、ダリルは躊躇無くラムラダを地上へ撤退させる腹積もりでもあった。
 ところが現在、ダリルの思考からはラムラダに対する意識が半ば消えかかっている。理由は、ルカルカやザカコ達と全く同じで、突入直後からバティスティーナ・エフェクトの認証コードが起動したままになっていることに対し、強烈な疑念が湧いていた為であった。
「どうしたダリル? さっきから妙な顔をしているが」
「もしかして、詰め所で変な茶菓子でも食って腹を壊したのではないか?」
 カルキノス・シュトロエンデ(かるきのす・しゅとろえんで)夏侯 淵(かこう・えん)が口を揃え、からかうような調子でダリルに問いかけてきた。
 いつもならばここで、ダリルから辛辣な言葉が返ってきて、ちょっとした罵倒の応酬が発生してもおかしくないところであったが、しかし今回ばかりは、そうもいかない様子である。
 少なくともダリルにとっては、軽口を叩く為に意識を逸らして良い状況などではなかったのだ。
「悪いが、今は気の利いた台詞を考える余裕が無い。すまんな」
 無愛想なのはいつものことだが、ここまで何かに集中する様を見せるのは滅多に無い。カルキノスと淵はようやく、ダリルの意識がのっぴきならない事態を捉えようとしている事実を認識した。
「こいつぁ……相当気合入れてかからねぇといけねぇようだな」
「うむ。俺達も集中しよう」
 ダリル、カルキノス、淵の三人がこれ程までに、ひとつの目的に意識を揃えて集中させる姿を見せることというのは、実はそうそうあるものではない。
 従来であれば常に、何がしかの余裕めいた色をどこかに残していた三人だが、今回ばかりはそうもいっていられないようである。
「カルキノス、淵……ラムラダから、絶対離れるな」
 ダリルの指示に、ふたりは黙って頷いた。もとより、そのつもりである。
 カルキノスと淵を左右に従えた格好になっているラムラダはといえば、この中で一番、硬い表情を浮かべている。
 コントラクターでさえ、これだけ強い緊張感を見せているのである。
 ラムラダの表情が硬く強張るのも、無理の無い話であった。

 既に第一班が通過した後である為、一応の安全は確認されている筈である。
 しかし、ここは外敵の侵入に対して、守備兵が死角から不意打ちを浴びせてくるように造られている要塞遺跡なのである。
 先発隊が無事に通り過ぎたからといって、絶対に安全であるとは必ずしもいい切れない不気味さがあった。
 そんな中、冬蔦 日奈々(ふゆつた・ひなな)はラムラダと同じく第二班の中盤付近で歩を進めつつ、聴覚や嗅覚などに最大限の集中力を投入して、異変の有無をひたすらに探っていた。
 但し日奈々は盲目である為、足元の隆起や視覚で見える範囲の障害等に対しては、どうしても完全に無防備となってしまっている。
 そこで、七瀬 歩(ななせ・あゆむ)が日奈々の歩行補助を買って出て、日奈々の手を引いてやっていた。
 この歩のサポートがあったお陰で、日奈々は聴覚と嗅覚にほとんど全てといって良い程の集中力を投入し切っていた。
 そうして、第二班が長い下りのスロープを抜け、ようやく平坦な石床の広がる空間へと達した時には、日奈々の研ぎ澄まされた感覚がある種の異常を察知するに至っていた。
「歩ちゃん……ここ……普通じゃない、よ……」
 第二班の面々が、下りスロープの終着点の先に現れた巨大な広間のそこかしこを丹念に調べている間、通路口付近に佇む日奈々が、静かに警告の声を発した。
「それは、つまり……ここが恐ろしい施設だっていうこと以上の、何かを感じたってことかな?」
