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第3章 癒しと修繕


 オッサンと騾馬が山のように積んで運んできた蔵書は、作業台替わりの大きなテーブルが2つ並んだ部屋に持ち込まれた。
 すでにもう運び込まれた書物の山があちこちにある。
 『リピカ』(リピカ著『アカシャ録』)『爺さん』(異本「秘蹟大全」)はすでに、クラヴァートの指示のもと、その修繕作業を始めている。

「蔵書があまりに膨大で、目録作りもままならなくてね。お恥ずかしいことですが」
 傷んだ古代の文献を広げる酒杜 陽一(さかもり・よういち)の前で、クラヴァートは、誰に対するものか済まなそうな気弱な笑みを浮かべ、そう語ったものだった。
「手伝わせてもらうよ。書物の分類は利用者にとっても、ここの書物自体にとっても、きっと助けになるだろうから」
 書物の感情が空気の中波のように微かに漂い出すこともある、この不思議な世界の図書館では、書物の心の安定も存在の形を決定する重要な要素になる。
「ありがとう。それもありますが、もし動揺が酷い書物があったら注意してください」
 クラヴァートは、やや声を低くして陽一にそう言った。
 今、館の地下書庫で、蔵書達と魔道書との間で一悶着が起きつつあるらしいという話は、ここで修繕作業を手伝う契約者たちも小耳にはさんでいる。クラヴァートの言葉には、そのことを暗にさす含みがあった。
 クラヴァートは、陽一だけでなく、この部屋で修繕や分類の作業を手伝ってくれる契約者全員に向かって言った。
「……そのことで、何か気付いてたり知っていたりして、感情を乱している可能性もありますから。
 できれば落ち着かせて、話に耳を傾けてやってください」
 陽一は頷いた。


 紙テープに鏝、等々……物理的な修繕に必要な道具は揃っている。
 それらを使って傷んだ本を直している間、陽一は鼻歌で【幸せの歌】を歌い、平穏でない書物たちの心もなだめ、穏やかにさせるように努めた。
 その間も【記憶術】で、修繕を手がけた書物の名前や特徴を覚え、目録を作るクラヴァートの手助けも忘れない。
 『繕い妖精』たちも、背表紙の小さな痛みにテープを貼ったり、ページの破損を直したりしている。
 ――最初のうちは、さほど問題のない書が多かった。
 時折、まだ人の手が怖いのか怯えたような様子でなかなかページを開かない者がいるくらいで。そういう書に会うと、陽一は地道に、辛抱強くその言葉に耳を傾け、恐怖を除く最善の努力をした。
(怯える者の心は焦って開こうとすれば逆効果にしかならない)
 そのうちに、奇妙な……恐怖ではなく「僻み」のようなものをぽつぽつと訴える書物が出てきた。
「俺らはどうせ、大した魔力もない古くて歪なだけの書だよ」



「なんでそんなに卑屈になる必要があるかな」
 クリストファー・モーガン(くりすとふぁー・もーがん)は、そう言いながら、拗ねたように「自分は所詮ガラクタ」と卑下する、表紙がぼろぼろの分厚い魔法書を見下ろした。
 古びている割には、どのページにも大して捲り癖がないところを見ると、長いこと書棚の肥やしだったのだろうか。
「グーテンベルク聖書だって誤字脱字はあるし、エラー切手にはプレミアがつく――何に価値があるかはまちまちさ」
 クリスティー・モーガン(くりすてぃー・もーがん)が【幸せの歌】を歌っている。それは、ひどく傷んだ本たちの魂を震わせて活力を起こさせる。それが時々、同じ部屋で陽一が口ずさむ歌とも相俟って、室内中に幸福感を喚起する旋律がさざ波のように広がり響き渡るようだった。
 それが、空気から伝わって、本たちの心を少しずつ、解きほぐすようだった。
 時間が経過して歌い手をパートナーと交代し、クリスティーはその分厚い魔法書と相対した。物理的な補修は、だいぶクリストファーが済ませてあった。
「大英図書館には納本制度というのがあって、英国で出版された本の永続保存をしてるんだ……」
 と、クリストファーから聞いたんだけど、と付けて前置きにして、クリスティーは続けた。
「――そこでは、本の内容に尊卑をつけたりはしない。
 全ての本にはこの図書館に納まる権利があるという事だよ。
 万人に読まれる本と一部の者にしか読まれない本は出るだろうけど、真の意味で万人に受け入れられる物なんて存在しないよ。
 逆も然りだよ」
 キミを拒絶した人と同じ価値観の人間ばかりじゃない、受け入れる人と同じ価値観の人間ばかりじゃない。
 静かな幸福感に満ちた歌の、柔らかで優しい響きの中、クリスティーが静かな声音でとつとつと語ると、拗ねて己を卑下して黙りこくっていた分厚い本は、口を開いた。
「……それは分かる。
 そして、ここに来たからには、あの世界の価値観には縛られなくて済むのではないかとも思っていた。
 だが、ここに来てもやはり、書物同士の格差はある」
「格差?」
 その言葉に、クリスティーは眉をひそめた。
「……。書庫の奥の、一部の本が最近、騒がしいんだ。
 魔力を使ったり、過去どれだけ人間に持て囃されたかを語ってたり」
 クリスティーは、歌っているクリストファーに目くばせする。
 先程のクラヴァートの注意を、2人は思い出していた。



