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リアクション
1
空京にある、とある大きな美術館では現在、ヴォルフガング展が開かれている。
アントナン・ヴォルフガング。彼は、絵画、彫刻、装飾品の作製や作詞、作曲といった造り出すことに関して名を欲しいままにした、稀代の芸術家だ。
そんな有名人の展覧会が行われると聞いて、茅野瀬 衿栖(ちのせ・えりす)が行かないはずがない。
(人形作りの参考になるかもしれないし、ねー)
という考えは、ぴたりと嵌まる。様々な作品に、インスピレーションを受けて創作欲が刺激された。早く作りたいと、うずく。帰りたい。だけどまだ、見ていたい。
(でもでも、展覧会にはまた来れるし……)
衝動の方を優先しようと、見ていた絵の前から離れてやっと気が付いた。
あたりに人がいないことに。
「……え?」
声が、高い天井に吸い込まれていった。
「なんスかね、これ」
大股で歩きながら、紡界 紺侍(つむがい・こんじ)は低く呟いた。独り言でも零して気持ちの整理をしておかないと、ぐちゃぐちゃの頭が余計混乱してしまいそうだった。
美術館にはたくさんの人がいた。
閲覧する者、美術館職員、警備員。
いたはずなのに、今はいない。作品に見入ってしまい、ふっと我に返った時には既に、誰も。
まさか、閉館時間までぼうっとしていたのだろうか。ありえないとは言い切れず、慌てて出口へ向かってみるも誰もいない。扉も開かない。携帯を取り出し外部への連絡を試みるも、まるで契約を解除したもののように時計さえ表示されない有様。
自分でなんとかするしかないと、歩き回ってみるも誰とも出会えない。
いつの間にか美術館の照明は落ち、薄暗くなっていた。そのくせ空調は効いており、ひんやりとした空気が不安ばかりを煽る。幾度目かのため息を吐いて、紺侍は立ち止まった。
「――、――!」
「……?」
二階から、声が聞こえた気がした。振り返り、暗い廊下の先に伸びる階段を見遣る。足を向ける。歩き出す。
近付くと、声が女のものであることがわかった。聞き覚えのあるような、ないような。
警戒しながら歩いていると、声の主は踊り場に差し掛かったとき姿を現した。
「なんなのよ、ここっ!」
悲鳴と共に、階段の上から。何かから逃げるようなスピードで。
彼女には見覚えがあった。リンス・レイス(りんす・れいす)の工房で、何度か会ったことがある。それどころか、初対面の頃は迷惑をかけたことさえ。
「衿栖さん」
名前を呼ぶと、背後を気にしていた衿栖がこちらを向いた。
「! 写真屋!」
「紺侍っス。良かった、人が」
いた、と言って安堵するよりも早く、
「逃げますよ! 走って!」
逼迫した叫び声が響いた。
衿栖の背後から彫像が躍り出てきたのは、そのすぐ後だった。
人が消え音が消え、異様な雰囲気となった美術館の中を衿栖は歩き回った。
一階では誰にも出会えず、なら二階は、と上がっていったところ、目の前に彫像。驚いたものの、それがヴォルフガングの作品であることは知っていたので恐れることはなかった。この時までは。
二階もあちこち探し回り、そして誰もいないことに愕然とし、おかしい、とはっきり気付いた瞬間、それは起こった。
――がたん。
音がして、振り返れば倒れた彫像。不気味に思って後ずさる。その背に、冷たく固い感触。再び振り返る。そこにもまた、彫像があった。今しがたまで、こんな場所になかったはずなのに。
急いで離れ、壁に背をつけ目を閉じて息を吐く。落ち着け。怯えるな。正常な判断をなくすな。
きっと顔を上げたとき、目の前にマネキンの物言わぬ顔があり、叫んだ。
「――それからずっと、追いかけっこです」
彫像やマネキンだけでなく、絵も『敵』だった。迂闊に近寄ると、絵の世界から『何か』が飛び出してきたり、手を掴んだり。
「散々すぎる。なんなんですか、これ。ホラー? 紺侍さん、そういうの得意ですか?」
「フツーっスね」
「嫌いじゃないだけマシ、なんですかね……」
それに、見知った顔があることでいくらか気が楽になった。いつまでもひとりで、こんな場所で、わけのわからないものを相手に追いかけっこだなんて精神的にやられてしまう。
「二階、どっか出られそうなとこありました?」
「残念ながら。一階は?」
「なンも」
やっぱり、と息を吐いた。最初自分でも見て回ったけれど、ドアも窓も開かず途方にくれたのだ。