 歩が問い返すと、日奈々は緊張の汗を滴らせながら、小さく頷いた。背中に一瞬ぞくりと悪寒を感じたのは、要塞遺跡内に冷たい空気が充満しているせいばかりでもなさそうであった。
「上手くは、いえないけど……目で見える、ものを……見たままで、信じないで……」
 日奈々が放つ警告の意味を、歩は果たして、どこまで理解したのか。
 正直なところ、歩自身も日奈々のいわんとしていることを完全に呑み込めたという確信は抱いていなかったのだが、それでも日奈々がそのようにいう以上は、単純に視覚だけを頼りにしてはならない、という意識が芽生えるようになっていた。
「成る程、目に見えるものを素直に信じるな、ってか。どうやらザカコが感じている異変も、その辺と何か関係がありそうだな」
 不意に背後から、強盗 ヘル(ごうとう・へる)の、妙に苦り切った声が響いた。
 何事かと訝しげに首を傾げる日奈々と歩だったが、ヘルは不機嫌そうに右の人差し指をふたりの前にかざし、妙なことをいい放った。
「実はな、パラミタカナリアを連れてきてた筈なんだが……いつの間にか、居なくなっちまってたんだ」
 ヘルの疑惑に対し、しかし日奈々と歩はといえば、返すべき答えを用意することは出来ない。何が起きているのか、見当すら付かなかったのだ。
 それはヘルも同様である。
 懐に忍ばせておいた筈のパラミタカナリアが、何の物理的接触も無く、気が付いたら姿を消していたなどという馬鹿な話があるものか――普通であればそう考えるべきところであったが、ザカコから、彼とルカルカがヴァダンチェラ突入直後から覚えている異変について聞かされて以後は、最早何が起きてもおかしくないと割り切るところまで、ヘルは思考を切り替えるようになっていた。
「どうやら俺が思うに、目に見えるだけじゃなく、全身で感じることさえ、いちいち疑ってかからなきゃならねぇって気がしてるんだよな」
「でも、そうなると……何を信じれば良いのかな」
 歩の戸惑いの声に、ヘルもただ、広い肩を竦めるばかりである。
 だが、ヘルの意見は日奈々にとってもある種の衝撃を与えていた。視覚以外の感覚にはそれなりの自信を抱いていた日奈々だが、聴覚や嗅覚ですら怪しいとなると、一体何を頼りにすれば良いというのだろう。
「まぁ一番良いのは……何ひとつ信じるな、ってことになるんじゃねぇかな」
 究極に近いひとことを、ヘルは何の気無しにいい放った。
 だが、この考え方が実は、後で恐ろしく重要な意味を持つようになることを、今の段階ではヘル自身、認識するには至っていなかった。

 異変が生じたのは、その直後だった。
「何だ、この紅い霧は!?」
 瓜生 コウ(うりゅう・こう)が、鋭く叫んだ。
 ほとんど一瞬という信じ難い速度で、第二班の面々が散開している広大な空間が、真紅に染まる濃霧で、すっかり覆い尽くされてしまったのである。
 しかも、ただ紅いだけではない。気分が悪くなる程の、血臭に満ちた霧であった。
「これはまさか……血の霧か!」
 コウの端整な面が、戦慄の色に染まる。
 自身の言葉を確かめるように、コウは宙空で左手をさっと払い、そして自身の目の前で左掌を押し広げた。見ると、コウの左掌は予想した通り、鮮血で真っ赤に濡れていたのである。
 いや、左掌だけではない。
 真紅の霧に触れる衣服や髪、露出している肌などが悉くべっとりとした血糊で塗り固められていき、まさに全身が血の海に浸かったかのような状態に陥りつつあったのだ。
「馬鹿な……ここはまだ、スイートルームではない筈だぞ!」
 白砂 司(しらすな・つかさ)が愛用の槍を咄嗟に構えて、ラムラダを背後に従える位置を取った。
 空間中に漂う鮮血の霧が目に沁みる為、想うように視覚が確保出来ないのが辛かったが、それでも司は可能な限りの神経を集中して、周囲に怪しい気配が無いか、必死に視線を巡らせていた。
