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【三 静かなる圧迫】

 最新鋭機晶式潜水艦バッキンガム。
 現在、この艦は航行を停止しており、もうかれこれ十日以上に亘って、パラミタ内海のどこかの海底に着底したままである。
 佐々布 牡丹(さそう・ぼたん)は機晶エンジンが空間の大半を占める機関室内で、もう何度目になるのか自分でも分からない程の溜息を、繰り返し漏らしていた。
 傍らのレナリィ・クエーサー(れなりぃ・くえーさー)も、牡丹の溜息が半ば癖となって伝染ってしまったのか、同じようにこちらも溜息を吐き出した。
「何ていうか……ものの見事に正常、だね」
「そう、なんですよねぇ……何もおかしなところが見当たらない。だから余計に、溜息以外、出てこないんですよねぇ」
 牡丹は、自他共に認める生粋の技術屋であり、機械屋である。
 壊れている箇所があれば即座に見抜けるし、また故障箇所がある方が、技術屋の本領も発揮出来るということで、それなりに仕事も発生するし、やり甲斐もある。
 ところが、今回彼女達が試験航行要員として乗り込み、そして異常な長期間に亘って着底を続けているこのバッキンガムの機関室内には、異常箇所は一切、認められないのである。
 それどころか、気持ち悪い程に正常に動き続けており、これ程健全な動作を見せているのであれば、自分のような技術屋など不要ではないかという思いすら、何度も浮かんでくる始末であった。
 しかしながら、これだけ完璧に機晶エンジンが正常に動作する環境が整っているというのであれば、後はもう動かす側の問題――即ち、バッキンガム乗組員の意思が、着底を続けさせていると考えるべきであろう。
 だが、牡丹にとってここでひとつ、不可解なことが起きている。
 実のところバッキンガム艦内では現在、大勢の乗組員が狭い艦内であるにも関わらず、行方不明となっているのである。
 幾ら大きな潜水艦であろうとも、限られた空間なのだから、探せば見つかりそうなものであったが、しかし実際には、消えた乗組員は艦内のどこを探しても、全く見つからない。
 しかも困ったことに、機晶エンジンを操作し得る機関士達が、機関長以下全員、姿を消してしまっていた。
 流石に潜水艦用機晶エンジンの何たるかは、牡丹ではまるで理解が及ばない。
 即ち、今はこのバッキンガムを動かしたくても、必要な人員が揃っていないという状況なのである。
 更にもう一度、すっかり癖になってしまっているのかと疑ってしまうような勢いで、牡丹が溜息を漏らそうとしたその時、重いハッチを押し開けて、セレンフィリティ・シャーレット(せれんふぃりてぃ・しゃーれっと)セレアナ・ミアキス(せれあな・みあきす)の両名が機関室内に足を踏み入れてきた。
「やほー。ここの調子は、どんな感じ?」
「これはシャーレット少尉……ご覧の通り、全くもって健全そのものです」
 セレンフィリティとセレアナに敬礼を送りながら、牡丹は微妙な表情を浮かべつつ、現状を報告するしかなかった。
 何か異常があれば、それなりに自分の技術や知識を加味して色々報告出来るものだが、ここまで見事に何も無いと、本当に退屈な返答を口にするしかない。
 勿論、そういう考え自体が不謹慎であることは牡丹自身、よく分かってはいるが、矢張りそこは生粋の技術屋としての思いが複雑に交錯していた。
 一方のセレンフィリティも、生存に必要な環境を維持する為には、艦内の異常箇所をいち早く特定して即座にその手当てに廻らねばならぬとの考えを持って行動を起こしていたのだが、幸い(牡丹とは異なり、セレンフィリティはこの辺り、正常な感覚の持ち主である)にも、生活環境を脅かす異常は現時点では何ひとつ発見されていない。
 当然ながら今後も警戒は怠ることなど出来ないが、この十日間の推移から考えると、目下のところ、彼女達にとって脅威なのはもっと別の存在であるようだった。
「こうなってくると……厄介なのは、例の噂……というよりも、半ば事実に近いあの現象、ね」
「例の、黒い影による神隠しってやつね」
 腕を組んで考え込むセレンフィリティに、セレアナが頷き返す。
 謎の黒い影が出現して以降、乗員が次々と神隠しに遭っている――それは即ち、その黒い影が犯人であると、ほとんど同義であるといっても良かったが、しかしまだ誰も、決定的瞬間を目撃した訳ではない。
 あくまでも今は、恐らくそうだろうという推測だけが独り歩きしている。
 その為、確実な対処法がまだ確立されていないというのが、最も頭の痛いところであった。
