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第8章 庫外ブレイクタイム


 音もなく翼で空を切り、広間にベスティのフクロウが飛んできた。
 少しぼろぼろになった紙切れに、最後の書き込み。クラヴァートはそれを広げ、ホッとしたように唇を緩めた。
「いい知らせが?」
 陽一が尋ねると、クラヴァートは頷いた。
「どうやら、書庫内の騒ぎは収まったようです。
 他の書の気を乱していた、何やら騒いでいたという書とも話が付いたと書いてあります」
「それはよかった」
 陽一はそう言って、修繕中の古い書に向かって話しかけた。
「これからは書庫では静かに過ごせるようだよ」
 繕い妖精に剥がれかけた背表紙を縫い止められながら、その本は、微かに頷いたような気配を一瞬、見せていた。



「もうこんなに出来たのか。ずいぶんやったもんだなー」
 クリストファーは、修繕を終えて部屋の隅に積んだ本を見て、はあっと嘆息した。
 地下書庫の膨大な書物のすべてを……とまではさすがにいかないが、それでもかなりの書物の修繕を終えた。物理的な修繕を受けながら、ヒールスキルで精神的に塵を払った書物たちは、書庫に放り込まれたままだった時とは違う活力を経て、どこか前よりも色彩まで鮮やかになったように見える。
「ここまで変わるもんなんだな……」
 感心したように呟くクリストファーをよそに、クリスティーはまだ手を止めず、未修繕の本のページを念入りに調べ、傷み具合によって仕分けている。
「少し休んだら?」
 クリストファーがパートナーにそう声をかけたところで、クラヴァートがやって来た。
「だいぶ修繕が進みましたね。……本当に、貴方がた契約者の皆さんのおかげです」
 そう言ってクラヴァートは頭を下げる。クリストファーも軽く会釈して応えた。
「そろそろ片付けの準備に入りましょう。終わった分を元の場所に戻す手伝いをしていただけるとありがたいのですが……」
「分かった」
「扉の所に運搬用カートがありますから、それを使ってください」
 クリストファーが出ていくと、クラヴァートはクリスティーに声をかけた。
「……お探しの本は見つかりましたか?」
 クリスティーは手を止め、目を上げてクラヴァートを見た。
 探しているものがあることは、彼に言った覚えはなかった。
 だが、悪びれるのはやめておくことにした。
「分かりますか」
「本に何かを探す人の目は、見ててそうと分かります」
 クラヴァートは何気なさげに答える。
「見つかっていないようですね」
「……えぇ」
「何をお探しかはお聞きしますまい。ですが、ここは『失われた書』の館です」
 クラヴァートは微笑してクリスティーを見るのだった。
「まだ貴方がたの世界に現存する書が、ここで見つかることはありません」
 見つからない、ということはその可能性もある。
 暗にそう言っているのだろう。クリスティーはどう答えるべきか分からず、返事の代わりに静かに目を伏せた。



「冬虫夏草の専門書があるとは思わなかったね……」
「そうだね」
 お嬢とリシが言いながら、書庫からやって来た古代中国語のその本を眺めている。
 北都の狙い通り蔵書の協力も当たって、薬草園の作業は、実働人数の割には結構進んだ。キノコ類のような、純粋な植物とは違うものも、専門書のおかげで何とか栽培の環境を形作るハウスを庭園の片隅に整えられた。イルミンスールから持ってきた薬草も、設けられた区画ごとに整然と並べられた。
 イルミンスールからのもの以外に、弥十郎が持参したものもあり、頭数が増えたことで緑は当初の予定以上の賑わいを見せそうだ。
「これ、実家から届いた芍薬がなんですよ」
「根の部分を生薬に使うんですが、夏前くらいに綺麗な花が咲くと思いますよぉ」
「ちなみにこの芍薬はまた綺麗な赤を出す芍薬でしてねぇ……」
 こと薬草に関しては、弥十郎の話は止まらない。作業をしながら耳を傾けていたネミやキカミも、話が長すぎて(腰を折るのも悪いし…)とどうしたらいいか分からなくなっている。
 見かねた八雲が、【精神感応】で弥十郎に話しかけた。
『おい弥十郎、周りを見てみろ。皆が疲れているぞ』
 それを受けて周囲を見渡した弥十郎は、その様子に素直に指摘を受け取った。
「あ、皆さん。なんだかお疲れですね。ハーブティでも作りましょうか。
 ずっと休憩らしい休憩もなかったですからねぇ。やっぱり庭作業は一息つく時間も大切ですよねぇ」
(いや、作業疲れじゃなくて)
 と思わずツッコミそうになった八雲だが、堪えて力なく苦笑した。
 実際弥十郎の言葉通り、大して休憩もしていないので(作業しながら夢中で薬草の話を続ける弥十郎に付き合って、何となくここで作業の手を止めてはいけないような気がしていたからなのだが弥十郎だけが気付いていない)、ハーブティーで休憩、というのは粋な提案でもあった。
「生でお茶に使えそうなハーブは……と」
 苗が多すぎたり間隔を空ける関係で少し余っている草がある。弥十郎はその中から適当に即興でブレンドするつもりらしく、物色して考えている。