「力押しでなんとかならないですかね」
「壊しちゃってもいいなら」
「……非常事態だし。いいんじゃないですか」
半ば投げやりに言うと、そういうことならと紺侍が壁やドアを叩き始めた。壊せと言ったら壊せるほど、脆い作りとは思えないが。
しかし、衿栖の予想と裏腹に、ドアは存外簡単に壊れた。廊下の突き当たりにある、何の部屋が広がっているのか定かではない、ドア。僅かに開いたドアを指差し、紺侍は苦笑じみた笑いを浮かべた。
「けど、ここしか壊れなかったンで。ホラーってんなら誘われてるみたいで嫌っスね」
それに、そんな風に評すものだから否応なく警戒心が高まる。
「行きます?」
「行きましょう」
問いに、衿栖は頷く。いくらこれが罠かもしれなくても、より怖い目に遭う危険があっても、ここで立ち止まるわけにはいかないのだ。
こんなところに閉じ込められているわけにはいかない。衿栖には、会いたい人がいるのだから。会いに行くべき人がいるのだから。それはきっと、紺侍も同じことだろう。だって絶望的状況でも、目は死んでいないから。
「衿栖ー衿栖ー。どこいったのー?」
茅野瀬 朱里(ちのせ・あかり)は探して回る。
いつの間にか消えていた、衿栖の姿を。
「衿栖ー? 迷子のアナウンス流しちゃうよー?」
呟きながら、歩いて回る。
一階、二階、廊下の奥。
だけどどこにも衿栖はいない。
「……」
歩き疲れてソファに座った。足をぶらりと振り上げて、下ろす。意味のないことを繰り返して、思い出したくない記憶を封じようとする。けれど、それこそ意味のないことで。記憶は脳を埋め尽くす。
昔々の遠い記憶。
迷子のように、離れ離れになってしまった人。
今と同じように探して歩いて、見つからなくて、結局その人は、今も。
(嫌)
はっきりと、拒絶の言葉が浮かんだ。
(衿栖とも会えなくなるのは、絶対に嫌!)
すっと立ち上がり、美術館の中を走る。
館内で走らないで下さい、という冷ややかな女職員の声に、振り返ることはなかった。
壊した扉の先。
より冷たく暗い、細長い廊下を、手探りに歩く。
暗闇の奥から、おいでよ、と囁かれているような気がして、背筋を冷たい汗が伝った。
「嫌な場所」
口をついて出た言葉に、紺侍が苦笑した。
「嫌だからこそ、なんかあったらいいっスね」
「一足飛びで脱出というエンディングに向かってくれてもいいくらいです」
「ああ、オレもそのクソゲー仕様を推したいっスね」
「ええ、本当に」
前方は、闇に飲まれてしまっていて見えない。どこまで続くのか、何があるのか、一切。
こうして他愛のない話をしていないと狂いかねない闇と静寂と緊張に、吐き気まで催してきた。
一体いつまで歩けばいいのか。
まさか、もう出られないんじゃないか。
弱気な考えが頭を過ぎったとき、廊下の一部に白い切れ目ができた。いや、違う。廊下だと思っていた場所がドアで、そのドアが開かれたのだ。外の光が隙間から漏れて、切り裂かれたように思っただけだった。
光の先から何が出るのか。自然と互いに身体を寄り添わせて備える。紺侍が衿栖を庇うように前に出て、開かれようとするドアを逆にこちらから開け放つ。ぱっ、と明るい光に目が眩んだ。
「……っ」
息を飲む衿栖の身体に、とん、と衝撃。
やばい、と思うより早く、
「衿栖! 衿栖!」
朱里の、縋るような声が耳を打った。
「……え? 朱、里?」
「なんでこんなところにいたの? 急にいなくなったらびっくりするじゃない!」
「へ? え、待って、ここどこ?」
「倉庫、ですって」
衿栖が戸惑っていると、今度は紺侍の声。
(倉庫?)
いつまでも続く長い廊下が?
振り返り部屋を見たが、そこは倉庫としか思えなかった。狭い部屋。雑に詰まれた掃除用具。埃っぽい匂い。空っぽの棚。
部屋には窓もあり光が入るし、空気は澱み、ぬるい。
かけらもあの場所と似付かぬここに、より戸惑いを濃くして首をひねった。
結局、あの場所がなんだったのかは今でもわからない。
夢を見ていたのか、それともどこか変な世界に繋がってしまったのか。
「現実って怖いわ」
電話口でぼそりと呟くと、通話相手が疑問符を浮かべたようだった。
「そうなの、現実って怖いのよ、リンス! 聞いて、話してあげるから! ……はあ、って? 何よその反応! 怖かったんだからね!?」
まあ、無事に戻ってこれたのだから、いい。話の種がひとつ増えた。
そう思える程度には、衿栖はしたたかなのだった。