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白雪姫へ林檎の毒を

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 学校から帰宅した妹が、真っ直ぐに彼女の自室で無く自分の部屋に駆け込んでくる理由を、アレクは知っている。だから何時だって自分の方が早く帰った日には、椅子にも座らずに部屋の真ん中に立って彼女を待っていた。こうすれば全身が見える。扉を開けて直ぐに、何の異常も無い事が一目で分かるだろう。
 ミリツァが不安に顰めた眉を安堵で緩める迄に、一秒でも多くの時間が掛かるのが厭だった。泣きそうな顔をしている妹を見ていたく無かった。ただでさえこの頃は、彼女から明るい表情が消えていっているというのに――。
「ただいま、お兄ちゃん」
 薄く微笑んで鞄を投げると、ミリツァは何時も存在を確かめる様にアレクに抱きついてくる。学校から屋敷へ帰る間に兄の身に何か起こっていないか、それがたった数十分かそこらの時間だとしても彼女の苦悶が消えた事は無いのだろう。
 少し前まで放課後は友人と長い時間をかけておしゃべりをしていた妹が、今は毎日額に汗の粒を光らせて肩で息をしている。社交的だった彼女の世界が一気に閉じていく様を、アレクはバカみたいに眺めるしかない。見えるもの全てに背を向けて、同じ色の瞳にお互いの姿だけを映し続ける。幼い兄妹が選んだ傷つかない為のやり方だった。
 それでもこの日は、残された罪悪感がアレクの口を勝手に開かせてしまった。
「――最近はマリヤナと遊びに行かないんだな」
 親友だった筈の少女の名を出されて、膝の上に寝転んでいた小さな妹の身体が揺れるのを、アレクははっきりと認識している。
「ラドゥミラも、カタリーナとも、前は毎日――」
「話が! …………合わなくて……、皆……子供っぽいのよ。だから年上の人と居る方が楽なのだわ。お兄ちゃんと一緒の方が……私は楽しいの。
 アレクが居れば私、友達なんていらない」
 段々と小さくなる声が、おぼろげな最後の言葉がアレクに突き刺さる。長い睫毛を伏せる一瞬前、瞳の中に暗い影が掛かっていたのを見逃していた訳では無い。
 妹にこんな言葉を吐かせて、こんな顔をさせている自分に対して、今は自責と自嘲の気持ちしか無い。
 膝の上に涙の暖かさを感じるのに、それを拭ってもやれない。口からは「ごめん」と繰り返すだけの情けない言葉しか出てこない。
 それでも彼女を離してやる事はどうしても出来なかった。
『お父様が何をしても、お母様がそれを無視しても、そのせいで皆がお兄ちゃんを怖がっても、私だけは味方だよ。ずっと一緒に居てあげるから、泣かないで』
 どうしてあの日、あんな約束を交わしてしまったんだろうか。
『大丈夫だよミリツァ、泣かないよ。
 お前が傍に居てくれるなら……、俺はもうあの人達にどう思われようと構わない。何も要らない。』
 どうして自分は、あんな答えをしてしまったんだろう。
『うん、私も同じでいい。皆にどんなに言われてもいい。
 アレクと一緒にいられるなら、お父様も、お母様も、お友達も、何も欲しく無い。』
 どうして、世界に背中を向けようとしたと彼女に首を振る事が出来なかったんだろう。
 答えは知っている。
 父と母と、世間と、
 なにより自分が怖かった。
 唯一の庇護者を失って、心が壊れてしまうのが怖かった。
 ミリツァは何時も手を伸ばしてくれる。だからアレクはその手をとって、たったひとりの妹に甘え続ける。数日前に橈骨を折られたばかりの手では、握り返すだけで激しい疼痛が襲ってくるのに、目を瞑ってそれを無視した。痛みなど無いのだと、こうして二人手を繋いでいれば泣く事なんて無いのだと、自分にまじないをかけるように嘘をつき続ける。
 心身共に子供である彼はどうしようもなくちっぽけで、無力だった。生きる為に卑怯になるしか無かったのだ。

* * *

 数時間前に電気を消した部屋の中では、端末の画面の明かりすら目に痛い。
 アレクサンダル四世・ミロシェヴィッチ(あれくさんだるちぇとゔるてぃ・みろしぇゔぃっち)はベッドに寝転びながら、100名以上の名前が連なる画面をひたすらスクロールさせている。端末の上に羅列された名前は、彼の部下のものだ。トーヴァ・スヴェンソン(とーゔぁ・すゔぇんそん)が調べ上げたこのデータは古いものだから、今は恐らく倍以上に膨れ上がっているのだろう。
 妹ミリツァが彼等の一人を『友達』と呼んだのを聞いた時、アレクは頭が殴りつけられたような衝撃を覚え、愕然とした。
 自分を守る為に友達を捨てなければならなかった彼女が、洗脳した手駒を『友達』と呼ぶ。妹の奥底に眠る心情を慮れば、否定の言葉を安易に口に出す事は出来ない。
 人として間違った事を止めたい、家族として妹の間違いを正したい。だが自分は彼女を狂気に引き摺り込んだ張本人なのだ。そんな権利などあるのだろうか。
 この一月の間考えは堂々巡りするばかりで、何一つ進まなかった。
 時間が解決してくれるとは思わないが、今はそれに頼ってゆっくり解きほぐす様に、兄妹として間違った時間をやり直すしかないだろうと、そう思い始めていた矢先だった――。
 端末の画面に、メールの着信が表示される。
 差出人はキアラ・アルジェント(きあら・あるじぇんと)。定例の決算報告について直接会って話しがしたいという内容に、迫る眠気から何と無しに了解の返信してしまう。
 それから端末を投げてもう目を閉じた。これ以上何かを考えて居たく無い。少し眠りたかった。
 無意識にリネンの上で泳いでいた手は、彼女を求めている。
 乳白金の髪を、見上げてくる海より青い瞳を、全てが瞼の裏に焼き付いているのに今は遠い彼女を――。