「休憩なら、ソーマも呼んでこようかな。司書さんや、蔵書整理している人にも声をかけてみようか」
 北都がそう言って、館の方へ向かった。ソーマを迎えに行かなくてはいけないことは、分かっているのだった。
 館に入った時、振り返って、窓越しに薬草園の方を見た。
 窓外に緑が育って美しい眺めが楽しめる日を想像し、少し微笑んだ。

「弥十郎、これ」
 選んだ数種のハーブを手に、湯を沸かす準備をしようとしている弥十郎に八雲が声をかけ、丸くてかわいらしいキノコを手渡した。
「これもそのお茶に入れたらいいんじゃないかな。いい香りしているし」
「これは何?」
「さぁ。そこの、キノコハウスの入口のところにあった。例の冬虫夏草って奴じゃないのか」
「さっき見たのとはだいぶ違うよ。でもまぁ、キノコの類は栄養価が高いものが多いし、いいかもね」
 一度香りを嗅いでみて、弥十郎は頷いた。



(そろそろ手伝うかな。かつみ達ばかりに働かせる訳にもいかないしな)
 満足するほど読書を堪能したところで、ノーンもまたかつみらに混じって蔵書整理の手伝いをし始めて間もなく。
「ノーン、……これ」
 かつみと共に地下書庫に行って本を運んで戻ってきたノーンに、エドゥアルトが1冊の大ぶりな本を差し出した。
「?」
「もしかして、見つかったのか?」
 ノーンの疑問にかぶせるようにかつみが尋ねるが、エドゥアルトは首を振った。
「それじゃあないんだけどね」
「それ、とは」
 訊こうとしたノーンはふと、かつみが、自分の持ち主の探していた本の書名を訊いたことを思い出した。
「もしかして、お前たち」
「見つけたかったんだけどね、本当は」
 エドゥアルトが先回りして、言葉を紡いだ。
「でも、これ……ここ」
 百科事典のうちの1冊のような、大きなその本を捲り、ノーンに見せる。
「これは?」
「この時代に出された本の書評集のようだね。かなり膨大な数の本を網羅しているよ。
 ――ほら、ここに」
 指差す先に、ノーンが口にした書の名前があった。

「本当は実物が見つかるとよかったんだけどな」
 テーブルの上で、書評集の1ページを熱心に読むノーンを遠巻きに見ながら、かつみはそっとエドゥアルトに囁いた。分かっている、というようにエドゥアルトも頷く。
 もし本が見つかったら、それをノーンの傍に置いておいてやれば、様々な時間から眠る人間の精神体が幻影の形を取ってやってくるこの世界、もしかしたら持ち主の幻影が探しにきて、ノーンに持ち主の姿を見せてやれるかもしれない――そんな風にかつみは、わずかに希望をかけていたのだが。
「……でも、あんな風に他の本の中にその名前が出てくると、その本が実在していたんだっていう実感が感じられるんじゃないかな」
 エドゥアルトは言った。
「クラヴァートがさっき言ってたよ。『ここにない本は、現実世界で失われてはいないという可能性もある』って」
「なるほど」
 ――本の中にある本の記録に、本の実在したことを感じる。
 その先に、それを探した人の実在が朧な影となって見える……
 ふと、ノーンは顔を上げる。
 誰かが薄く笑みながら、本を読む自分を見守っていたような気がして。
(……気のせいか)
 重たい本を抱え直し、ノーンはふと微笑のようなものが浮かんでくるのを禁じ得なかった。
 こんな分厚い本の中身まで気を付けて自分の探し物を一緒に探そうとしてくれた、自分の古い古い繋がりのことを大切に思ってくれた仲間たちに、素直に感謝の気持ちが生まれた。

(人が本を読むように、私もまた、人という生きた物語を読んでいるのかもしれないな。
 ……願わくば、彼らのこれからも、幸せな物語でありますように)




「言っとくけどな、俺、迷ってたわけじゃないからな。途中で変な本に絡まれて……」
 ソーマが威勢よくもくどくどしく「戻ってこなかった」理由を(北都は訊かないのに)話す、そのソーマと並んで庭園に戻ってきた北都は、
「駄目だ! 茶を飲むな!! はっはっはっはっはー!!」
 というけたたましい笑い混じりの叫びが、薬草園のある方から響いてくるのを聞くことになる。

 お茶を飲んで休憩していた一同が談笑していると、急に、飲んだ人が一度笑い出すとなかなか止まらなくなり、危うく呼吸困難になる寸前にまでなった者もいたとか。
 その詳細は後になって判明することになるが、取り敢えずおかしなキノコが原因だったらしい。