 陽一の手元の方にも、同じようなことを口にする書物がちらほらと出つつあった。
「これは、例の件と何か関係が……?」
 そう言ってクラヴァートに視線をやると、クラヴァートも眉根を寄せて指先で顎を捕え、しばらく考え込んでいたが、
「念のために、そういう話をしている蔵書のいる場所を控えておきましょうか」
 と言うと、目録つくりに使うメモを一枚引き寄せた。
 もう一度、落ち着いてなるべく詳しくその話を聞こうと、陽一が、「最近魔力を持つ書物の騒ぎに辟易し、そんな魔力を持たない自分の価値を見失っている」という軽い鬱状態の古代易占解説本の方を見ると、アニマルセラピーの効果があるかもしれないからと陽一が連れてきた『ペンギンアヴァターラヘルム』のペンタや『パラミタペンギン』が、どんよりしている書を景気づけようと、周りを飛び回っておどけて(?)いる。繕い妖精たちも忙しなく動いているテーブル上は、見ようによってはファンタジーな世界である。
 その時、そのテーブルの端に置かれたスタンド型の止まり木に、小型のフクロウが止まっているのを陽一は見た。
「…あれは?」
「あれは、書庫内に入っている魔道書が、自身のページから召喚している鳥です。
 万が一こちらで重要な情報が入った時には、彼に飛んでもらって、書庫内までそれを伝えることになっています。そのためにこの部屋に置いていったのです」
 ペンギンと妖精とフクロウ。
 最後のは陽一とは関係ないが――奇妙にテーブル周辺のメルヘン色が増した。


 蔵書たちの現在のここの書庫内での悩みの種……他の蔵書の精神状況を左右するような言動を取る蔵書のことは、司書クラヴァートに処理を一任することにし、クリストファーたちも修繕作業に戻ることにした。
(……)
 クリストファーが幸せの歌を歌い、時折【命の息吹】で破損した個所の痛みを訴える本を癒している傍らで、クリスティーは、手に取る書物や文献に、素早くしかし入念に目を走らせていた。
 ――万人に受け入れられる価値はなく、逆にすべての人に受け入れられない価値もまたない。
 どんな自分であれ引け目を感じることはない、あの書にはそう伝えたけれど。
(……奇異の目で見られるのが恥ずかしくて、自分のことを隠している人間が言っても、説得力がないかな……)
 自分とパートナーとの人格交代の事実を。
 手にした書物に目を落とす。
 自分が何を捜しているかは分かっている。身体と魂を切り離し、さらに別々の身体と魂を結びつけることも可能にするという術。効果は永続ではないが、自分たちのこの状態を元に戻すことも出来るかもしれない、吸血鬼が戯れに生み出したと謂われる魔術。
 その知識を伝える文献が存在しないか。修繕に意識を向けなくてはと思いつつ、頭の中で気にかけていて、目で追っている。
 元に戻りたいと考えていた昔と違い、今はもう、交代後に重ねた経験や培った人間関係を反故にはしたくないと考え、現状を受け入れるようになっていた。それでも、もし他の誰かが同じような現象に遭って苦しんでいたら――助けてあげたい。同じ苦しみを、味わってほしくはないから。
 ここでそれが見つからないかと、そこにある文字を目で追い、探している……
 修繕作業の傍らで。