「じゃああたし達は、他を見て廻るわね。くれぐれも、ひとりでは行動しないこと。良いわね?」
 セレンフィリティは牡丹とレナリィにそんな指示を残して、セレアナとふたり、再び艦内通路へと戻った。
「……ま、あたし達は絶対、単独行動ってのはないけどね。色んな意味で」
「もう、セレンったら……」
 場を弁えないセレンフィリティの意味深なひと言に、セレアナはただただ、苦笑するばかりであった。

 トリップ・ザ・ワールドは、恐ろしい程に精神力を消耗する。
 それは本人もよく分かっている筈だったが、これ以上の安全地帯は無いということで、リカイン・フェルマータ(りかいん・ふぇるまーた)は定期的に自己の集中精神世界に浸り、そして疲れたら休息するという半ば修験者の荒行に近いような芸当を、もう十日という長い期間の中でひたすら繰り返してきている。
 その呆れるような集中力に感心するというよりも、飽きもせずによくやるよという意味合いの視線で、シルフィスティ・ロスヴァイセ(しるふぃすてぃ・ろすう゛ぁいせ)はリカインのすっかりくたびれた様子を眺めていた。
 リカインは今、自身に与えられた居室内のベッドにぐったりと横たわっており、その狭い室内のデスク脇に、シルフィスティが椅子に腰かけている。
 と、そこへ艦内の偵察に出ていたシーサイド ムーン(しーさいど・むーん)が、宙を浮くクラゲのような肢体で、ふよふよと空間を漂いながら室に引き返してきた。
 シーサイドムーンの様子を見ると、どうやら大した情報は得られなかった模様である。
 一方のシルフィスティも、ここ数日は外部と連絡が取れないか、彼女なりに色々と手を尽くしてきているのだが、今のところ芳しい成果は得られていない。
 矢張り深海での行動経験があまりにも少な過ぎるのが、彼女達にとっては最も痛いところであろう。
 しかも潜水艦などという特殊な空間内での行動ともなると、ただ経験が無いというだけではなく、様々な技量を必要とされる場所であるだけに、余計に無力感が漂ってきてしまう。
 実際、リカインにしろシルフィスティにしろシーサイドムーンにしろ、今のところは全くといって良い程、何も出来ていなかった。
「陸とか空なら、幾らでも活躍の自信はあるんだけどね……流石に海の中じゃ、お手上げかしら」
「……そうやって自己を知ることが出来たのなら、フィス姉をこの試験航海に参加させた意味があったというものかもね」
 リカインとしては、何かとすぐに暴走しがちなシルフィスティの性根を叩き直す為に、敢えて厳しい規律が要求される海軍主催の試験航行に彼女を連れてきた、という経緯があった。
 確かに今のこの状況は決して楽観視は出来ないのだが、そんな中で、シルフィスティが己の身の程を知り、無謀に暴れ出さなくなったというのは、それはそれで、当初の目的を僅かばかりか達成出来たといっても過言ではないのだ。
 尤も、陸に上がって再び暴走癖が復活するかも知れないという危惧も、あるにはあったのだが。
「そういえば、そっちは何か変わったものは見なかったの?」
「こちらは本当に平和でしたよ〜」
 呑気で穏やかな声の調子に合わせるように、シーサイドムーンはリカインとシルフィスティの間を、波間に漂うかのようにゆらゆらと浮遊する。
 こんな調子ならば、仮に不審な何者かと遭遇していても、無視されるか、或いは気づいてくれさえしないかも知れない。
 しかしながらシーサイドムーン本人は、しっかり真面目に偵察していた気でいるようであったが。
「それにしても、フィス姉が良い具合に勉強してくれているのに、肝心の軍の方が、艦長も航海長も機関長も不在で、将校は試験航海に参加したコントラクターの教導団員しか残ってないってのも、皮肉な話だわね」
 リカインのいうように、バッキンガムを動かす為に必要な指揮系統が、ものの見事に欠落してしまっているのが現状であった。
 艦長と航海長、そして機関長はいずれも、例の神隠しと思しき現象に遭遇して、姿を消したものと思われるのだが、真実は誰にも分からない。
 ただ、例の謎の影が出没する前後から、三人揃って姿が見えなくなったというのだから、何らかの関係があるのはほぼ間違いない、と考える向きが圧倒的多数であった。
「でも、こんな狭くて密閉された空間の中で、どうやって神隠しに遭うんだろうね?」
 シルフィスティが大真面目に首を捻ると、ベッドの上からリカインが、
「居場所も連れ去られた方法も分からないから、神隠しっていうんじゃないの?」
 などと容赦無く突っ込んできた。
 いわれてみれば確かにその通りで、シルフィスティも、あぁ成る程、と呑気に合点している始末だった。