「ラムラダさん、じっとして、動かないで下さい!」
 サクラコ・カーディ(さくらこ・かーでぃ)も慌ててラムラダの傍に駆け寄り、いつでも抱きかかえて脱出する構えを見せた。
 ラムラダはただ、全身を緊張に強張らせ、頼り無い手つきで護身用の長剣を構えながら、その場に立ち竦むのみである。
 司がいうように、ここはヴァダンチェラ要塞遺跡のほんの入り口部分に過ぎない。スイートルームに至るまでには、ここから更に数ブロック進み、深層と呼ばれるエリアに到達しなければならない。
 であるにも関わらず、いきなりこのような不可解な現象が生じたということは、考えられる理由はひとつしか無かった。
「……七人の悪魔が、早くも仕掛けてきたって訳だね」
 桐生 円(きりゅう・まどか)の推論に、異を挟む者は誰も居ない。
 実のところ、円にはこの鮮血の霧を仕掛けてきた悪魔について、ある程度の推測を立てていた。というのも、彼女は既に判明している悪魔達の名前から、能力や特徴等を考察していたのである。
 鮮血の霧でこちらを翻弄している悪魔に関しては、円の脳裏には既にその名が浮かんでいた。
「この血の霧……これはスカイブラッド……で、間違い無いよね」
 自分にいい聞かせるように円が結論を述べたが、答える者は誰も居ない。
 その代わり、いつの間にかラムラダの傍らに佇んでいた正子が、妙に焦った表情でいきなりラムラダの手を取り、やや興奮気味にまくし立てた。
「ここは危ない。わしと一緒に、すぐに逃げるのだ」
 早口ではあったが、しかしどういう訳か、正子は僅かに声のトーンを落とし、余り広い範囲には聞こえないよう、野太い声を絞りに絞っていた。
 正子と付き合いの長い者であれば、それが本来の正子の態度ではないとすぐに気付いただろうが、しかし司とサクラコには、正子の異変に気付くだけの判断材料は無い。
 それは、ラムラダも同様であった。
 とにかくいわれるがままに手を引かれ、ラムラダは司とサクラコの傍を離れた。
 だが円がその光景を見た瞬間、ほとんど直感ではあったものの、ラムラダの手を引いて小走りに移動する正子が別の存在であることを、一発で見抜いた。
「駄目! そいつ、正子さんじゃないよ!」
 円の精一杯の叫びに、ラムラダの手を引いていた巨躯は一瞬だけ、目も鼻も口も無い、のっぺりとしたパペット人形の如き面を向けてきた。
 しまった、と円は内心で激しく地団太を踏んだ。彼女は、フェイスプランダーが誰かに変装して近づいてくるのではないか、という予測を立てていたのだが、しかしまさか、正子に化けて近づいて来ようなどとは、想像だにしていなかったのである。
(フェイスプランダー……顔を奪う者……んもう! 名前からして、何をしてくるか分かってた筈なのに!)
 円は、良い読みをしていた。しかし、それが結果に結びつかなかったのは、不運といって良いだろう。
 その一方で――。
「ま、待ちなさい!」
「馬鹿! ひとりじゃ無理だ!」
 サクラコが司の制止をも聞かずに、ラムラダを連れ去ろうとしているフェイスプランダーを追って駆け出して行く。
 他の面々も追随しようと試みたが、鮮血の濃霧という悪視界の中、フェイスプランダーの移動経路を目撃していなかった為、追うに追えないという失態を演じてしまっていた。
 無論、円は追った。彼女はフェイスプランダーの移動経路を、しっかり見ていたのである。
 サクラコとふたりだけ、というのは非常に心細かったし、まともに太刀打ち出来る相手かどうかの判断もつかなかったが、とにかくフェイスプランダーを追う以外に手は無かった。